ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《王録》 九章 七節
『道は踏まれて深くなるが、戻る足がなければただの溝となる。』
朝になると、豆の味は残っていなかった。代わりに、口の奥へ鉄の味が戻っていた。歯を磨いても、消えない。
昨日の戦闘のせいか。寝不足のせいか。それとも、思い出す順番が悪いのか。
分からない。分からないまま、僕は地図室へ入った。
地図室の中央には、昨日より薄い紙が置かれている。
薄い紙は現場向けだ。厚い紙は残すため。薄い紙は使い捨てるため。
同じ文字でも、紙の厚みで寿命が違う。
「中尉」
補給係が、紙束を持って待っていた。袖口は湿っている。夜明け前に箱を洗った跡だ。木箱は泥を含むと重さが変わり、記録がずれる。それを嫌う人間の袖だった。
「昨日の帰り荷です。空薬莢四袋、結界導線二巻、壊れた小型結界具三つ。冒険者便は、三便予定のうち一便だけ成立しました」
「理由は」
「割が合わないそうです。南西林道の護衛依頼が報酬二割増しで、皮と角の追加買い取りもある。こちらの復路回収便は、危険手当込みでも拘束時間が長い。荷台が空のまま待つ時間は、冒険者にはただの損です」
「食事改善は効いていないんですか」
「効いています。ただ、腹は戻っても時間は戻りません」
補給係は淡々と言った。責めてはいない。ただ、足りないものを足りないと言っている。弾と同じだ。
次の紙には、行きの荷、帰りの荷、待機時間、報酬、危険手当の欄に線が引かれていた。空欄の方が数字より目立つ。
「馬車も車両も空きはあります。道はあり、人も通る。ただ、こちらが欲しい時間には通りません」
輸送量の不足ではない。こちらが欲しい時間と、冒険者が稼げる時間が噛み合っていないだけだ。
「中尉」
弾薬係が、横から口を挟んだ。右手の爪は、人差し指だけまだ黒い。
「十ミリ徹甲弾は、増えていません。前線の小銃班から、通常弾を代わりに使う案が出ています」
「相手は結界と装甲です。通常弾で削れるのは結界容量の端と疑似筋肉の露出部くらいで、数を撃てばその分だけ弾が減ります」
弾薬係は黙った。僕も黙った。計算するための間だった。外で荷車の軸が鳴る。戦場の朝は、鳥より先に軸が鳴る。
「通常弾を徹甲の代わりにはしません。ただし、結界を剥がす前段には使います。小銃班へ。通常弾は装甲を抜くためではなく、結界の半減時間を乱すために撃つ。六秒の間に続けて当てる。貫通は狙わない」
「小銃班は嫌がります。当たったのに抜けないと士気が落ちるので」
「では、撃破ではなく継ぎ目作りだと伝えてください。結界班へも。通常弾の連射後に斬撃班が入るなら、同じ線を押す。結界は面で受けますが、斬撃は線に残ります。昨日の剣の跡がそうでした」
言ってから、右手が少し痛んだ。三郷の剣。白い結界焼けの跡。
「剣は、また使いますか」
弾薬係が聞いた。補給係もこちらを見た。地図係は見ないまま、青い札の位置を直している。聞いているのは分かる。
「必要なら、僕が出ますよ。ただ、剣を使う前に、弾と結界と砲で済ませます。僕が出るのは、最後の節約です」
最後の節約。言い方が悪い。人を弾の代わりに置く。昨日、それをやった。僕自身を置いたから、少しましだと思っている。その考え方も、たぶん危ない。
✶
昼前、冒険者組合から使いが来た。
グラスではなかった。
背の低い女の人で、革帽子の縁に乾いた草が挟まっている。
袖は肘までまくってあり、前腕に古い噛み傷が二つあった。
右の耳だけ、飾り紐が三本。
一本は赤。
一本は黄。
一本は色が抜けて、何色だったのか分からない。
ネクサス便の調整役として派遣された人だと、補給係が先に耳打ちした。
昨日まで名前だけが先に走っていた線に、ようやく専用の人間がついたらしい。
「組合ネクサス便担当のリメルです」
リメルは名乗る時、革帽子を取らなかった。
代わりに、耳の飾り紐を一度だけ指で払う。
「羽黒です」
「知ってます。中尉さんでしょう」
「処理上は、そうです。名前だけ先に上がって、体の方はあまり追いついていません」
「その言い方、流行ってるんですか」
「僕の周りだけです。あまり広めない方がいいと思います」
リメルは、濡れていない外套を椅子の背に掛けた。
雨の中を来たはずなのに、外套が濡れていない。
油をよく入れてある。
道具を手入れする人だ。
「先に言います。今のネクサス便、条件が悪いです」
「聞いています」
「聞いてるなら話が早い。待ち時間が長い。荷の引き渡し責任が曖昧。軍の印が重い。あと、帰りに死体と同じ荷台になる可能性がある」
最後だけ、部屋の音が少し減った。
リメルは気にしない。
気にしないようにしているのか、本当に気にしていないのかは分からない。
ただ、彼女の噛み傷は古い。
多分、どちらでも仕事はする人だ。
「死体ではなく、遺体です」
僕が言うと、リメルは帽子の縁を指で弾いた。
乾いた草が少し揺れる。
「その言い換えで金は増えますか」
「増えません」
「なら、組合では死体で通ります」
リメルは紙の余白に短く印をつけた。
組合側の言葉は変えない、という印らしい。
「分かりました。こちらの記録では遺体で通します」
「そういうとこ、面倒ですね」
「よく言われます」
「でしょうね」
リメルは笑わなかった。
でも、こちらを馬鹿にした感じもない。
ただ、値段の話へ戻る人の目つきだった。
「ネクサス便側の提案です」
彼女は紙を出した。文字は大きい。雨でも読めるようにだろう。
「待機時間を買ってください。荷を運ぶ報酬だけではなく、待っている時間に金をつける。半刻単位。荷が揃わなくても、待った分は払う」
補給係が、小さく息を吸った。嫌な案ではない。ただ、金が要る。
「財源は」
「軍が出す」
「軍も足りません」
リメルは、最初からその返事を予想していたように紙を裏返した。裏には、空薬莢、結界導線、壊れた小型結界具の三つが大きく書かれている。
「なら、帰り荷の買い取り価格を上げる。組合が一度買い取って、軍は組合からまとめて買い戻す。冒険者は待たずに売れる」
「差額は、組合の手数料になりますね。軍の帳簿では嫌われます」
「安い道が欲しいなら、兵隊さんだけで運べばいい」
正しい。腹が立つくらい、正しい。兵隊だけで運べないから、ここにいる。冒険者は善意で道を走らない。走る理由を作る必要がある。
「それと、先に言っておきます。組合にも動員協力の紙が回ってきてる。冒険者を枠ごと軍属にする話。うちの上役は断り続けてるけど、いつまで保つかは知らない」
「保たせたいですか」
「当たり前です。動員で連れて来られた冒険者は、もう冒険者じゃない。安い兵隊です。そうなったら、帰り荷の値段の話なんて、誰もしなくなる」
昔、装甲列車の脇で聞いた冒険者の声を思い出した。対人の汚れ仕事はやらねぇ。どっちかの旗の下にぶら下がらねぇ。あの「本来」は、今、紙一枚のところまで追い詰められている。
「もう一つ。ネクサス便では、遺体搬送を別料金、別枠にしてください。これは譲れません。荷台に遺体が乗ると、帰った先で誰が下ろすか、誰が洗うかで揉める。冒険者はそこまで契約していない」
僕は、昨日の外套を思い出した。同じ釘に掛かった敵の外套。色が違う布。誰の仕事か決めなければ、誰かの善意に落ちる。善意に落ちた仕事は、たいてい一番疲れた人のところへ行く。
「遺体搬送は、軍側責任で別枠にします」
補給係が、紙に線を引く。
「冒険者便は、遺体と同載しない。負傷者搬送は、救護所の指示がある時のみ。追加報酬をつける」
「悪くないです」
リメルは、初めて少し頷いた。ただ、すぐ次の行を指で叩く。
「買い取り価格は」
「今日すぐには決められません。ですが、仮札を出します。空薬莢、結界導線、壊れた小型結界具、歯車部品。この四つは組合仮買い取り対象」
「仮札だと、現場で揉めます。荷台の上で、字を読ませないよう、色を分けてください」
「赤は弾薬系。青は結界具。黄は機械部品。白は救護返却材」
「白はやめた方がいい。遺体札と間違えます」
僕は、言葉を止めた。三郷の剣に残った結界焼け。救護布も白い。戦場では、色の間違いが手の動きを遅らせる。
「救護返却材は緑にします」
「それならいいです」
補給係が、すぐに書いた。リメルはその手元を見る。
「中尉さん、あなた、軍人にしては商売の話ができますね」
「最近、できるようになりました。弾が減ると、財布の話を避けられなくなります」
「褒めてませんよ」
リメルは、今度は少し笑った。乾いた草が、帽子の縁で揺れる。この人は、値段が合えばまた来る。値段が合わなければ来ない。分かりやすいことは、冷たいとは限らない。
✶
午後、臨時大尉待遇の権限が、最初の仕事を連れてきた。
第一野戦司令部からの短文。支線輸送契約、現地裁量を認む。上限額、別紙。
別紙は、なかった。通信兵が封筒の中を二度見た。
「別紙がありません」
「上限額が分からない契約裁量ですね」
「どうしますか」
「使いません」
僕は即答した。
地図係がこちらを見た。
補給係も、リメルも見る。
「別紙がない上限額は、あとで誰かの責任になります。今は仮札だけ出します。現金支払いはしない」
「冒険者は嫌がります」
リメルが言った。
「嫌がるでしょうね」
「それでも」
「はい。軍票でも現金でも、上限なしで出すと後で線が切れます。切れた線は、たぶん現場に戻ってきます」
上は、現地裁量と言う。
現地は、裁量の形を探す。
形がないまま使うと、あとで使った人間の首へ戻る。
形にせず使えば、あとで誰かの責任になる。それより困るのは、補給線が止まり、救護布が遅れることだ。
弾が届かない。その方が困る。
「仮札の価値は」
「食事、優先受付、帰り荷の積み順、修理待ち順の繰り上げ。この四つです。今、僕たちが持っているのは順番です」
金は上限がない。弾は少ない。救護布も少ない。でも、順番なら少し動かせる。順番を動かすことは支配に近い。嫌な感覚がある。それでも、何も動かさなければ、誰も来ない。
「冒険者側は、それで動きますか」
リメルは、噛み傷のある腕を組んで少し考えた。
「修理待ち順の繰り上げは効きます。食事は、濃ければ少なくとも文句を言いながら来ます」
「濃くします」
補給係が、食堂班の配分表を思い出したように紙を見た。
「食堂班が嫌がります」
「食堂班にも、修理待ち順か受付順の仮札を回します。鍋の前だけに負担を置くと、次に鍋が止まります」
補給係が、初めて露骨に嫌そうな息を吐いた。
「僕も嫌です。ですが、弾がありません。食堂の手間と、前線の空箱を比べると、今は鍋の横に人を置くしかない」
それで、部屋は黙った。今度は、全員が同じ理由で黙った。十ミリ徹甲弾は増えない。救護布も増えない。魔導冷却液も、瓶の底に残るだけ。だから、道を作る。片道ではなく、戻る道を。
「仮札名は」
「復路優先札」
通信兵は札束の候補を並べた。黒、白、緑、赤、青、黄。どれも、もう別の意味を持っている。
「黒は避けます。白も避けます。緑は救護返却材に使う。赤、青、黄は物品系」
「残る色が少ないです」
リメルが、窓際の濡れた麻袋を指で示した。袋の口を縛る古い札は、雨と泥で茶色に染まっている。
「茶色。泥の色なら、誰も死体札と間違えません」
通信兵は新しい欄を作った。
「茶札」
見栄えはよくない。でも、見栄えが悪い方がいいこともある。派手な札はすぐ盗まれる。泥の色の札なら、大事なものに見えにくい。
「茶札、復路優先。待機時間の代替補償。食事、修理、積み順、受付順に使用可」
「それでお願いします」
僕は言った。
「発行権限は」
通信兵の筆が、名前欄の上で止まっていた。
誰の名前を載せるかで、あとから責任の行き先が変わる。
「僕の名前で」
補給係が、こちらを見た。弾薬係も見る。リメルも見る。
臨時大尉待遇。支線指揮権拡張。
リメルの紙の上で、その二つは支払いより先に効いた。
こういう時だけ、階級は手早く仕事をする。
ありがたいと思う前に、少し腹が立った。
「責任が重くなりますよ」
リメルが言った。
「もう、軽くはありません」
「それはそうでしょうね、英雄さん」
「違います」
今度は、少しゆっくり言えた。リメルは、僕の包帯を見た。右手の白い布。
昨日より少し厚い。
「違うなら、何です」
すぐには答えられなかった。
戻る道、という言葉だけが先に浮かぶ。
「戻る道の担当です」
口にしてから、少し救われた気がした。たぶん、言葉で逃げている。でも、今はその言葉を使う。
僕は英雄ではない。
英雄欄に名前が載りかけているだけの、戻る道の担当だ。
「では、戻る道の担当さん」
リメルは、紙を一枚こちらへ押した。
「茶札、今日中に三十枚。明日の朝までに百枚。出せますか」
百枚。数だけなら大したことはない。けれど、紙に紐を通して、印を押して、誰が持ったか控えるなら別の仕事になる。
「出します。紙は地図の余白を切ります」
「使わない部分だけにしてください。中尉のもちろんは、少し信用が落ちています」
僕は鋏をいったん置いた。ここで急ぐと、たぶん本当に補給線を切る。
「反省します。線が残っているところには触りません」
部屋に、少し笑いが戻った。軽い笑いだ。でも、僕はそれを取りこぼしたくなかった。笑いがあるうちは、人はまだ道を選べる。
✶
夕方までに、茶札は二十七枚できた。三枚足りない。紙が足りないのではなく、紐が足りなかった。
僕は右手を使わず、左手で紐を通した。うまくいかない。二枚目で紙を破った。弾薬係が黙って別の紙を差し出す。
「中尉が紐通しで負傷したら、報告欄が増えるので」
「それは困ります。負傷理由に紐と書かれるのは、英雄欄より嫌です」
結局、少し笑った。左手の指先に紙の繊維がつく。茶色の札は、指先に地味な粉を残した。泥に落ちても目立たない。英雄の色ではないし、誰かが欲しがって飾る色でもない。だからこそ、戻る道には向いている気がした。
「中尉」
地図係が、窓の外を見た。
外では、冒険者の荷車が一台、停まっている。
荷台には空薬莢の袋。使用済み結界導線。そして、壊れた機甲衝撃兵の外装板が二枚。
リメルが荷台の横に立っていた。
革帽子の乾いた草が、夕方の風で揺れている。
「一便、来ました」
僕は札束を数え直した。
紐を通した茶札は二十七枚。
泥のついた荷台の横には、三十人分の手がある。
「三枚、足りません」
「では、最初の三人には食堂の豆を多めに」
鍋の前で豆をすくる人たちの手首の火傷の跡が浮かんだ。
「僕が謝ります。茶札が足りないと言うよりは、まだましです」
地図係が、少し笑った。この部屋の笑い方が、少しずつ増えている。増えているのに、外では弾が減っている。
変な釣り合いだ。でも、釣り合いが完全に壊れるよりはいい。僕は記録板へ向かった。
ネクサス便側の提案は、茶札という形でこちらの板に移った。
二十七枚だけ発行できた札で、復路優先便はどうにか一便だけ成立しそうだ。
遺体搬送は別枠へ。敵操縦手ルガの救護は継続。十ミリ徹甲弾と救護布は、どちらもまだ届いていない。
その下に、臨時大尉待遇の運用開始、と書く。
最後の一行で、筆が少し止まった。
運用開始、という文字は、思ったより軽く書けた。
軽く書けたぶん、怖かった。
呼び方が変わると、補給係の紙束も、リメルの値踏みも、通信兵の復唱も少しずつ変わる。
僕が望んだかどうかは、その変化の中に入っていない。
夕方の光の中でも、左手の二つの表示はまだ濃い。
昨日より濃い、と言い切るには少し怖かった。
今日は誰も殺していない。
それなのに、茶札を束ねた左手が重い。
責任という言葉に逃がすには、札の紐が指へ食い込みすぎていた。
僕は、椀の豆を数えなかった。
でも、札は数えた。
二十七枚。
三枚足りない茶札は、机の上で小さな空き地を作っていた。
明日の朝までに百枚。
道そのものは地図にある。
ただ、その道を選ぶ理由は、まだ札の数ほども揃っていなかった。
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