ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《王録》 九章 八節
『名のない札ほど、手から手へ渡る時に重くなる。』
茶札は、朝までに九十一枚になった。
ネクサス便側から出た提案は、こちらの手を通るとただの札になる。
ただの札になると、誰が言い出したのかが薄くなる。
薄くなるものほど、後で揉める。
百枚には届かなかった。紙は足りたし、紐もどうにかなった。
足りなかったのは、札を受け取る側の納得だった。
食堂班が、まず嫌がった。
「味を濃くするのは分かります。分かりますけど、豆は増えません」
食堂班の班長は、そう言って鍋の蓋を開けた。
湯気が上がる。
塩と豆と、少し焦げた底の匂い。
夜明け前の地図室より、ここの方がずっと戦場に近い気がした。
鍋の底は、嘘をつかない。
水を足せば薄くなる。
塩を足せば減る。
豆を増やしたければ、どこかから持ってくるしかない。
「茶札持ちの冒険者には、味を濃くしてください」
僕が言うと、班長は木杓子を鍋の縁に立てた。手首には、小さな火傷の跡がいくつもある。鍋と一緒に働いてきた手だった。
「兵隊の分は薄くしないでください」
「それは無理です」
「では、冒険者分を濃くする日は、兵隊分にも何か足します」
「何を足すかまで決めてから来てください。ここは紙の上じゃありません」
正しい。ものすごく正しい。
「すみません」
「謝罪札はいりませんよ。昨日から、みんなそればかり言っています」
班長は、少し笑った。木杓子で鍋をかき回す。底の焦げが、匂いに混じった。
僕は、食堂の壁に貼られた配分表を見る。豆、塩、乾燥野菜、脂。どの欄にも赤い線が入っていた。増やせないものは赤くなる。残るのは、どの椀へ先に濃い汁を入れるかという順番だけだった。
ここへ来てから、僕はその順番ばかり動かしている。ステータスオープンで盛り上がっていたあの時の僕なら、食堂の鍋の前で頭を抱える未来なんて、まず想像しない。
「冒険者へ濃い汁を出すのはいいです。ただ、兵隊の椀が薄くなるなら、次から私は茶札を鍋に入れます。兵隊の椀が薄くなれば、結局、冒険者の荷を下ろす腕も減ります」
「はい」
僕は配分表の下へ、短く書いた。茶札食対象者分、香草屑を追加。
「倉庫に、乾いたものが少し残っています。味は濃くなりませんが、匂いは変わります」
「兵隊側にも、同じ鍋へ入るなら」
「それなら、まあ」
少し、話が前へ動いた。勝った、とは言いにくい。それでも、ここで失敗すると前線まで歩く人が減る。食堂の湯気は、地図の線より遅く、けれど確実に兵の足へ届く。
✶
修理班は、食堂班より厳しかった。
「順番を繰り上げると言われても、手は増えません」
修理班長は、壊れた結界具を分解しながら言った。
片目に拡大鏡をつけている。
鼻の横に細かい金属粉がついていた。
爪は短く切られている。
指先だけが黒く、関節の溝に油が残っている。
弾薬係の黒さとは違う。
こちらは、もっと古い黒さだった。
「手を増やす話ではありません」
僕は作業台の端に置かれた汚れた導線束を見た。
泥が乾いて、結界具の溝に細く詰まっている。
これを落とすだけでも、修理班の指は取られる。
「減らしたいのは、修理そのものではなく、修理に入る前の作業です。茶札持ちの冒険者に、泥落としと洗浄だけ手伝わせます」
修理班長の手が止まった。
止まったのは、怒ったからではない。
たぶん、作業台の上にある汚れの量を数え直したからだ。
「工具を触らせるなら、壊れますよ」
彼は、細い真鍮のかぎ棒を布の上へ置いた。
先端が曲がれば、それだけで使い物にならない道具だった。
「精密工具は渡しません。桶と布と、泥落とし用の古い刷毛だけです」
「それでも、結界具を水に沈める馬鹿が出ます」
「沈めたら、その人の茶札を無効にします」
「無効にする前に一つ壊れます。壊れた一つは、札では戻りません」
修理班長は、机の下から欠けた外装板を引き出した。端に水を吸った跡がある。乾いても、歪みは戻っていない。
「では、結界具本体には触らせません。導線の泥、車輪留め具、外装板の表面。触れる場所を札に書きます」
修理班長は、古い刷毛を置いたあとで、僕の右手を見た。包帯の巻き目は、朝より少し緩んでいる。
「昨日、剣を振った手ですね。その巻き方なら少しでは済んでいません」
反論しようとして、やめた。親指を曲げるだけで、包帯の下が熱を持つ。三郷の剣。合わない柄。道具は使う人を選ぶ。人も、仕事を選ぶ。選べなかった時に、壊れる。
「触らせる範囲を、もっと狭くします。結界導線の泥落としと、車輪留め具の洗浄だけ。外装板の歪み確認は外します」
「そこまで削るなら、やれます」
修理班長は、古い刷毛を一本、作業台の端へ放った。毛先が半分ほど開いている。
「ただし、この刷毛だけです。真鍮のかぎ棒へ手を伸ばしたら、その場で追い出します」
修理班長は、結界具の小さな輪を外した。青白い魔力の残りが、輪の内側で弱く滲む。切れ目はない。
ただ、焼けた面が薄く濁っている。昨日、砲撃で削られた結界の色に似ていた。
「結界具も、戻りますか」
修理班長は、分解しかけの輪を指先で支えた。
青白い残光が、爪の油に薄く映る。
「戻るものは戻します。戻らないものは、部品を取ります」
「人と同じ言い方をしないでください」
思ったより、早く言葉が出た。修理班長は、手を止めた。僕も止まった。
自分の声が、少し硬かった。修理場の奥で、誰かが油皿を置く音がした。金属と陶器の小さな音。
「すみません」
僕は言った。
「今のは、僕が悪いです」
「いえ」
修理班長は、外した輪を布の上に置いた。
布には、細かい魔導粉がついている。
「こちらも、言い方が悪かった。部品は部品です。人は人です」
「はい」
「ただ、戻らない部品があるから、戻る車両もあります」
「分かっています」
「戻らない人がいたから、戻った人もいる」
その言葉は、少し雑だった。
雑で、乱暴で、慰めにもならない。
でも、修理班長は名言を言うために言ったのではなかった。
作業台の上の壊れた結界具を見ながら、ただ自分の仕事の言葉で言った。
だから、残った。
「……分かっています」
今度の返事は、さっきより小さくなった。修理班長は、それ以上は言わない。拡大鏡を戻し、次の輪を外した。
僕は、茶札の運用表へ書く。修理補助対象。泥落とし。
洗浄。分解不可。歪み確認不可。
工具貸与は監督付き。
誰かができることと、できないことを分ける。
線が一本増えるだけで、作業台の上の手つきは少し変わる。
古い刷毛を持つ人間と、真鍮のかぎ棒を持つ人間が分かれる。
その分だけ事故は減るはずだった。
はず、という言葉を使う回数が、最近増えている。
✶
昼過ぎ、茶札は初めて盗まれた。
盗まれたと言っても、犯人はすぐ見つかった。
冒険者の列にはいなかった。
補助兵の腕章もない。
食堂の下働きの少年だった。
空の豆袋を両腕で抱えたまま、入口の脇で固まっている。
年は、僕たちよりかなり下だ。
袋の口紐が細い腕に食い込んでいた。
足首のところでズボンが余り、靴だけが妙に大きい。
中に布を詰めて履いている。
誰かのお下がりなのだろう。
雨を吸った布が、履き口から少しはみ出していた。
走るには向かない靴だった。
盗んで逃げるにも、たぶん向かない。
「盗むつもりは、なかった」
少年はそう言った。茶札は、彼の袖から三枚出てきた。つもりはなくても、袖から出てくる。
それは、たぶん盗みだ。
「理由を聞きます」
僕が言うと、食堂班長が横から息を吐いた。
「理由なんて、腹が減ったからですよ」
食堂班長は、鍋の方へ目をやった。
火は弱い。
豆の匂いも、もう朝ほど残っていない。
「それも聞きます」
少年は、豆袋を抱え直した。
袋は空だ。
でも、彼はそれを盾のように持っている。
「兄貴が修理班にいる」
「名前は」
少年は豆袋の口をねじった。
「ネド」
修理班の名簿が頭に浮かぶ。
ネドは、昨日の夕方に車輪留め具を外していた青年だ。
右肩の火傷を隠すためか、上着を片側だけ深く羽織っていた。
茶札の対象外。理由は、軍属。冒険者ではないから、茶札では動かせない。
でも、弟にはそんな区分は関係ない。
「兄を早く休ませたかったんですか」
少年は、頷かなかった。
代わりに、豆袋の口を握った。
指が白くなる。
「昨日、帰ってきて、飯を残した」
食堂班長が、少し目を伏せた。
食堂班長の手元には、昨日の残飯桶を洗った時の豆殻がまだ爪の隙間に残っていた。
ネドが飯を残したことを、彼女はたぶん覚えている。
飯を残すのは、疲れている時か、痛い時か、悪いことを考えている時だ。
「茶札で、修理順が早くなるって聞いた」
「兄は軍属なので、茶札は使えません」
「だから、隠した」
理由になっていない。
でも、子どもの中では繋がっている。
大人の制度と、子どもの不安は、同じ線で動かない。
僕は茶札を三枚、机に置いた。泥の色の札。戻る道の色。
それが、もう別の意味で使われ始めている。
「罰は必要です」
僕は言った。少年の肩が小さく縮む。食堂班長が、何か言いかけた。
僕は先に続ける。
「茶札三枚分、札作りを手伝ってください。紐通しです。破ったら一枚やり直し」
少年が顔を上げた。今度は、表情を言葉にしない。目が赤い。
唇の端に、乾いた豆の皮がついている。それだけで十分だった。
「兄の修理順は」
「茶札では上がりません」
僕は言った。
少年の指が、豆袋の口をまた握る。
「ただし、修理班の負傷者休息欄を確認します。右肩火傷なら、作業内容を変える理由になります」
「変わるの」
「変えるように言います。すぐ休めるとは言えません。でも、右肩を使わない仕事へ移す理由にはできます」
少年は、しばらく僕を見ていた。
豆袋を握る指は、まだ緩まない。
今朝から何度も、約束だけを聞かされた手だ。
「本当に」
「本当に」
食堂班長が、鍋の横から布を投げた。
少年はそれを受け損ねて、腹で抱えた。
「まず手を拭きなさい。札が豆で汚れる」
「はい」
少年は、布で手を拭いた。豆袋を置く。空の袋は、盾ではなくなった。
僕は記録へ一行足す。茶札盗難三、回収済み。処分、札作成補助。
原因、軍属家族への制度不達。最後の行で、筆が止まる。制度は、対象外を作る。
対象外になった人間は、制度の外で別の動きをする。
それも、今朝まで僕は考えていなかった。
考えていなかったことが、袖から三枚出てきた。
✶
敵の偵察は、夕方に来た。正面ではない。南の細い土手。
昨日まで、誰も通らなかった道。今日、茶札を持った冒険者が二組通った道。
「南土手、二つ。距離九百。片方は伏せています。もう片方は、土手の杭を数えているように見えます」
推定観測手。そう言いかけて、やめた。まだ観測手とは限らない。
ただ、見る役目の敵だ。
「あれは、たぶん荷の線を見ています。撃たないでください」
小銃班長が、僕を見る。
「撃たない」
「はい。こちらの線を見せすぎないよう、茶札便を一度止めます。荷車は食堂裏へ。煙は消さない。いつも通りに見せてください」
「敵を帰すんですか」
「帰します」
自分で言って、喉が少し乾いた。撃てる敵を撃たない。昨日は、撃たないために前へ出た。
今日は、見せないために撃たない。同じ撃たないでも、意味が違う。
「帰したら、次は砲撃が来ます」
「来ます。それでも、今撃つと茶札便が重要だと教えます」
班長は、唇を結んだ。納得していない。それでも、指は引き金から少し離れた。まだ、僕の命令を守っている。
「南土手、発砲禁止。灯りは通常。荷車は食堂裏。茶札便は二十分停止。敵が杭を二本以上抜いたら、小銃班一、足元へ威嚇」
「足元」
「殺さない。止めるだけです」
「了解」
通信兵が命令を繰り返す。僕は地図を見る。南土手。
距離九百。荷車の線。食堂裏。
茶札便。昨日までは、そこに戦闘札は置かなかった。今日から、敵はそこを見る。
こちらが人を通す理由を作ると、敵はその理由を壊しに来る。
当たり前だ。
当たり前なのに、少し腹が立った。
食堂班が鍋を焦がし、修理班が指を黒くし、少年が袖に札を隠した。
その線を、敵が見る。
見られたくない。
戦術ではなく、もっと子どもっぽい怒りだった。
僕は、その怒りを命令にしないよう、息をゆっくり吐いた。
南土手の敵は、杭を一本触った。抜かない。触って、泥を見て、手を引く。
もう一人が、伏せたまま何かを書いている。距離九百。風は弱い。
撃てる。撃てると思ってしまう。そう思った瞬間、右手の包帯が痛んだ。
三郷の剣。敵操縦手ルガ。白い外套。
茶札を盗んだ少年。全部が、同じ場所に来る。
「中尉」
小銃班長が低く言った。
「杭、二本目です」
敵が、二本目の杭へ手を伸ばした。
「小銃班一、足元へ。通常弾、一発」
発砲音。土が跳ねる。敵の手が引っ込む。
伏せていた敵も、少し体を起こした。結界は出ない。英雄級ではない。
たぶん、ただの偵察兵。ただの、という言い方は嫌いだ。でも、戦場ではすぐに使ってしまう。
「追撃なし」
僕は言った。
「南土手、監視継続。茶札便は十分後に再開。杭は夜に位置を変えます」
「位置を変えると、冒険者が迷います」
地図係の指は、南土手の細い線を押さえている。そこを動かすと、食堂裏からの道も少しずつずれる。
「茶札持ちだけに新しい線を渡します。持っていない人は、古い線へ残ることになります」
「危険です」
「だから、明日から茶札なしの復路便は受けません。危ない道へ残すくらいなら、最初から通さない方がましです」
言ってから、少し遅れて意味が来た。僕は今、道を閉じた。茶札を持つ者だけが、安全な戻り道を通る。
持たない者は古い線へ残る。自由に見える。
けれど、古い線へ残る人間は敵偵察の近くを通る。
新しい線へ入るには、茶札が要る。
命令ではない。
命令ではない形で、人は同じ方へ寄っていく。
まだ言葉にはできない。
ただ、そのことが胸の奥に引っかかったままだった。
「中尉」
通信兵が、確認を待っていた。
僕は頷いた。
「通達してください。復路優先札なしの便は、明日以降、南土手線への進入を禁止。茶札持ちは新線へ誘導。理由は、敵偵察確認による安全管理」
「はい」
筆が動く。
僕の言葉が、規則になる。
茶色の札が、ただの紙ではなくなっていく。
左手の二つの表示が、また少し濃く見えた。今日はまだ、誰も殺していない。撃ったのは足元で、倒れた敵も見ていない。
それでも、僕の言葉で道が一本閉じた。
古い線の上に残る人がいて、新しい線へ寄せられる人がいる。
強くなる理由が殺すことだけなら、まだ分かりやすかった。
分かりやすくない方へ、表示は進んでいる。
✶
夜、茶札は九十一枚から八十八枚になった。
三枚は、下働きの少年が紐通しに失敗して破った。
食堂班長は怒らなかった。
代わりに、破れた札を鍋の焚き付けに入れた。
「食べられない札も、火にはなります」
そう言って、鍋をかき回した。
香草屑の匂いがした。
昨日より、少しましな匂いだった。
僕は記録板へ、茶札の残りを八十八と書いた。
復路便は二つ成立した。破れた三枚は、鍋の火になった。南土手では敵の偵察を二つ確認し、威嚇射撃は一度だけ。損害は不明。
復路札なしの便は、明日から南土手線へ入れない。
修理班では泥落としが始まり、食堂では香草屑が鍋へ入った。
そこまで書くと、板の下の方が少し空いた。
最後に、迷ってから書く。
制度影響、要観察。
硬い言葉にすると、鍋の匂いも、少年が破った札も、少し遠くなる。
その下に、茶札を持たない人間が古い道へ残る、と書く勇気はなかった。
誰かを助けるための札が、誰かを外へ押し出す形を持ち始めている。
まだ小さい。
必要な小ささかもしれない。
ただ、小さいものほど、机の隅で見落とされる。
僕は椀を受け取った。香草の匂いがする。豆は少ない。
味は、昨日より少し複雑だった。部屋の隅で、弾薬係が茶札を数えている。補給係は、破れた札の数を別に控えている。
地図係は、南土手の新しい線を細く引いていた。
僕は、豆を数えなかった。札も、もう数えたくなかった。それでも、明日の朝には数える。
数えなければ、古い道へ行く人が増える。数えても、ゼロにはならない。
その差を削るために、僕はここへ置かれている。
そう思わないと、茶色の札が乾いた泥にしか見えなかった。
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