ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《王録》 九章 九節
『囲いは守る者のために引かれ、やがて出ぬ者の墓標にもなる。』
朝の地図室は、昨日より静かだった。静かというより、声が少ない。声が少ない日は、だいたい紙が増える。
南土手線。茶札新線。旧水路戻送路。
水車小屋線。線の名前だけなら、昨日と同じだ。
でも、地図の端に置かれた赤い札が増えていた。
「中尉、敵精鋭、南西林道から移動中」
通信兵が言った。
「数は」
「推定七十二。うち結界補助具六、機甲衝撃兵二、重機関銃班三。英雄級は確認できません」
英雄級はいない。
その言葉で、部屋の空気が少し緩みかけた。
僕は地図の上に手を置いた。
「英雄級がいないなら、余計に嫌です」
通信兵の鉛筆が止まる。
「理由は」
「精鋭だけで来ているなら、英雄級に頼らない手順を持っています。こちらの弾薬不足も、茶札新線も見ているはずです」
南西林道から来るなら、目的は前線突破ではない。
茶札新線。復路優先札。昨日、僕が閉じた道。
敵は、そこへ手を伸ばしてきた。
「こちらの撤退線を切るつもりですか」
地図係が言った。
彼女の指は、南土手ではなく、その裏の細い線を押さえている。茶札持ちだけが使う、新しい戻り道。
「切るというより、古い線と新しい線の間へ入りたいんだと思います」
「間へ」
「はい。僕たちが自分で作った分岐です。そこへ入られると、茶札持ちと札なしの人間が別々に詰まります」
紙の上では、ただの二本線。
現場では、荷車と担架と、豆の椀と、泥落としを終えた冒険者が通る道。
そこを敵が踏む。昨日の腹立ちが、また少し戻った。僕は息を吐いた。
命令にしないために。
「希望さんは」
「茶札新線の途中です。戻せます」
「戻さないでください。通信だけつないで」
通信兵が顔を上げた。反対したい顔ではない。反対する言葉を探す顔でもない。
ただ、どこまで許されるかを測っている。
「後輩を前に残しますか」
「はい。彼女の位置からだと、敵の後ろ側が見えます。僕の数字だけでは、包囲の外縁が遅れます」
言いながら、左手が熱を持った。
昨日まで輪郭だけだった文字が、今朝は少し読める。
`HP`
薄い横線。
短い棒。
人の頭上に浮かぶ数字ではなく、体の横に細くつく、色のない線。
敵のものだけではない。
味方のものも見える。
地図室の中の通信兵にも、弾薬係にも、地図係にも、細い線がついている。
見たいものではない。
でも、見えている。
「中尉」
通信兵が言った。
「顔色が」
「大丈夫です」
「大丈夫な人は、今の言い方をしません」
弾薬係が、横から弾倉箱を置いた。
箱の音が少し軽い。
「十ミリ徹甲弾、二十一。通常弾、二箱弱。低装薬、五。通常榴弾、三」
「三」
「はい。三です」
山崎さんなら、たぶん嫌な顔をする数だ。
でも、山崎さんは嫌な顔のまま当てる。
「砲は温存します。包囲は小銃と結界で作る。砲は逃げ道を閉じる時だけ」
「殲滅ですか」
通信兵が聞いた。早い。その言葉へ行くのが早い。
僕は答えを少し遅らせた。
「最初は、降伏を促します」
「最初は」
「はい」
それ以上は、まだ口にしない。
口にしなくても、地図はだいたい分かっている。
✶
南西林道の入口は、低い霧が残っていた。
霧と言っても白くはない。
泥の匂いと、濡れた葉の匂いと、機械油が混ざった薄い幕だ。
敵精鋭は、そこへきれいに入ってきた。きれいすぎる。先頭に盾兵。
左右に小銃。中央に結界補助具。機甲衝撃兵は後ろ。
急いでいない。
こちらを舐めているのではなく、急ぐ必要がないと判断している歩き方だった。
僕は土嚢の低いところから覗く。覗く、という言葉は合わない。もう、見えている。
人の輪郭。結界具の白い面。それから、細い横線。
`HP`。盾兵の線は太い。結界補助具の周りは、さらに太い。
でも、右後方の小銃手だけ、線が短い。足を引きずっている。外からは分からない。
でも、踏み込むたびに、HPバーの端が少し削れる。
その隣の弾薬手は、線は太いが、`SAN` が薄い。
文字が、少し遅れて読めた。SAN。精神の別名。
そんな英字を、今ここで見たくなかった。
「中尉、敵、射程内」
小銃班長が言った。
声は低い。
低くしているのではなく、息を節約している。
「撃たないでください。右後方の小銃手、足が悪い。そこを撃つと、敵全体が早く伏せます」
「弱い場所を撃たない?」
「今は。弱い場所は、あとで敵の向きを変えるために使います」
班長が少し口を閉じた。
納得ではない。
飲み込んだ音だった。
「希望さん」
通信具へ言う。
「聞こえます」
細い声が返る。
風の音が混じっている。
「敵後尾、見えますか」
「はい。機甲衝撃兵の後ろに、担架みたいな箱が二つ。たぶん予備結界具です。後尾の三人、歩き方が遅いです」
「HPは」
言ってから、しまったと思った。
希望さんは、僕の能力を持っていない。
「見えません。でも、一人は肩で息をしています。もう一人は箱の持ち方が変です。残り一人は周りを見すぎています」
十分だった。
見えていない人の言葉の方が、時々信用できる。
「ありがとうございます。その三人を通してください。撃つなら、その後ろの地面です」
「地面」
「はい。彼らを急がせず、後ろだけ塞いでください」
希望さんの返事が、ほんの少し遅れた。
「分かりました」
分かってくれた。
分からせてしまった。
「第一線、撤退準備。撃ったら三歩下がる。茶札新線へは入らないでください。旧泥道へ誘導」
「旧泥道は危険です」
地図係の声。
「だから敵に踏ませます」
言葉が、少し冷たかった。
自分で分かるくらいには。
「味方は」
「白紐を持つ班だけ、新線へ。持たない班は旧泥道へ入る前に北へ折れてください。希望さん、折れ点に煙を」
「了解」
煙筒が遠くで上がる。白ではなく、薄い灰。敵から見れば、ただの湿った煙。
味方には、折れ点。敵はそれを、まだ知らない。
✶
最初に撃ったのは、敵だった。盾兵の後ろから、小銃が三発。こちらの土嚢の上が削れる。
結界兵が低い面を張る。白い面が、弾を受けて少し濁った。HPバーも、見えた。
結界にもHPがある。六秒で半分戻る。知識としては、前から知っていた。
でも、見えると違う。
白い面の横に、薄い線が出て、弾を受けるたびに短くなる。
短くなった線が、少しずつ戻る。
戻る前に次が来ると、線は戻らない。
それだけのことが、見えるだけで命令が変わる。
「第一結界班、張り直さないでください。六秒待って、低い面だけ」
「六秒」
「小銃班、右後方の足の悪い小銃手。撃たない。足元一発。走らせてください」
通常弾。泥が跳ねる。敵小銃手が、反射で右へ跳んだ。
HPバーの端が少し削れる。倒れない。倒れないから、周りが動く。
盾兵が右へ寄り、中央の結界補助具が半歩遅れる。
遅れた。
「今。左火点、結界補助具の前。直接撃たない。前の泥を」
銃声が重なる。
泥が上がる。
結界補助具の白い面が前へ張り出し、足元の泥を受ける。
HPバーが削れる。
人は死んでいない。
でも、隊列は曲がった。
「後尾、閉じます」
希望さんの声。
遠くで発煙筒の音。
後尾のさらに後ろ、旧泥道の入口に灰色の煙が増えた。
敵はまだ進める。
進めるが、戻る道が細い。
「第二線、下がってください。敵を入れます」
「入れるんですか」
小銃班長が言った。
「入れます。中に入れないと、包囲になりません」
言葉が、また冷たい。冷たい方が、命令は通る。通ってしまう。
敵精鋭が旧泥道へ入る。左右の水路は浅く見える。浅く見えるだけだ。
昨日、修理班の泥落としで出た汚水を流した場所。底が粘る。
機甲衝撃兵の足が一度沈んだ。疑似筋肉が、遅れて引き上げる。HPバーは太い。
でも、STRの表示が一瞬だけ揺れた。STR。力。
それまで見えなかった文字が、泥の中で読める。
「機甲衝撃兵、左足負荷。STR低下。山崎さん、低装薬一。左足の後ろ、泥だけ」
「低装薬一、泥だけ」
「直撃不要です。後ろを崩してください」
砲声。泥が爆ぜる。機甲衝撃兵の左足が、今度は深く沈む。
疑似筋肉の束が、外装の隙間で震えた。敵はまだ倒れない。
倒れないまま、包囲の真ん中で足を取られる。
「降伏勧告」
僕は言った。
通信兵が、少しこちらを見た。
「今ですか」
「今です。逃げ道が細く、HPが残っているうちに」
死にかけてから降伏を言われても、選びようがない。
まだ立っているうちに言う。
それが慈悲なのか、効率なのか、僕にはもう分からない。
翻訳札をつけた拡声具が、土嚢の上へ出る。
「帝国軍精鋭部隊へ告げます。包囲は完了しています。武器を置き、結界補助具から離れてください。負傷者は救護します。再戦闘行動を取れば、こちらは射撃を再開します」
言葉が林道へ流れる。翻訳魔法が少し遅れて、敵の言葉へ変わる。敵は止まった。
完全には止まらない。足をずらす音。結界補助具の回路が鳴る音。
誰かが咳をする音。HPバーが、いくつも揺れている。白布が上がるかもしれない。
そう思った。上がらなかった。代わりに、中央の盾兵が短く叫んだ。
リ・ガクラ。殺傷交戦。
二度目に聞くと、意味より先に体が覚えていた。
盾兵のHPバーが太くなる。
結界補助具の白い線が広がる。
後尾の予備結界具まで、同じ白でつながった。
降伏しない。
全員で、こちらへ来る。
「再勧告は」
通信兵が聞いた。
声が少し掠れている。
「しません」
僕は答えた。早かった。早すぎたかもしれない。
でも、敵はもう撃ち始めている。こちらの結界HPが削れる。味方のHPバーも、細く揺れる。
「第一線、撤退。白紐班は新線へ。小銃班、右後方の小銃手を落としてください。結界補助具はまだ撃たない。後尾予備具、山崎さん、低装薬二。連続で」
「低装薬二、後尾予備具」
「希望さん、後ろの三人。生きていれば下げます。武器へ戻るなら撃ってください」
返事がない。
一瞬だけ、空白。
「希望さん」
「了解」
その声は、昨日より少し低かった。
✶
包囲は、きれいではなかった。
泥が跳ね、煙が流れ、結界の白い面が半端な角度で重なる。
味方も何度か迷った。
白紐班が新線へ入る時、別の班がつられかけた。
僕は怒鳴らなかった。
怒鳴るより、見えたものを言う。
「第二班、そこは違います。あなたのHPが削れています。右へ。白紐ではなく青杭を見て」
「弾薬手、後退。箱の右端、持ち手が切れます。落とす前に渡して」
「第三結界班、張らない。今張ると前の班を閉じ込めます。二秒待って」
言葉が出る。出すぎる。見えるから、言えてしまう。
HPバー、SAN、STR。敵の弱い場所、味方の引くべき場所、結界の戻り、弾薬箱を落としそうな指。全部が、別々の線で見える。
盾兵の线にだけ、もう一つ薄い表示が重なっていた。DEF。守りの厚み。削れれば、次の一撃がそのまま抜ける。
便利だった。便利なものほど、手放しにくい。敵精鋭の右側が崩れた。
足を悪くしていた小銃手が倒れ、隣の盾兵が彼を拾おうとして膝をつく。
その瞬間、結界補助具のHPバーが半分を割った。
「結界補助具、今。十ミリ徹甲、一。中央より右、導線束」
発射。白い面が内側から縮む。結界は切れない。
切れ目はない。
ただ、支えの一つが落ちると、面全体が薄くなる。
薄くなった場所へ、通常弾が入る。敵が倒れる。ひとり。
ふたり。三人目は、倒れずに撃った。味方のHPバーが削れた。
救護兵の一人が膝をつく。
「救護班、下がって。撃たれてから下がるのではなく、今」
「負傷者が」
「僕が見ています。そこに残ると二人になります」
救護班が下がる。負傷者は一人、泥の中に残る。敵兵だ。
こちらの人ではない。見捨てたのではない。今は運べない。
その二つを、同じ場所に置く。
「左火点、敵重機関銃班。撃ち手ではなく装填手。HP低下、SAN薄い。落とせば止まります」
銃声。装填手が崩れる。重機関銃が止まる。
撃ち手はまだ生きている。けれど、弾帯を引けない。撃てる敵を撃たない。
撃たないから、別の敵を殺す。それが今の僕の判断だった。中央の盾兵が、こちらへ走った。
HPバーはまだ太い。でも、STRが落ちている。重い盾を持ち続けた腕が遅れている。
「僕が出ます」
「中尉」
「ここを抜かれると撤退線へ入られます。結界班、僕の左右。銃弾だけ。剣は受けないでください」
三郷の剣を抜く。右手が痛む。痛い方が、まだ信用できる。
アクセラップ起動具を短く作動。前へ。盾兵の剣が来る。盾ではなく、短い刃。僕は剣を合わせない。
盾の下、膝。STRのバーが細い場所。三郷の剣の腹で叩く。膝が崩れる。
盾兵が前へ倒れ、結界面が地面へ触れて濁る。
「撃たない。捕れます」
言った瞬間、盾兵は腰の短銃へ手を伸ばした。
HPは残っている。
SANは薄い。
まだ、こちらへ来る。
「撃ってください」
僕ではない。小銃班長が撃った。一発。
盾兵の頭が泥へ落ちる。`HP`。ゼロ。
捕れたかもしれない。捕れなかった。その間に、敵はもう十人を切っていた。
✶
最後の降伏勧告は、形だけになった。
形だけだと分かっていても、出した。
「武器を置いてください。負傷者を運びます。これ以上の交戦は不要です」
翻訳札が少し震える。
敵の残存兵は、林道の真ん中で背中合わせになっていた。
八人。
うち二人は、HPバーが半分以下。
一人はSANがほとんど見えない。
機甲衝撃兵は左足を失い、膝をついたまま上半身だけで機関銃を向けている。
操縦室の奥に、HPバーが二本。どちらも細い。細いのに、まだこちらを見ている。
白布は上がらない。敵の一人が、歯で何かを引こうとした。自爆用の紐か。
発煙か。
その手を、隣にいた別の一人が横から掴んだ。
止めたのか、急かしたのか、ここからでは分からない。
でも、二人分のHPバーが、その一瞬だけ動かなかった。
「三度目を出します」
通信兵が、驚いた顔でこちらを見た。
「今更ですか」
「今しか、意味がありません」
拡声具を、もう一度上げる。
「そこの二人。武器を手放し、その場に座ってください。撃ちません」
翻訳札が震える。
言葉が届く前に、他の敵が動いた。結界具の線が急に太くなる。最後の突撃だった。
「他の全班、撃ってください。その二人以外」
僕は言った。自分の声が、あまり揺れなかった。小銃。
機関銃。山崎さんの最後の通常榴弾。
結界が白く膨らみ、爆風で濁り、通常弾で削られ、十ミリ徹甲が中央を押した。
HPバーが、順番に落ちる。一本。二本。
三本。
機甲衝撃兵の中の二本が、少し遅れて消える。
武器を捨てた二人だけは、泥の中に座ったまま動かなかった。
銃口はそちらへ向かない。向けなかった。
残った一人が、膝の上で何かを抱えていた。
短い筒。
それをこちらへ向ける前に、希望さんの側から銃声がした。
最後のバーが消えた。南西林道が静かになる。静かになってから、雨の音が戻った。
座ったままの二人だけ、まだ数字が残っている。
僕は拡声具を下ろした。手が少し重い。降伏を促した。
ほとんどは拒まれた。二人だけ、止まった。
現場には、七十二人分の泥の跡が残っている。
確認できた死者は四十。機甲衝撃兵内、二。負傷後に再交戦、四。
逃走なし。投降二。味方重傷二。
死亡なし。茶札新線、維持。旧泥道、閉鎖。
敵精鋭中隊相当、ほぼ壊滅。戦果表なら、そう書ける。
でも、僕の目にはまだバーの消え方が残っている。
数字ではない。細い線。消える時、どれも少し遅れる。
人が死ぬより、表示が消える方が遅い。それが一番嫌だった。
消えなかった二本があったことだけ、今日はまだ少し軽い。
その間にも、泥の中の確認は続いていた。数字はまだ動く。
「中尉」
通信兵が言った。僕は振り返る。彼のHPバーは、半分より上。
SANは少し薄い。見なければよかった。
「記録を」
通信兵は、紙を持っていた。
用紙の角は濡れていない。
彼が外套の内側に入れて守っていたのだろう。
「はい」
僕は答えた。
声は出た。
出てしまった。
「降伏勧告三回。敵、大半拒否。敵精鋭七十二、死亡確認六十、機甲衝撃兵内死亡四、残余は爆風および泥中で確認中。投降二、身柄確保。味方死亡なし、重傷二。茶札新線維持」
通信兵が書く。僕は左手を見る。`HP`
`SAN`。`STR`。文字は、もう消えない。
その下にある、まだ読みにくい二つの表示も濃くなっている。
強くなった。たぶん。でも、胸の奥では、何かが少し薄くなった。
どちらも同じ手に表示されている。
それが、今朝より少し分かりやすくなっていた。
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