ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《王録》 九章 三節
『早く届く荷は誉れとなり、遅れて届く息は記録の行間に沈む。』
ネクサスロードという仮の名前は、思ったより早く広がった。
広がるものは、軽い。
よいものも、悪いものも。
朝の食堂で、冒険者の一人が「ネクサス便」と言った。
昨日までは、誰もそんな呼び方をしていなかった。
組合連絡員は眉をしかめた。
会計担当は、聞こえないふりをした。
補給係は帳簿に書きかけて、いったん筆を止めた。
僕は止めなかった。
名前は、止めても止まらない時がある。
止めるなら、名前ではなく使い方の方だった。
「中尉、第一便の希望が増えています」
通信兵が言った。
彼の机には、小さな札が十枚並んでいる。
どれも昨日より少し大きい。
揺れる荷台でも読めるように、文字は太くした。
軍印は下。
組合印は上。
倉庫印は横。
たったそれだけで、札は少し別の物に見える。
「昨日の三倍です。人が増えたのは、いいことではないんですか」
「最初から三倍になる仕組みは、どこかで待ち時間を見落としています」
通信兵が、札を一枚持ち上げた。
「見えていないところ、ですか」
「はい。誰かが楽をしているか、誰かが無理をしています」
「どっちですか」
「たぶん両方です」
食堂の奥で、グラスが豆スープを受け取っていた。
袖口は昨日よりましになっている。誰かが縫い直したのだろう。縫い目が細かくなっていた。
彼は僕に気づき、椀を少し上げる。僕も軽く手を上げた。部下でも兵でもない。
でも、こちらの線を走る人だ。
そういう人を、ただ「冒険者」と書くと、また何かを落とす。
✶
午前の帳簿は、昨日よりにぎやかだった。にぎやかな帳簿は、あまり信用できない。線が増える。
印が増える。依頼名が増える。増えるほど、見えている気になる。
見えている気になる時ほど、実際にはどこかを見落としている。
「救護所からです」
通信兵の声が少し変わった。
「旧水路東側、負傷者三。うち一名は搬送優先ですが担架不足。救護所まで一・一キロ、曲がり二つ、ぬかるみあり。敵影なし。ただし南低地の煙が、砲撃後か偽装かは不明です」
僕は地図へ指を置く。
旧水路東側。
昨日、B.I.G-ACFV-65を残置した場所より少し奥。
そこから救護所まで一・一キロ。担架が足りない。帰り荷の札は増えている。
担架は増えていない。
「近いネクサス便は二つ。空薬莢便に冒険者三、導線便に冒険者二と荷馬一です」
「担架代用にできる荷台は」
「導線便の板を外せます。八分、そこから運ぶのに十五分以上」
八分。
十五分以上。
その間に、負傷者の生命がどれだけ減るのかは見えない。
ここからは、見えない。
「空薬莢便を止めてください。人員三名を旧水路東側へ。導線便は荷台板を外す。救護所へ、止血布を曲がり一つ目まで出すよう伝えてください」
「空薬莢は」
「置く」
通信兵の筆が、一瞬だけ止まった。
空薬莢なら盗まれても、まだ怒鳴り声で済む。
結界導線は違う。
「導線は、置けませんよね」
「置かない。板だけ外して、導線は荷馬へ寄せます。重すぎる分は曲がりの手前に一時置き」
「一時置き扱いで、盗難扱いにはしません」
「回収札を付ける。盗難ではなく、後送待ちにしてください」
通信兵が符号を打つ。僕は次の欄を作りそうになって、やめた。欄を作る前に、人を動かす。
今日はそちらが先だ。
「グラスは」
「空薬莢便です」
またか。
そう言いかけて、飲み込んだ。
また、ではない。
グラスがそこにいるのは、彼がその道を走っているからだ。
僕がその名を覚えたから、何度も現れるように見えるだけだ。
「グラスへ。空薬莢は捨てていい。人を運ぶ。足場が悪ければ、荷ではなく靴を見て進むように」
「靴」
「足元です。箱を見ていると、ぬかるみで転びます」
「了解」
僕は、机の縁に置いていた連結札を一枚裏返した。
裏は白い。白いところに、短く書く。人員搬送優先。
その下に、自分の署名を入れた。字が少し太くなった。
✶
救護所の前は、いつも少し湿っている。洗った布の水。流した泥。
こぼれた薬。それらが混ざって、地面に薄い膜を作る。
僕が着いた時、最初の負傷者はまだ来ていなかった。
来ていないことを確認するために来た。
たぶん、来なくてもよかった。
でも、机の前にいると、手元の札だけが増えていく。
今日は、それを見るのが少し嫌だった。
「中尉」
救護兵が僕を見た。
頬の端に、乾いた薬の粉がついている。
目元は赤い。
「邪魔なら戻ります。そう言うべきですか」
「邪魔ではありませんが、人手にもなりません」
「正確ですね」
「ここでは、正確でない方が危ないので」
救護兵はそう言って、針を煮る小鍋を見た。
湯気に薬草の匂いが混じっている。
胃の奥が少し持ち上がる。
血の匂いより、薬の匂いの方が苦手になってきた。
薬の匂いは、まだ助かるかもしれない場所でする。
その分だけ、待たされる。
「搬送優先の人は」
「腹部です。圧迫で持たせています」
「名前は」
「まだ」
まだ。名前がまだ。その言葉が、やけに引っかかった。
戦場では、名前より先に状態が来る。腹部。出血。
搬送優先。担架不足。名前は、あとから追いかける。
追いつかないこともある。
「到着」
外から声がした。
グラスが先頭だった。
荷台板を二人で持ち、そこに一人の兵が乗っている。
布は赤い。でも、滴ってはいない。圧迫が効いている。
効いているだけで、治ってはいない。救護兵が走る。僕は一歩下がる。
下がるしかない。荷台板が僕の横を通る。兵の顔は泥で半分隠れていた。
目は開いている。何かを言おうとして、唇だけが動く。声にはならない。
グラスの肩が上下している。息が荒い。袖の縫い目が一つ切れていた。
「空薬莢は」
僕が言う前に、グラスが言った。
「置いてきました」
僕は返事をしようとして、やめた。
グラスの袖の縫い目が、またほどけている。
「導線は、曲がりの手前。札、付けました」
「札を付けたなら、盗難扱いにはなりません。あとで回収します」
「俺たち、間に合いましたか」
その問いは、僕へ向けられているようで、僕では答えられない。
救護兵が布を剥がす。
別の救護兵が、鍋から針を上げる。
腹のあたりで、兵の手が一度だけ浮いた。
誰かを探したのか、何かを掴もうとしたのか、分からない。
救護兵がその手を押さえた。
「間に合ったかどうかは、まだです」
僕はそう言った。
グラスは頷かなかった。
怒りもしなかった。
ただ、椀を持つ時とは違う手で、膝を押さえた。
そこにも泥がついていた。
✶
負傷兵の名前は、パルネだった。
王国兵。
年齢は、僕たちより少し上。
旧水路東側の火点で、土嚢を積み替えている時に破片を受けた。
搬送は間に合った。命は、まだ残っている。まだ。
救護兵は、その言葉を何度も使う。まだ出血は止まっている。まだ熱は上がりきっていない。
まだ意識が戻る可能性はある。まだ。
それは希望ではなく、作業時間の名前だった。
僕は救護所の外で、報告用の板を膝に置いた。
戦果欄ではない。搬送記録。旧水路東側。
負傷者三。一名搬送優先。空薬莢便を転用。
導線便荷台板を担架代用。空薬莢三袋、一時残置。結界導線一束、一時残置。
人員三名、救護所到着。パルネ、処置中。最後の行で筆が止まる。
処置中。生存。不明。
どれも正しくて、どれも足りない。僕は書いた。生命維持中。
急に、文字が嫌になった。生命を維持しているのは、文字ではない。
救護兵の手と、グラスたちの足と、外した荷台板と、置いてきた空薬莢だ。
それなのに、僕の板には一行で済む。
「中尉」
グラスが、水を飲んで戻ってきた。
唇の端が白い。
「俺たち、次も走れます」
「休んでください」
グラスの袖は、乾いた泥で少し硬くなっている。
本人はそこを見ない。
「休むと、次の便が減ります」
「減らします」
「減らしたら、また遅れます」
「走ったまま倒れたら、もっと遅れます」
グラスは黙った。
黙ったというより、返事を置く場所を探していた。
彼の喉が、一度動く。
「では二人休んで、二人走る。俺は走る方で」
「グラスは休む方です」
彼の名前を呼ぶと、椀の縁が少し傾いた。
「袖が切れ、膝も打っています。火傷の横の泥が乾いているので手も洗っていない。次に導線を持てば、傷に入ります」
「よく見てますね。嫌な仕事だ」
「見るのが仕事です」
グラスは、今度は少し笑った。
「じゃあ、休みます。飯が濃ければ」
「食堂班へ伝えます」
「そればっかりですね」
「それで少し動くなら、何度でも」
グラスは救護所の壁にもたれた。そのまま座り込む。座った瞬間、彼の肩から力が抜けた。
体は、本人より先に休みたがっていた。
✶
夕方、パルネはまだ生きていた。
その報告を聞いた時、僕は胸を撫で下ろさなかった。
撫で下ろすには、まだ早い。早いと思うことにも、少し疲れている。補給係が、机の上に二枚の札を置いた。
一枚は泥だらけの連結札。
もう一枚は、僕が裏に書いた人員搬送優先の札。
「人は戻りました。ただ、空薬莢三袋と導線一束は曲がりの手前です」
「明日、敵が来なければ回収します。来たら別の判断です」
「判断ばかりですね」
「箱が自分で歩かないので」
補給係は、少し息を吐いた。
「中尉。ネクサスロードは便利なので、危ないです。誰かが人も箱みたいに動かせると思い始めます」
「はい」
僕は札を見る。軍印。組合印。
倉庫印。その下に、僕の署名。人員搬送優先。
それは、人を箱から外すために書いた言葉のはずだった。
でも、書いた瞬間から、人も救護所へ、前線へ、休息へと動かされていく。
復帰へ。言葉は、軽く広がる。よいものも、悪いものも。
「明日から、連結札に人員欄を作ります」
補給係がこちらを見た。
「作るんですか。荷欄と分ければ足りますか」
「足りません。それでも人を荷の下には書かず、足りないことを見える場所に置きます」
補給係は、しばらく札を見ていた。
「分かりました」
「お願いします」
「中尉」
「はい」
補給係は板を抱え直した。
抱え直した拍子に、端の札が一枚だけ鳴る。
「今日は、少し休んでください」
「補給係も」
「私は帳簿が終わったら」
「僕も記録が終わったら」
板の札は、どちらの手元にもまだ残っている。
「終わりませんね」
「終わりません」
二人とも、そこで少し笑った。
笑った後、すぐにそれぞれの板へ戻る。
僕は箱の欄とは別に、人員、生命、休息と書き、外枠を引いた。
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