ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~   作:ハルキーノ

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九章五話 火を遅らせる足

《王録》 九章 五節

『矢を惜しむ者は、やがて己の影を矢筒に入れる。』

 

 十ミリ徹甲弾は、増えなかった。

 

 救護布も、増えなかった。

 

 魔導冷却液は、瓶の底に薄く残ったままだった。

 

 朝の補給表は、昨日より正直だった。

 

 正直すぎる表は、人を黙らせる。

 

「中尉」

 

 弾薬係が言った。

 

 右手の爪の黒さは、まだ落ちていない。

 

 その爪で箱の縁を叩かないよう、彼は手を握っていた。

 

「徹甲弾、三十一発。十ミリ通常弾、一箱と四分の三。安価弾、一箱」

 

「入荷予定は」

 

「未定」

 

 弾薬係は、握った手を一度だけ開いた。

 

 爪の黒い線が、朝の光で細く見えた。

 

「未定を、いつまで未定と言えますか」

 

「今日の夕方までなら、まだ嘘ではありません」

 

「では、夕方までに別の言葉を探しましょう」

 

 弾薬係は、小さく笑った。

 

 笑い方が、少しうまくなっている。

 

 うまくなる必要のないものまで、みんな少しずつうまくなる。

 

 僕もそうだ。

 

 弾の残量を見て、次に誰を殺すかを考えるのが早くなっている。

 

「山崎さんの砲弾は」

 

「通常榴弾五。低装薬七。照明弾一」

 

 五、七、一。

 

 山崎さんなら、たぶん少ない順に覚える。

 

 僕は多い順で覚えた。

 

「冷却液」

 

「一本未満です」

 

 弾薬係は、空瓶を指で少し傾けた。

 

 瓶底に残った青い液が、遅れて片側へ寄る。

 

「一本未満」

 

「はい。瓶を傾ければ使えます」

 

 瓶を傾ければ使える。

 

 ……そんなふうに人のことも数えそうになって、

 

 そんな言い方をしないために、昨日、人員欄を作った。

 

 作ったのに、僕の頭はもう別の言い方を探している。

 

「今日は、さらに撃てません」

 

 僕が言うと、通信兵が顔を上げた。

 

「昨日より、ですか」

 

「昨日より」

 

「では、どう止めますか」

 

 僕は左手を見る。

 

 左手の二つの表示は、昨日より薄くならない。

 

 薄くならないものを、使わずに済むならその方がいい。

 

 でも、弾は増えない。

 

 布も増えない。

 

 冷却液も増えない。

 

「私が出ます」

 

 地図室の空気が、そこで少し止まった。

 

 誰かが強く息を吸った。

 

 通信兵だった。

 

「中尉が、ですか」

 

「はい」

 

 通信兵は、そこで一度だけ息を止めた。

 

「前線へ?」

 

「水車小屋線の手前まで。直接交戦距離には、できれば入りません」

 

「できれば」

 

 通信兵の喉が小さく動いた。

 

 水筒には手を伸ばさない。

 

 伸ばしたら、たぶん僕の返事を聞き逃す。

 

「入る可能性があります」

 

 嘘をつかない。

 

 それだけで、部屋の温度は下がる。

 

 弾薬係が、箱の取っ手を握った。

 

「中尉が前へ出る理由は」

 

「徹甲弾を三発節約するためです」

 

「三発」

 

 弾薬係の目が、箱の列へ戻りかけて止まった。

 

 三発、という数字は少ない。

 

 少ないのに、今は人を動かす。

 

「はい。三発で止まる相手なら、私が近くで見た方が早い」

 

 言ってから、少し遅れて自分の言葉が届いた。

 

 早い。僕が近くで見た方が早い。それは、たぶん事実だ。

 

 事実だから、嫌だった。

 

 

 装備は軽くした。

 

 GR-370-1080-Aは持たない。

 

 重い。

 

 三発弾倉の徹甲小銃は、撃てば大きいが、持って走るには向かない。

 

 僕が持つのは短銃、予備弾倉二つ、小型結界具、発煙筒、白布、連結札を入れた革袋。

 

 それから、近接装備用のアクセラップ起動具と、剣柄へ留めるマギブレイク起動具。

 

 訓練で使ったものより、少し古い。

 

 革紐が汗を吸って硬くなっている。

 

 手首に巻くと、前に使った誰かの癖が残っているみたいだった。

 

 最後に、三郷の剣。

 

 鞘に収まったままでも、重い。

 

 武器としての重さだけではない。

 

 あいつが前に立つ時、いつも少し傾けていた剣だ。

 

 僕が持つと、柄の角度が合わない。

 

 合わないまま、持つ。

 

「中尉」

 

 補給係が来た。

 

 帳簿ではなく、布を持っている。

 

「救護布ではありません。古い包帯です。使うなら、これを」

 

「ありがとうございます」

 

 礼を言うには、少し早かった。

 

 まだ、使うと決めたわけではない。

 

「使わないでください」

 

「努力します」

 

 補給係の眉が、ほんの少し寄る。

 

 冗談として受け取ってくれない人がいるのは、ありがたい。

 

「努力では困ります」

 

 補給係は、包帯を渡した手をすぐには引かなかった。

 

 薄い布の端が、僕の革袋の金具に触れている。

 

 救護布ではない。

 

 それでも、血を吸うものではある。

 

「では、使わない前提で持ちます」

 

 補給係は布を僕の革袋に入れた。

 

 入れ方が丁寧だった。

 

 丁寧すぎて、少し困る。

 

「中尉が倒れた場合の指揮移譲は」

 

「通信兵に第一報。山崎さんへ戦術判断を戻す。補給判断はあなたへ」

 

「私ですか」

 

 補給係の指が、帳簿の背から離れなかった。

 

 爪の間に黒い油が残っている。

 

 弾薬箱を開け、冷却液の瓶を数え、使えない布を救護布の下へ回した手だ。

 

「あなたです。箱が足りない時に、どの箱を諦めたのか言える人が必要です」

 

「私は帳簿を持っているだけです。前へ出る人間ではありません」

 

「だからです。帳簿の数字を読んで、現場の棚まで戻れる人は多くありません。私が前へ出たあと、箱が足りないと言える人が要ります」

 

 補給係は少し口を閉じた。

 

 閉じたまま、腰の古い鉛筆を抜く。

 

「人の数は、私では持ちません」

 

「通信兵が持ちます。あなたには、箱と瓶と布をお願いします」

 

 補給係は、僕の顔ではなく革袋を見た。

 

「分かりました。倒れないでください」

 

「はい」

 

 補給係は、僕の返事を聞いても頷かなかった。

 

「返事が軽いです」

 

「重くすると、歩きにくいので」

 

 補給係は笑わなかった。その代わり、革袋の蓋をもう一度押さえた。蓋がきちんと閉まる。

 

 その音だけが、妙にはっきりした。

 

 

 水車小屋線の手前は、昨日の弾痕がまだ濡れていた。

 

 土嚢の上端は削れ、ところどころ中の砂が固まっている。

 

 兵たちは僕を見る。見るだけで、何も言わない人。目をそらす人。

 

 少し背筋を伸ばす人。どれも困る。僕は前に立つ人間ではなかった。

 

 立つなら、三郷だった。そういう場所に、今、僕の足がある。

 

「中尉、本当にここまで来るんですか」

 

 小銃班長が言った。

 

 頬に古い傷が一本ある。

 

 昨日までは、報告書の中の班長だった。

 

 今は、目の前で銃床の革紐を締め直している人だ。

 

「ここまでです」

 

「ここから先は」

 

 班長は、土嚢の向こうを見たまま聞いた。

 

 僕を見ると、止める言葉を探すことになる。

 

「必要なら、僕が出ますよ」

 

「必要にしないようにします」

 

 班長は笑わなかった。かわりに、銃床の革紐をもう一度締めた。きつく締めすぎると、あとで手が痛む。

 

 それでも、今は緩い方が危ない。

 

「お願いします」

 

 班長は短く頷く。

 

 その頷きは、命令を受けるものではなく、仕事の分担を受け取るものだった。

 

 少し、胸が痛い。

 

 痛みは便利ではない。

 

 でも、まだ残っているなら、その方がいい。

 

「敵影」

 

 通信具から声が来た。

 

「後方連隊本部より中継。敵は東西二十キロにわたり連隊規模で圧力継続中。当方正面はその一角に過ぎず」

 

 東西二十キロ。

 

 希望さんと繋がる観測基準点は、その全部を埋めてはいない。北東林、南低地、旧街道、水車小屋線。彼女が実際に知っている連絡員と救護兵を、四本の線へ一人ずつ置いている。

 

 少し前の視界が四つ届く。切り替えるたび、景色の中へ数字が重なる。北東林だけが予定より内側で、基準点の外に二十一の反応。南低地は動いている。旧街道は戻っている。水車小屋線は止まっているが、沢渡さんの時刻表では交代時間だった。

 

 北東林だけが違う。広い戦線のすべては見えなくても、どこが予定から外れたかは先に分かった。

 

 地図で見る限り、それは僕の視界にある北東林の何十倍もの幅だった。数えられない規模を、数えられる数字に直そうとするだけ無駄だ。

 

「北東林、歩兵十六。英雄級一。機甲衝撃兵二。戦車一。結界補助具一。距離、前線まで一・四キロ」

 

 昨日より少ない。

 

 少ないのに、嫌な配置だ。

 

 機甲衝撃兵二体が、歩兵の後ろではなく左右に開いている。

 

 その中央に、人影が一つある。

 

 機甲衝撃兵ほど大きくない。

 

 歩兵ほど遅くもない。

 

 肩から斜めに剣を下げ、結界補助具の白い面より半歩前へ出ている。

 

 英雄級。

 

 数字だけではなく、立ち方で分かる。

 

 自分が撃たれる側にいると知っていて、そこへ立っている人間の形だった。

 

 結界補助具は中央。

 

 戦車は、そのさらに後ろだ。

 

 砲塔は低い。

 

 車体前面の白い結界が、湿った空気の中で薄く膨らんでいる。

 

 軽機関銃は見えない。

 

 見えないものが、たぶんある。

 

 水車小屋線から中央結界補助具まで、二百八十メートル前後。

 

 左の機甲衝撃兵まで、二百四十。

 

 後ろの戦車までは四百を少し越える。

 

 風は右から。草の倒れ方を見る限り、三メートルまではない。

 

 低い。弾道を曲げるほどではないが、煙は流される。

 

 林の低いところで、銃口炎が二つだけ瞬いた。

 

 遅れて土嚢の上端が削れる。

 

 弾そのものより、撃つ順番が嫌だった。

 

 こちらが顔を出した時だけ撃つ。こちらが伏せると止まる。

 

 敵の歩兵も、英雄級を走らせるために準備している。

 

「威力偵察ではありません。こちらの弾薬節約を読んでいます」

 

「読まれていますか」

 

「たぶん」

 

 通信兵が、遠くで黙った。

 

 僕は続ける。

 

「敵は、こちらが砲と十ミリを惜しむと見ています。機甲衝撃兵を左右へ広げ、中央の英雄級を通すつもりです。戦車は機銃でこちらの足を止める役です」

 

「命令を」

 

「水車小屋線は中央を撃たず、右の機甲衝撃兵だけを見る。徹甲砲班は距離四百二十、右風、昨日より一目盛り下で戦車砲塔を押さえてください。中央の英雄級は僕が見ます」

 

 二度言うと、反対の声が止まった。止めてしまった。それも、僕の階級の力だ。

 

 嫌なら使うな。使わないと人が死ぬ。この二つが、同じ机に乗る。

 

「小銃班は通常弾を足元へ。徹甲弾と山崎さんの照明弾は温存し、低装薬一発を中央結界補助具の前方へ。削らず、面を張らせます」

 

「第一線は三射で下がり、第二線が同じ穴へ。撃ち続けず、結界を六秒休ませる方を優先します。弾薬手は前へ出ず、弾倉を土嚢の内側で渡してください」

 

 砲声。泥が上がる。敵の結界補助具が白い面を張る。

 

 六秒。半分。その間に、左右の機甲衝撃兵が前へ出た。

 

 左の一体が、こちらの薄い側へ寄る。予想通り。予想通りに来る敵は、止めやすい。

 

 薄い側というのは、実は本当に薄いわけではなかった。工兵班が三日前から、あえてそちら側の土嚢を低く積み、標識杭を目立つ角度で並べておいた。領域権を持つ工兵の目には、地形そのものへ小さな嘘を仕込む余地が見えている。敵はその嘘を読んで、こちらが誘導したい場所へ寄った。

 

 止めやすい敵ほど、人を油断させる。

 

「左、来ます」

 

 小銃班長が言った。

 

「はい。撃たないでください」

 

「撃たない」

 

「僕が前に出ます。煙を見たら、通常弾を三点。足元だけ」

 

「了解」

 

 僕は土嚢の切れ目から出た。泥の匂いが濃くなる。弾が頭上を通る。

 

 音は、遅れてくる。左の林から、また二点。

 

 乾いた銃声のあと、結界班が張った低い面に白い傷が走った。

 

 弾は止まった。

 

 ただ、止めた分だけ白が減る。

 

 六秒を待てば薄く戻る。六秒を待たせないために、敵は撃っている。

 

 敵の号令が、翻訳札の縁に遅れて浮いた。リ・ガクラ。訳語は、殺傷交戦。

 

 意味は、たぶん簡単だ。

 

 威嚇ではない。負傷で止めるのでもない。こちらを殺すために照準を合わせる。

 

 言葉が分かったからといって、弾が遅くなるわけではなかった。

 

 怖い。

 

 怖いと書けば簡単だ。

 

 実際には、足の裏が薄くなったみたいだった。

 

 地面を踏んでいるのに、踏み返されていない。

 

 アクセラップ起動具に魔力を流す。手首の革紐が熱を持つ。足が軽くなる。

 

 軽くなりすぎないよう、短く切る。一歩。二歩。

 

 泥の浅いところだけを踏む。数字が見える。敵歩兵の頭上。

 

 機甲衝撃兵の戦闘室の奥。結界補助具の白い減り。`生命`

 

 奥の表示。まだ、落ちていない。落とすために出てきた。

 

 その事実が、胸の内側を掻いた。

 

 

 左の機甲衝撃兵が剣を振った。

 

 届かない距離。

 

 でも、風圧と泥が来る。

 

 中央の英雄級は、その後ろで走り出していた。

 

 英雄級の左右に、術式兵が二人つく。

 

 一人は短い杖を肩の高さで構え、もう一人は泥へ鉄釘の束を落とした。

 

 機甲衝撃兵を盾にするのではない。

 

 機甲衝撃兵にこちらの視線と弾を使わせ、その間に自分が入る。

 

 短い杖の先で青白い線が跳ねた。

 

 ボルト・スパーク。

 

 小さな電撃魔法だと、訓練では聞いた。

 

 けれど、濡れた泥と結界面の上では、十分に嫌な魔法になる。

 

 右の結界兵が息を詰め、構えた面を半歩下げた。

 

 落とされた鉄釘は、泥の中で立ち上がる。

 

 スパイク。

 

 足を貫くためというより、走る線を選ばせるための魔法だった。

 

 後方の戦車が砲塔を振った。機銃口が、こちらを探す。あれが掃けば、僕は前へ出られない。

 

 相手も、こちらの弾薬を読んでいる。

 

「左の機甲衝撃兵、止めます。中央の英雄級は通さない」

 

「中尉、優先は」

 

「機甲衝撃兵を先に剥がします。英雄級は僕が受けます」

 

 言ってから、喉の奥が少し乾いた。

 

 受ける。

 

 そんな言葉を、自分が使う日が来るとは思わなかった。

 

「山崎さん、通常榴弾一発。左の機甲衝撃兵の前方三歩、距離二百三十。風は無視し、射角を低くして足元へ落としてください」

 

「小銃班、榴弾後に通常弾。泥を上げてください。徹甲は僕の合図まで。十ミリ徹甲は正面結界に使わないでください。今撃っても白を濁らせるだけです」

 

「結界班は右のボルト・スパークを受けても張り直さず、六秒待って低い面だけ」

 

「水車小屋側、スパイクを踏ませないでください。撃つなら術式兵の手元です」

 

「徹甲砲班は敵戦車砲塔へ。撃破ではなく機銃を伏せさせ、僕の正面を空けてください」

 

 砲声。

 

 泥が持ち上がった。

 

 爆風が、機甲衝撃兵の結界面をまとめて叩く。

 

 貫通ではない。

 

 爆発は結界に普通に効く。

 

 普通に効くということは、面全体から容量を奪うということだ。

 

 白が濁る。

 

 六秒。

 

 半分を待つ前に、小銃が足元を叩いた。

 

 味方の通常弾は、敵の体ではなく、泥と釘の間を割った。

 

 水車小屋側の二発が、術式兵の手元をかすめる。

 

 短い杖の先が跳ね、青白い線が一度だけ横へ逃げた。

 

 スパイクの列が一本だけ倒れ、走れる線が細く開く。

 

 そこへ敵の小銃が返ってくる。

 

 僕の左肩の後ろで、結界面に白い斑点が三つ浮いた。

 

 誰かが僕を守った。僕は振り返らない。後ろで、第一線の兵が穴を空ける。

 

 第二線が膝を入れ、同じ低さで銃を出した。銃声の高さが少し変わる。撃つ人間が替わった音だ。

 

 泥が跳ねる。疑似筋肉の束が、踏ん張りを作り損ねる。機甲衝撃兵が半歩だけよろけた。

 

「今です。徹甲一、補助結界発生器」

 

 発射音。一発。白が薄くなる。

 

 まだ倒れない。それでいい。僕は短銃を抜いた。

 

 右の術式兵が杖を振り直す。青白い線が、今度は僕の足元へ来た。

 

「ボルト、来ます」

 

 通信兵の声。結界兵の低い面が泥の上を滑る。電撃は面に触れ、白い縁を細く焼いた。

 

 足の指先が少し痺れる。止まるほどではない。狙いは戦闘室。

 

 昨日、十ミリ徹甲弾が抜いた位置より近い。

 

 砲撃で面を剥がし、小銃で発生器を弱らせた。

 

 残った装甲は、薄い。手が少し震える。震えたまま撃つ。

 

 一発目。装甲の縁で跳ねる。二発目。

 

 戦闘室の奥で何かが弾けた。表示が落ちる。`生命`

 

 ゼロ。機甲衝撃兵が膝を折る。疑似筋肉が、勝手に震えながら泥を掻いた。

 

 戦闘室の中にいたのが誰なのか、僕には分からないままで、それでも表示が生命の欄からゼロへ落ちていくのを見た瞬間、機体を止めたのか人を止めたのか、その境目がどこにあったのか、あとから思い出そうとしても思い出せなかった。

 

 止めた。

 

 止めたけれど、中央の英雄級は止まっていない。

 

 戦車も、止まっていない。砲塔の横で火花が散る。味方の徹甲砲が当たった。

 

 貫通ではない。

 

 正面結界が白く潰れ、六秒を待つ前に砲塔が半分だけ横を向く。

 

 機銃の線が、僕の前ではなく、土嚢の上を削った。

 

 十分。

 

 もう、近い。

 

 敵歩兵の銃声が、ここで一度だけ乱れた。

 

 英雄級の後ろへ通すために、彼らも前へ出すぎている。

 

 こちらの小銃班が、その出すぎた肩口を拾った。

 

 倒れたかどうかは見ない。

 

 今見ると、足が止まる。

 

 それでも、敵は崩れきらない。

 

 前へ出すぎた歩兵の後ろから、別の二人が膝を入れ替えた。

 

 片方が撃ち、片方が弾倉を渡す。英雄級の背中を守るための動きだ。きれいではない。

 

 けれど、訓練されている。

 

 アンテラルさんが見せたような踏み込みを、彼らは一人の才能ではなく、分担で作っている。

 

 だから嫌だった。英雄だけを見れば済む戦場ではない。白布を投げる暇はない。

 

 発煙筒を抜く暇もない。僕は短銃を戻し、三郷の剣を抜いた。刃は軽く光る。

 

 僕の魔力ではない。

 

 剣そのものに残った癖みたいなものが、握った手を少し前へ押した。

 

 英雄級の剣が来る。速い。機甲衝撃兵の剣とは違う。

 

 重さではなく、迷いのなさで押してくる。斬り下ろしではない。横薙ぎだった。

 

 僕を外しても、後ろの小銃班をまとめて倒せる幅で来る。

 

 僕はアクセラップを一瞬だけ強くした。前へ出る。前へ。

 

 自分でそう選ぶ。三郷の剣を、英雄級の剣へ合わせた。音が近い。

 

 刃と刃の間に、相手の結界が薄く挟まっている。

 

 穴ではない。面は続いている。ただ、斬撃の圧で白が濁る。

 

 結界は貫通に強い。爆発と打撃には普通に削られる。斬撃には弱い。

 

 訓練で聞いた言葉が、今になって腕の重さで戻ってくる。

 

 鍔がぶつかる。押し込まれる。相手の息が近い。

 

 顔は見えない。

 

 見えないのに、歯を食いしばっているのだけは分かった。

 

 僕もたぶん、同じ顔をしている。

 

「結界班、僕の右。銃弾だけ」

 

「中尉の右」

 

「小銃班、敵英雄の足元。通常弾三。僕には当てないでください」

 

「当てません」

 

 小銃班長の返事が早い。味方の弾が足元の泥を叩く。英雄級の靴が半歩滑った。

 

 それでも剣は下がらない。僕は剣柄のマギブレイク起動具へ魔力を送り、作動させる。魔法は、きれいなものではない。

 

 指の骨が少し擦れるような感じがして、鍔の前で白が歪む。

 

 マギブレイク。今では王国内で珍しくない魔法。珍しくないから、兵も使う。

 

 珍しくないから、戦場はそれを前提に動く。白が薄くなる。

 

 その横で、戦車の砲塔がまた戻ろうとしていた。

 

 機銃口が、今度こそ僕を拾う。

 

「徹甲砲班、もう一発。砲塔下、左」

 

 返事は聞こえなかった。

 

 金属を叩く音だけが来た。

 

 戦車の結界が白く膨らみ、砲塔の付け根で濁る。

 

 貫通しない。

 

 でも、動きは鈍る。

 

 僕は英雄級の剣を受けたまま、半歩だけ横へずれた。

 

 三郷の剣の根元で、マギブレイク機の出力をもう一段上げる。

 

 指の皮が裂ける。刃が、戦車の砲塔下へ入った。結界は続いている。

 

 切れ目はない。それでも、斬撃には弱い。白い面ごと、砲塔が根から二つに割れた。

 

 砲塔が車体の上でずれ、機銃口が空を向く。形はまだ残っている。けれど、もうこちらを向けない。

 

 履帯は泥を噛み、側面駆動覆いの継ぎ目から白い蒸気が漏れた。結界が薄く戻ろうとしても、砲塔を動かす歯車の音は戻らない。

 

 完全撃破ではない。でも、戦車ではなくなった。中の表示が、ばらばらに揺れた。

 

 僕は剣を押すのではなく、斜めに払った。相手の剣が流れる。英雄級の上体が開く。

 

 後ろへ詰めていた敵歩兵二人が、巻き込まれて肩から泥へ落ちた。

 

 三郷の剣は、僕が思っていたより広く場所を取る。

 

 前に立つための剣だ。アクセラップ起動具の出力をもう一度だけ上げる。足が軽くなる。

 

 軽すぎる。それでも踏み込む。三郷の剣の腹で、相手の胸部を叩いた。

 

 斬るのではない。押し飛ばす。

 

 結界の白い面が、胸部で一瞬だけ膨らみ、すぐに薄く崩れる。

 

 英雄級が後ろへ飛んだ。

 

 一歩。

 

 二歩。

 

 昨日、山崎さんが泥を撃った浅い窪みへ入る。

 

「山崎さん、今。通常榴弾一。窪み中央。敵英雄級、足元。近すぎないでください」

 

 通信兵が復唱する前に、山崎さんの返事が入った。

 

「通常榴弾一、窪み中央」

 

「撃ってください」

 

 砲声。泥が持ち上がった。爆風が、英雄級の結界面をまとめて叩く。

 

 白が濁り、砕けるように薄くなる。人の体が泥の中で折れた。表示が落ちる。

 

 `生命`。ゼロ。英雄級が、膝から崩れた。

 

 剣の先が泥へ刺さる。

 

 敵歩兵の銃声が一拍途切れた。水車小屋線の小銃班が土嚢から顔を上げ、誰かが「落とした」と叫ぶ。僕たちの射線が、英雄級のいた場所を越えて前へ伸びた。

 

 戦車の砲塔は、車体の上で斜めに止まっていた。

 

 山崎さんの榴弾は、英雄級だけを叩いたわけではなかった。窪みの縁をさらに崩し、戦車の後ろ足を泥へ沈めている。

 

 あれがなければ、砲塔を失った車体でも、まだ少しは下がれたかもしれない。

 

 疑似筋肉が、しばらく勝手に震えていた。僕は立っていた。立っているつもりだった。

 

 実際には、左膝が泥についていた。

 

「中尉、戻ってください」

 

 通信兵の声が遠い。

 

「中尉」

 

 小銃班長が走ってくる。彼が僕の襟を掴んだ。乱暴ではない。

 

 でも、迷いはなかった。

 

「戻りますよ」

 

「はい」

 

 返事だけはできた。立とうとした時、足が一度滑る。班長が支えた。

 

 支えられる側になっている。

 

 弾薬を節約するために前へ出て、誰かの手を使わせている。

 

 計算が合っているのか、もう分からない。

 

 

 水車小屋線へ戻るまでに、敵は退いた。

 

 右の機甲衝撃兵は、泥の手前で止まり、歩兵を回収して下がった。

 

 その後ろの歩兵も、前へ出なかった。

 

 戦車は砲塔を失ったまま道路の中央で止まり、後続の軽機関銃班が左右へ割れた。割れた先には、こちらの小銃班が作った低い射線が残っている。

 

 敵はもう一度押せたかもしれない。

 

 押せたかもしれないのに、押さなかった。

 

 こちらの弾が多かったからではない。

 

 僕が前へ出た場所を、次の突入口にできなくなったからだ。

 

 こちらは十ミリ徹甲弾を一発だけ使った。徹甲砲弾二。低装薬一。

 

 通常榴弾二。通常弾少量。短銃弾二。

 

 発煙筒、未使用。古い包帯一。マギブレイク二回。

 

 アクセラップ短時間。三郷の剣、使用。弾薬表だけを見れば、節約できている。

 

 戦果欄だけを見れば、成功している。敵機甲衝撃兵一、撃破。敵戦車一、砲塔喪失、行動不能。

 

 敵英雄級一、撃破。

 

 敵歩兵、死者確認二十三、負傷搬送多数、後退。

 

 敵術式兵、死者四、後退。短杖一、先端破損推定。

 

 敵突入軸一、崩壊。敵重機関銃班一、射線喪失。敵戦車乗員、死亡三、救護搬送一。

 

 リ・ガクラ号令、確認。ボルト・スパーク一。スパイク一列。

 

 味方負傷、軽微。水車小屋線、保持。

 

 後方連隊本部からの中継が、また一つ入っていた。東西二十キロの正面全体で、同様の突入と足止めが夜を徹して続いているという。僕が今日見た英雄級一、機甲衝撃兵二、戦車一は、その広い戦線のほんの一区画に過ぎない。ただ、僕の手が震えている理由は、その広さとは関係がなかった。

 

 ただし、僕の右手は震えていた。

 

 指先が、短銃の反動と剣の柄をまだ覚えている。

 

 撃った。押した。割った。

 

 砲撃を呼んだ。近かった。

 

 砲撃で結界が濁り、短銃弾が戦闘室へ入るところを、僕は正面から見た。

 

 マギブレイクで砲塔がずれるところも見た。

 

 昨日より、言い訳が少ない。

 

「中尉、手を」

 

 救護兵が言った。

 

 僕は右手を出す。

 

 指の皮が少し裂けていた。

 

 マギブレイクの起動具が合っていなかったのだろう。

 

 血は少ない。

 

 痛みも少ない。

 

 少ないことが、嫌だった。

 

「包帯を使います」

 

「古い方を」

 

 救護兵の手が、一瞬だけ救護布の束へ寄った。

 

 すぐに戻る。

 

「救護布ではありません」

 

「はい」

 

 救護兵は布を裂く前に、指先で厚みを確かめた。

 

 薄い。薄いけれど、僕の右手には足りる。足りる、という言葉がまた一つ増えた。

 

 補給係が持たせた布だった。使わない前提で持つ、と言った布。使った。

 

 そういうものばかりだ。

 

「戦果欄は」

 

 通信兵が言った。

 

 彼の声は、少し慎重だった。

 

「書きます」

 

「中尉自身の交戦は」

 

 通信兵は、僕ではなく記録板を見ている。

 

 その方が助かる。

 

「入れてください」

 

「表現は」

 

 通信兵の筆先には、まだ墨が乗っていない。乗せれば、そのまま残る。残すために聞いている。

 

 聞かれる側になった。僕は少し考えた。

 

 考えている間に、右手の包帯が巻かれていく。

 

 白い布。

 

 今日、救護布より下に置いたはずのもの。

 

 そこに血がにじむ。

 

「前線指揮官、直接交戦。敵機甲衝撃兵一を近接距離で射殺。三郷弦遺品剣により敵英雄級一を拘束。砲撃誘導により撃破。敵戦車一、マギブレイクにより砲塔喪失、山崎砲兵組の地形破壊により行動不能。敵突入軸一、崩壊。敵歩兵死者確認二十三、術式兵死者四、敵戦車乗員死亡三。十ミリ徹甲弾三発相当の節約」

 

 通信兵が筆を止めた。

 

「三発相当」

 

「僕が出なければ、機甲衝撃兵に二発、戦車に一発は使いました。英雄級には、たぶん砲弾も増えています」

 

「了解」

 

 筆が動く。節約。射殺。

 

 撃破。砲塔喪失。行動不能。

 

 直接交戦。三郷の剣。その六つが並ぶ。

 

 英雄らしい行に見える。紙の上では、たぶんそうだ。でも、僕の手はまだ少し震えている。

 

 震えがあるうちは、まだ人間だと思いたかった。

 

 そう思うこと自体が、少しずるい。

 

「中尉」

 

 小銃班長が、三郷の剣を持ってきた。

 

 泥を拭いてある。

 

 刃の根元に、白い結界焼けの跡が残っている。

 

「助かりました」

 

「こちらこそ」

 

「次も、出ますか」

 

 班長の銃床には、泥が薄く残っていた。拭く時間がなかったのだろう。それでも銃口だけは、きれいだった。

 

 彼は責めているのではなかった。確認している。次に備えるために。

 

 僕は左手を見る。

 

 左手の二つの表示は、朝より濃い。

 

 濃くなったのか、僕がそう見ているだけなのかは分からない。

 

 でも、さっき落ちた`生命`の形は、まだ目の裏にある。

 

「必要なら、私が出ますよ」

 

 僕は答えた。班長は頷いた。その頷きが、いちばん重かった。

 

 その言葉は、今日から少し別の意味になった。

 

 弾を惜しめば人が前へ出て、人を惜しめば弾を使う。どちらを選んでも、何かが減る。

 

 僕は記録板の最後に書いた。弾薬節約、成功。前線指揮官疲労、要観察。

 

 殺生影響、未整理。最後の一行だけ、少し小さくなった。小さく書けば軽くなるわけではない。

 

 それでも、手が勝手にそうした。

 

――――――――

 

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