ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《王録》 九章 二節
『空で戻る車輪は、積んで進む荷よりも先に道の値を変える。』
翌朝、豆スープの匂いが少し濃かった。
それだけで、食堂の列は昨日より長くなる。
鍋の前に並ぶ兵も、冒険者も、補給係も、同じように湯気を見ていた。
同じものを見ているのに、同じ立場ではない。
量を見る人。塩加減を見る人。鍋底の焦げを見る人。同じ鍋でも、見ているところは人によって違う。
僕はといえば、ただ列の長さを数えていた。
「中尉さん」
昨日の冒険者が、椀を持ったまま近づいてきた。
寝癖が片側だけ残っている。左の袖口は縫い直した跡が粗い。たぶん、自分でやったのではない。仲間の誰かが急いで直した縫い方だった。
「はい」
「昨日より、ましです」
僕は鍋の前を見た。
食堂班の一人が、底を焦がさないよう木べらを動かしている。
「食堂班へ伝えます。言い方は少し変えます」
「そのまま言うと怒られますよ」
「では、昨日より進歩しています、と伝えます」
椀の中身は粥というより、湯に近い。それでも昨日よりは具が沈んでいた。
「軍人って、そういう言い換えを習うんですか」
「最近、現場で覚えました。鍋の前では、弾薬庫より言葉を選びます」
冒険者は笑って、椀の縁を指で拭った。
その指先には小さな火傷の跡がある。
鍋ではなく、銃身か歯車の熱だろう。
彼は戦う人で、運ぶ人で、たぶん昨日の夜は修理もした人だ。
名前を聞いていなかった。
それに気づいたのは、彼が列へ戻ろうとした時だった。
「すみません」
「はい?」
「名前を聞いてもいいですか」
彼は少し不意を突かれたように、椀を持ち直した。
「グラスです。組合ではグラス・テム。さん付けは、むずむずするのでやめてください」
「では、グラス。帳簿にもそう書きます」
名前を呼ぶと、昨日の荷台の上にいた眠そうな人ではなくなる。
袖を縫われた人。火傷を残した人。薄い豆スープを覚えている人。
僕は、そういうものを後から足している。足すのが遅い。でも、足さないよりはましだ。
「今日も走れますか」
「条件次第です」
グラスは椀を受け取ってから、まだ一口も飲んでいない。
湯気だけが、鼻先でほどけていた。
「帰り荷は用意します。食事は、昨日より少し濃くします」
「危険手当は」
「上げられません」
そこで、彼はようやく椀に口をつけた。
味を見るためではなく、返事を遅らせるために見えた。
「正直ですね」
「嘘をつくと、次に来てもらえません」
「正直でも、安いと来ません」
「安いのは否定しません。別のもので埋めます」
僕は椀を片手に、食堂の壁へ貼った簡易表を見た。
行き荷。帰り荷。食事。
救護協力。修理協力。組合評価――最後の欄だけ、字がにじんで読みにくい。
欄が増えている。欄は、人を助けることもある。人を縛ることもある。
どちらになるかは、書く側の手つき次第だ。
「グラス。今日の帰り荷は空薬莢だけではありません。修理済みの予備歯車が三、結界導線が二束、あと負傷者の軽装備を後送します」
「軽装備?」
「本人は救護所に残ります。装備だけ戻します」
グラスの椀が止まった。
「死んだ人のじゃないんですね」
「生きています。戻すのは替えの上着と、壊れた結界具だけです」
「なら、運びます」
グラスは、椀を少し下げた。
豆が一粒、縁に引っかかっている。
「死んだ人の装備は、別で言ってください」
「運ばないわけじゃないです。ただ、先に言ってください。荷台の中で気づくのは嫌なんで」
その言葉は、椀の湯気より低いところに落ちた。
僕は頷く。
「分かりました。明記します」
「お願いします」
グラスは列へ戻る。僕は表に、小さく一行を足した。遺品・生存者装備の区別。
また欄が増える。でも、この欄は必要だった。
✶
午前の会議は、食堂より冷えていた。
補給係、会計担当、通信兵、組合連絡員、工兵班の下士官。
机の上には、地図ではなく箱の絵が並んでいる。
箱の絵は雑だった。
会計担当が描いたからだ。
本人もそれを分かっていて、定規を横に置いたまま使っていない。
「箱は絵の出来で運ばれるわけではありません」
会計担当が先に言った。
「誰も言っていません。少なくとも、今日は絵で揉める余裕がありません」
「中尉なら言いそうでしたけど、本当に?」
「今日は言いません」
通信兵が咳をした。笑いを隠すには下手だった。こういう緩さは、残していい。
残さないと、会議は箱より先に人を削る。補給係が帳簿を開いた。
「問題は三つです。帰り荷がある場所と帰り道を持つ依頼が合わない。責任印が統一されず、組合側で受けられない箱が混じる。食事と救護協力の評価欄が、まだ組合台帳へ正式に入っていません」
組合連絡員が肩をすくめた。
「正式に入れるには、うちの上役が渋ります」
「理由は」
「軍の仕事に寄りすぎると、普通の依頼主が怒る」
連絡員は台帳の余白を爪で叩いた。軍務の欄の隣には、街道組合の古い印が残っている。
「普通の依頼主」
「商家、街道組合、地方倉庫、教会系の施療所。あちこちです。冒険者は戦争だけで食ってません」
「そこを削ると、戦争以外の道が痩せる」
「そうです」
補給係が、帳簿の行を追う。
「軍の補助欄ではなく、組合の一般評価へ入れる形にしますか」
「救護協力、帰り荷整備、危険地帯往復経験。そういう名目なら通ります」
「軍務協力ではなく」
「それは嫌がられます」
言葉の置き換えで、現実が少し動く。
都合のいい誤魔化しにも見える。
でも、言葉を間違えると、箱は動かない。
「なら、こうします」
僕は会計担当の箱の絵に、線を引いた。前線へ行く線。戻る線。
北街道へ抜ける線。小さな倉庫へ寄る線。
「一つの依頼として見ないでください。節点ごとに切ります」
「節点」
「前線、旧水路、補給倉庫、北街道、市場前倉庫。そこで荷を組み替える。行きの危険だけでなく、帰りの価値も依頼に入れる」
工兵班の下士官が、椅子を少し引いた。
木が擦れる音がした。
「それ、車列を増やすんですか」
「増やしません。空で戻る車列に、戻る理由を積みます」
「帰り荷がない日は」
「食事と評価を積む」
会計担当が、定規を手に取った。
今度は使った。
「中尉。それは、会計上は三つの依頼を一つに見せる処理です」
「見せるだけですか」
「いえ。実際に繋がっていれば、処理できます。ただし、繋がっていることを証明する紙が要ります」
「紙なら作れます」
会計担当の定規が止まった。箱の絵と矢印の間に、まだ細い隙間がある。
「軽く言いましたね」
「重く言うと、紙が重くなります」
「紙は最初から重いです」
会計担当はそう言って、箱の絵の横に細い四角を描いた。
「仮の連結札。軍印、組合印、倉庫印。三つ押す。途中で荷が変わっても、依頼の線は切れない」
「名前は」
「名前ですか」
名前。名前を付けると、物は少し強くなる。強くなりすぎることもある。
僕は地図の線を見た。前線と倉庫。倉庫と市場。
市場と北街道。ばらばらの道を、一つの仕事として読む線。組合連絡員が先に言った。
「ネクサスロード」
「何ですか、それは」
「古い商隊言葉です。節点を繋いで、一つの稼ぎにする道。大きな街道じゃない。細い仕事を束ねるやつです」
ネクサスロード。
口の中で転がすには、少し硬い。
でも、書類には残りやすい。
「仮称として使います」
「本気ですか」
「本気で仮です」
通信兵が、今度は隠さず笑った。補給係も、帳簿にその言葉を書いた。ネクサスロード構想。
構想。まだ、箱は動いていない。でも、空で戻る車輪に名前が付いた。
✶
昼過ぎ、最初の連結札ができた。厚紙ではない。薄い板に紙を貼っただけだ。
雨に弱い。泥にも弱い。人の気分には、もっと弱い。
それでも、ないよりは強い。
「中尉、字が小さいです」
通信兵が言った。
「読めませんか」
「読めます。でも、揺れる荷台では読めません」
「大きくします」
「あと、軍印が目立ちすぎます。冒険者が嫌がります」
通信兵は、札を一枚持ち上げた。
軍印の黒が、妙に重く見える。
「組合印は上、倉庫印は横、軍印は下へ置きます」
通信兵が札を三枚並べ替える。軍印を下に置くと、黒い四角が少し軽く見えた。
「中尉、怒られませんか」
「怒られたら、僕が聞きます」
「その言い方、最近増えましたね」
通信兵が札を並べながら言った。僕は筆を止める。最近増えた。
僕が聞きます。僕が書きます。僕が通します。
僕が止めます。言えることが増えた。
その分だけ、後から逃げる場所が減っている。
「増えましたか」
「はい。いいことか悪いことかは、分かりません」
「僕もです」
「でも、言われる側は助かります」
通信兵は、札の紐を結ぶ。結び目が揃っている。手つきが速い。
僕よりずっと現場の手だった。
「助かるなら、しばらく続けます」
「しばらくでいいんですか」
「ずっとと言うと、僕が先に倒れそうなので」
「それは困ります」
組合連絡員は、積まれた空椀をちらりと見た。食堂班のほうが先に倒れそうな高さだった。
「では、倒れない範囲で」
「範囲、記入しますか」
「しません」
今度は僕が笑った。笑えた。少し。
その直後、外で警笛が鳴った。食堂の湯気が、急に薄く感じる。
✶
敵ではなかった。
戻ってきた車列の一台が、旧水路手前で軸を焼いた。
B.I.G-ACFV-65。
冒険者用の装甲戦闘輸送車。
燃料の心配は少ないが、歯車が熱に負ける。
前部に機関と砲塔が詰まり、後部に荷と人を積む、武装した装甲バスみたいな車両。
戦場まで人を運ぶには頼れる。
戦場の中で粘るには、少し脆い。
「旧水路手前、前線から後方八百、水車小屋線から西へ二百。積荷は空薬莢三袋、使用済み導線一束、負傷者装備二、修理済み歯車一。操縦手一、車長一、冒険者四、負傷なし。敵影なし。ただし煙が上がっています」
煙は敵を呼ぶ。車両は動けない。荷は要る。
乗員も要る。機関を冷やす水は足りない。魔導冷却液は、もっと足りない。
「救援は」
「装甲車一台なら出せます」
「出すと、戻りの線が空きます」
「はい」
ここで装甲車を出せば、箱は戻る。別の箱が止まる。止めた箱が、明日の誰かの弾になる。
僕は地図に指を置いた。旧水路の曲がり。水車小屋線。
煙の上がる場所。敵が来るなら、南低地から。来ないかもしれない。
来ないことに賭けるほど、僕はもう軽くない。
「装甲車は出さず、人だけ戻します。荷は二段階で引き、冒険者四名に空薬莢と導線を担がせる。歯車は置き、負傷者装備は布で覆って後回しです」
「重い。今は人を先に戻します」
「車両は煙を止め、結界を張らずに待機。小口径なら車体で一発耐え、榴弾が来たら捨てて逃げます」
通信兵が符号を打つ。打ちながら、少し遅れた。歯車を置く。
車両を捨てるかもしれない。言葉にすると簡単だ。現場では、たぶん簡単ではない。
「グラスは」
「その車列にいます」
僕の喉が、音を作る前に乾いた。朝、名前を聞いたばかりの人。袖を縫われた人。
薄い豆スープを覚えていた人。
荷台の中で遺品に気づくのは嫌だと言った人。
「グラスへ伝えてください」
「はい」
「空薬莢は捨ててもいい。導線も捨てていい。人を戻す。車両の消火が間に合わないなら、車長判断で放棄。命令の責任は僕が持つ」
符号が走る。短い音の列。それが、八百歩先の人の足を動かす。
僕は椅子から立ち上がっていた。
「中尉」
「ここにいます」
通信兵が僕を見た。そう言われる前に、戻る。僕が走っても、八百歩先には間に合わない。
ここで指示を出す方が早い。それが正しい。正しさは、体を少しも軽くしない。
「水車小屋線、小銃班一つを煙の反対側へ。敵が煙を見るなら、横から視界を切ります。山崎さんは通常弾一発を準備し、僕の合図まで待機」
「敵が煙へ寄った場合、道ではなく泥を撃ち、破片で止める。車両には当てない」
待つ。
また待つ。
今日は待つ戦闘ばかりだ。
胃の奥が、冷たい粥を入れた時みたいに重くなる。
`生命`
遠い表示が、薄く揺れる。
グラスのものか、車長のものか、冒険者の誰かのものか、ここからでは分からない。
分からないまま、僕は数える。六。五。
四。
「煙、低下」
「人員、離脱開始」
「敵影」
「南低地、二。いえ、四」
来た。
「距離」
「前線まで一・四キロ。車両まで九百」
「意図」
煙を見る。動けない車両を見る。回収に出る人間を見る。
敵は、こちらの回収を撃ちたい。撃てば、箱ではなく道が止まる。
「回収妨害です。水車小屋線、発砲禁止継続。山崎さん、泥へ一発。敵の前方二十。近すぎないように」
「前方二十」
「はい。殺さなくていい。足を止めます」
砲声。泥が上がる。敵歩兵が伏せる。
結界が白く張られた。面は途切れない。泥と破片を受け、すぐに薄くなる。
六秒。半分ほどまで落ちる。さらに六秒。
敵が立ち上がる前に、グラスたちは水路の曲がりへ入った。
「人員、曲がりへ」
「追撃」
「なし。敵、停止」
僕は息を吐く。
吐いた後で、自分が息を止めていたことに気づいた。
「車両の煙はほぼ停止。車長が歯車を外して残置し、車体は隠蔽処置へ」
「戻った人員を先に食堂へ。報告はその後でいいです」
通信兵が、少しこちらを見た。今度は何も言わない。言わなくていい。
僕も、何も足さない。
✶
夕方、グラスが戻ってきた。
袖口は、さらに破れていた。
火傷の跡の横に、泥が乾いて白くなっている。
彼は食堂の椀を持ち、僕の前に立った。
「歯車、置いてきました。要る部品なのに、すみません」
「必要ですが、置くよう命令したのは僕です」
歯車一つで、明日の便が一つ遅れる。彼もそれを知っているから、椀を持つ手に力が入っていた。
「なら」
「あなたが戻ったので、取りに行く人を明日選べます」
グラスは椀を見た。
湯気が彼の鼻先でほどける。
「そういう言い方、ずるいですね」
「すみません」
「謝るほどじゃないです」
彼は、椀を少し掲げた。
「昨日より、ましです」
「食堂班へ伝えます」
「そのまま言っていいですよ。今日は」
「はい」
グラスが去った後、補給係が小さな札を持ってきた。
最初の連結札。泥がついている。端が少し曲がっている。
軍印、組合印、倉庫印。三つとも、かろうじて読める。
「人は戻りました。荷は足りませんが、札も戻っています」
補給係は、それを机に置いた。薄い板の音がした。箱ではない。
弾でもない。冷却液でもない。それでも、道が一つ戻った音だった。
僕は戦果欄を開く。敵回収妨害、阻止。味方人員、全員帰還。
車両一、現地隠蔽。歯車一、残置。連結札一、帰還確認。
最後の行で、筆が少し止まった。戦果にしていいのか。分からない。
でも、書かないと次に繋がらない。僕は書いた。ネクサスロード仮運用、第一便成立。
ネクサスロード仮運用、第一便成立。その横に、泥のついた連結札を置いた。
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