ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《王録》 九章 六節
『秤は重さを量るが、手に残る熱までは知らぬ。』
救護所の入口には、濡れた外套が四枚掛けてあった。
どれも同じ色ではない。泥の付き方も違う。膝から下だけが黒いもの。
肩口に細い焦げ跡が走っているもの。袖の内側だけが血で固まっているもの。僕は、それを順番に見てしまう。
見ない方が楽なのに、目がそちらへ行く。
「羽黒中尉、手を出してください」
救護兵が言った。彼女は僕より少し年上に見えた。額の汗を拭く布が、首に巻かれている。
布の端に小さな赤い染みがあった。誰のものかは聞かない。聞いても、たぶん仕事の邪魔になる。
「まだ動きます」
救護兵は、返事の代わりに椅子を少し引いた。
座れ、という意味らしい。
「動くかどうかは、こちらで見ます」
右手を差し出すと、救護兵は包帯の上から指を当てた。
強くはない。
けれど、痛い場所だけを正確に押してくる。
「剣を握った手ですか」
「はい。銃の反動とは、痛む場所が違います」
救護兵は、親指の付け根を押したまま僕を見た。
「今日は、少し違いました、というわけですか」
「昨日までは、僕も銃の手だと思っていました」
口にしてから、軽すぎたと思った。救護所の奥で、誰かが咳をした。湿った咳だった。
笑って流すには、少し音が近い。
「すみません」
「謝るなら、手を動かさないでください」
「はい」
包帯がほどかれる。血は止まっていた。ただ、親指の付け根に紫色の腫れがある。
三郷の剣は、僕の手に合っていない。当たり前だ。あれは三郷の手に合っていた。
昼休みに牛乳パックを片手で潰して、飛井くんに「握力ゴリラ」と言われていた手。
体育の後、僕の水筒まで勝手に持っていって、あとで中身が半分になっていた手。
誰かが転びかけると、先に肩を支えていた手。
その剣を、僕が握った。
合わない。
合わないまま、使った。
「折れてはいません」
救護兵が言った。
包帯の下で、親指が少し痺れている。
「ただ、今日もう一度同じことをすると、握力が落ちます。剣だけではなく、銃でもです」
「筆なら、まだ動きます」
「それは落ちてもらうと困ります。戦果欄より先に、治療記録が増える」
救護兵が、ほんの少し息を抜いた。僕も少し笑った。うまく笑えたかは分からない。
でも、彼女の手つきは少し緩んだ。
「では、筆は左手で」
救護兵は包帯の端を引きながら、僕の右手を少し持ち上げた。
「右手を休ませる気があるなら、それでいいです」
「休ませます。少なくとも、今は」
救護兵は、僕の右手の親指の付け根を軽く押した。
鈍い痛みが、手首の奥へ沈む。
「信用はしません。さっきから、返事だけは素直です。痛い場所を言わない人ほど、あとで包帯を増やすんです」
「妥当です」
包帯が新しく巻かれる。布は薄い。救護布の不足は、手触りにも出る。
前より硬く、吸いが悪い。僕が今日、徹甲弾より上に置いたもの。それでも足りないもの。
「中尉」
入口から声がした。小銃班長だった。外套を脱いでいない。
裾から水が落ちている。
泥と雨の匂いに、機銃油の匂いが混じっていた。
「報告だけです。入っても」
「どうぞ」
救護兵が僕の手を押さえたまま、小銃班長を見た。
「短く」
「はい」
班長は、救護兵へ先に返事をした。
いい判断だと思う。
「水車小屋線、敵歩兵の再接近なし。機甲衝撃兵の残骸は、まだ燃えています。敵戦車は砲塔を失い、履帯が泥を噛んで後退不能。操縦手らしき一名、投降しました」
「生きているんですか」
「はい。左足を挟まれています。救護搬送を要請されています」
救護兵の手が、ほんの一瞬だけ止まった。すぐ動いた。包帯の端が、指の間を通る。
敵操縦手。さっき僕が砲塔を割った車両にいた人。`生命`が落ちなかった方。
落ちた方もいる。落ちなかった方もいる。生きているなら、運ぶ。
分かりやすい。分かりやすいことまで、少し重い。
「救護布は」
僕が聞くと、救護兵が先に答えた。
「足りません。清潔なものは、重傷者の処置で使い切ります」
「担架は」
「二つ空いています。片方は穴があります」
穴のある担架。敵操縦手は足を挟まれている。運ばなければ届かない。
「穴がある方を敵操縦手へ。固定板を車体側で。戦車の側面増加装甲を外せるなら、それを」
小銃班長は濡れた鉛筆を掌で拭き、手帳へ書いた。
「敵にも使いますか」
「生きているなら」
「了解」
班長はそこで、少し言葉を探した。外の雨音が、布屋根を細かく叩いている。
「兵が見ています。さっきの戦闘です。結界持ちの機甲衝撃兵を剣で止めて、英雄級を砲撃へ渡して、戦車を戦闘不能にした。そういう話になっています」
「砲兵と小銃班と結界班の仕事です」
「それも言っています。ですが、兵は中尉の名前で覚えます」
救護兵が包帯を結び終えた。右手が白くなる。白くしたところで、さっき握ったものが消えるわけではない。
「戦果表に班名を入れてください。水車小屋線小銃班、第三結界班、山崎砲兵組。機甲衝撃兵撃破は連名。英雄級撃破も連名。戦車砲塔喪失も連名」
班長は、そこまで聞いてから三郷の剣へ目を落とした。
「中尉の直接交戦は」
「消さないでください。消すと、僕だけが都合よく後ろへ戻ったことになります」
自分で言った。消したかった。でも、消すと別の嘘になる。
「消しません。ただし、単独撃破とは書かない」
「了解」
返事は早かった。たぶん、彼もそれを望んでいた。自分たちの仕事が消えないこと。そして僕だけが英雄欄に載らないこと。どちらも。
✶
地図室へ戻ると、板の上に新しい札が増えていた。
赤ではない。黒でもない。薄い青の札。
人事連絡。
嫌な色ではないはずなのに、僕は少し足を止めた。
通信兵が、濡れた封筒を二本の指で持っている。
封蝋は割れていない。第一野戦司令部の印。その下に、補助印が三つ。
砲兵。救護。補給。
戦闘の結果だけでなく、使ったものと戻したものまで見られている。
「中尉、司令部より」
「今、読んでもいいものですか」
「急ぎの扱いです」
「悪い知らせですか」
通信兵は、封筒を少し持ち直した。
指先が赤い。
冷えたのだろう。
「悪い知らせではないと思います」
「思います」
「こういうものを、いい知らせと言うかは、人によるので」
「それは、正しいですね」
封を切る。中の紙は厚い。薄い紙なら現場用。
厚い紙なら、後で残す用。僕はその違いを覚えてしまっている。書面には、整った文字が並んでいた。
支線指揮権拡張。末尾に、臨時大尉待遇。
前線直接交戦能力、観測指揮能力、補給線維持実績を加味。
水車小屋線戦闘における敵突入軸崩壊、敵機甲衝撃兵撃破、敵戦車砲塔喪失および行動不能、敵英雄級撃破を確認。
敵歩兵死者確認二十三、敵術式兵死者四、敵戦車乗員死亡三を確認。
正式な辞令ではない。だが、次からは支線の兵、弾、救護順を僕の欄へ集めるという意味だった。
弾薬係は箱の蓋を閉め、補給係は青い札を地図の右端へ寄せた。増えた権限の置き場所が、先に決まっていく。
「読んでも」
補給係が言った。
青い札の位置を直し終えていない。
気になっているのだろう。
「読み上げるほどのものではありません。要点だけなら、仕事が増えます」
弾薬係が、小さく息を吐いた。
「階級が上がると、弾も増えますか」
「増えるように見せる方法は増えます」
弾薬係は、閉じかけていた箱の蓋を親指で押さえた。
「最悪ですね」
「はい」
地図係が、青い札を地図の右上へ移した。そこは、戦闘札を置かない場所だ。人事の札。
僕の名前。それが戦場の外側に置かれる。
外側に置かれたはずなのに、線は内側へ伸びている。
「おめでとうございます、と言うべきですか」
通信兵が聞いた。彼の声は、少し低かった。茶化してはいない。
困ってもいない。本当に、適切な言葉を探している。
「今は、保留でお願いします」
「保留」
「はい。正式になったら、その時に考えます」
「では、保留で」
通信兵は、手帳に本当にそう書いた。
羽黒中尉、祝辞保留。
見えてしまった。
「それ、残りますか」
通信兵は手帳を閉じなかった。
「残ります。残るものなので」
「困ります」
部屋の端で、誰かが小さく笑った。その笑いは悪くなかった。少し、息が戻る。
僕は封筒を畳み、記録板の横へ置いた。
昇進理由欄には、きれいな言葉が並んでいた。
直接交戦能力。観測指揮能力。補給線維持実績。
敵突入軸崩壊。敵英雄級撃破。敵戦車砲塔喪失。
敵戦車行動不能。敵歩兵死者確認二十三。敵術式兵死者四。
紙の上では、どれも同じ幅に収まる。
昨日、三郷の剣が合わなかったことも、敵操縦手の名前を聞き取るまで水筒を支えたことも、砲塔がずれた時の鈍い音も、そこには入らない。
入らないものの方が、手に残っている。
✶
夕方、敵操縦手が運ばれてきた。
担架の穴は、機甲衝撃兵の外装板で塞がれていた。
板には、僕の短銃弾が削った跡が残っている。
使い回し。
戦場では、物も意味もすぐ別の用途へ回る。
操縦手は若かった。
少年と言うには大人で、大人と言うには頬が薄い。
髪に泥が固まり、目の下に黒い煤が張りついている。
左足は膝の下で固定されていた。固定板の紐が、一本だけ違う色をしている。たぶん味方兵の予備紐だ。
敵の足を、味方の紐で縛っている。正しい。正しいけれど、目がそこへ残る。
僕が近づくと、操縦手の頭上に表示が揺れた。
`生命`。落ちてはいない。`精神`
細い。その横に、まだ薄い線が見える。奥の表示
折れていない。
折れていない人間を乗せたまま、僕は砲塔を失わせた。
違う。砲塔を止めた。人は、割れていない。
でも、同じ場所にいた。
「水」
操縦手が言った。こちらの言葉ではなかった。翻訳魔法が、少し遅れて意味を持ってくる。
救護兵が水筒を取った。僕はその前に、膝をついた。右手は使わない。
左手で水筒を支える。操縦手は、僕を見た。瞳に焦点が合うまで、少し時間がかかった。
「お前か」
翻訳魔法が、短く置いた。僕は答えに迷った。砲塔を切ったのは僕だ。
砲弾を撃ったのは味方だ。
車体の後ろを泥へ落としたのは、山崎さんの砲弾だ。
戦車を前に出したのは彼らだ。
命令したのは誰か。
知っている名前と知らない名前が、頭の中で引っかかる。
「はい」
結局、それしか言えなかった。操縦手は水を飲んだ。一口目でむせる。
救護兵が水筒を引いた。
「ゆっくり」
操縦手は、何かを言おうとした。唇が動く。翻訳魔法が拾いきれない。
たぶん、名前だった。誰かの名前。自分の名前かもしれない。
隣にいた人の名前かもしれない。
僕が落ちるところを見た`生命`の名前かもしれない。
「記録します」
僕は言った。
彼に通じたかは分からない。
でも、言わないよりはましだった。
「名前が言えるなら、言ってください。言えなければ、識別符を探します」
操縦手は、喉を鳴らした。舌が乾いて、うまく動いていない。救護兵が水をもう一度含ませる。
操縦手は、今度は少し飲めた。その間、僕は彼の手を見る。指の腹が硬い。
操縦桿を握る手。爪の間に黒い油。僕の弾薬係と、少し似ている。
それが嫌だった。似ていてほしくなかった。
似ているなら、撃つ前に止まれたはずだと思ってしまう。
止まれないから、戦場なのに。
「……ルガ」
操縦手が言った。
短い音だった。
翻訳魔法は、それを名前として扱った。
「ルガ」
僕は繰り返した。
「敵操縦手、ルガ。生命あり。左脚挟圧、救護搬送済み」
通信兵が書く。敵の名前が、こちらの紙に乗る。乗ったから何かが救われるわけではない。
でも、乗らなければ、もっと早く消える。操縦手は僕の襟元を見た。階級章ではなく、その横の汚れ。
三郷の剣を担いだ時についた泥だ。
「英雄」
翻訳魔法が、その単語を拾った。
僕は水筒を持つ手に力を入れた。
右手ではなく左手なのに、包帯の下が痛む。
「違います」
言葉が早く出た。
救護兵がこちらを見た。
操縦手も、目を細くする。
「僕は、違います」
二度目は、少し遅くなった。
否定したい相手は、操縦手だけではなかった。
班長でも、通信兵でも、司令部の辞令でもない。
たぶん、さっきから濃く見えている読みにくい二つの表示だった。
違う。
違うと言っても、表示は消えない。
「中尉」
救護兵が、僕の左手から水筒を取った。
「記録は終わりました」
救護兵は、水筒を台の上へ戻した。
台の向こうでは、別の負傷者が担架の上で膝を抱えている。
「次の人がいます」
「はい」
立ち上がる。
膝に泥がついていた。
いつついたのか、覚えていない。
地図室へ戻る前に、僕は入口の外套をもう一度見た。
外套は四枚から五枚に増えていた。新しい一枚は敵兵のものだ。色も泥のつき方も違う。
でも、掛けてある釘は同じだった。
✶
夜の記録板には、行が増えた。
水車小屋線、保持。
敵機甲衝撃兵一、撃破。
敵戦車一、砲塔喪失、行動不能、乗員三死亡確認相当、乗員一救護搬送。
敵英雄級一、撃破。十ミリ徹甲弾、節約二発相当。通常榴弾、消費二。
救護布、危険残量。臨時大尉待遇、保留受領。敵操縦手名、ルガ。
僕は最後の行を見た。そこだけ、戦果欄から少し離れている。離したのは僕だ。
近くに置くと、同じものになってしまう気がした。
遠くに置いても、同じ板の上ではある。
遠くへ置いても、左手の二つの表示はまだ濃い。
昨日より輪郭が太い。
見間違いだと言えるほど薄くはなかった。
僕の右手には包帯があり、記録板には戦果があり、救護所にはルガの名前が増えている。
どれが理由なのかは分からない。
分からないのに、全部が同じ場所へ積まれていく感覚だけがあった。
僕は部下の前では笑えるようになっている。
冗談も、少しなら言える。
保留なんて言葉で、祝辞も避けられる。
それは、前よりうまくやれているということだ。
うまくやれているなら、悪化していないとは限らない。
「中尉、夕食です」
弾薬係が、椀を二つ持ってきた。片方を僕の机に置く。もう片方は自分のものらしい。
「食堂班からです。冒険者向けの分が、今日は余ったそうで」
弾薬係は、木箱を椅子代わりにして座った。右手の爪の黒い線は、昨日より薄いが消えてはいない。
椀から、豆と塩の匂いが上がる。たしかに昨日より濃い。僕は一口食べた。舌が、味を覚える。まだ覚えられる。
「おいしいですね」
「食堂班へ伝えます」
弾薬係が笑った。僕も、今度は少し自然に笑えたと思う。外では、まだ雨が降っている。
水車小屋線の泥は、明日も乾かない。弾も増えない。救護布も増えない。
階級だけが、増えようとしている。椀の中の豆を、僕は数えなかった。数えたら、食べられなくなりそうだった。
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