ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《創世訓》 一章 十八節
『答えなき砲声の前で、女神は沈黙を装填する。』
肌を刺すような朝の冷気。触れた城壁の石は、夜の間に溜め込んだ氷のように冷たく、手のひらの熱を奪っていく。僕の吐く息は白く濁り、すぐに霧散した。見張り台の旗の影が、中庭の石畳の上を短く滑る。高いところで鐘が二回、澄んだ音を響かせた。
中庭に据えられた巨大な砲。その鈍色の砲身から分厚い防水布が剥がされると、昇り始めたばかりの太陽が一度だけ鋭い光を反射した。誰かが畏敬を込めて「戦場の女神」と呟く。一瞬だけ生まれた笑いは、すぐに張り詰めた空気の中へ溶けて消えた。
僕は列の端にいる。視界に映るクラスメイトたちの頭上には、例外なく『0』の数字が浮かんでいる。近い者の数字は大きく、遠い者は小さい。ただそれだけの情報だ。
今日、砲兵に回されたのは治癒魔法などの支援能力を持つ者と、僕のような観測能力を持つ者。見る役と伝える役。それが僕の仕事だ。
砲の周りでは、装填具を点検している女性兵も、駐退機の油を拭いている若い兵も、同じ煤の匂いをまとっていた。腕の太さより、どの手順を間違えないかの方が先に見られているらしい。
最初のころなら、砲兵という響きだけで頭の中の棚が開いていたかもしれない。大砲とか、観測手とか、戦場の女神とか。どれも、物語の章題みたいな言葉だ。
けれど足元には、濡れた砂嚢と、欠けた石と、昨日まで誰かが使っていた手袋が置かれている。そういう地味な物のほうが、よっぽど実感があった。
砲兵長がやってくる。彼が纏う硝煙の匂いが、ここが本物の戦場なのだと嫌でも思い知らせてくる。使い古された外套の袖口には古い焦げ跡がこびりついていた。彼は分厚い手で砲身にそっと触れ、生き物を扱う時みたいに一度だけ撫でてから低い声で口を開いた。
「観測要員は五人。数えるのも仕事のうちだ」
「今日は女神の宥め方だ。撃たない。手順を身体に叩き込め」
語尾を上げない短い命令。その言葉に、握っていた手袋の端が少し緩んだ。
「観測手、羽黒」
呼ばれて一歩前に出る。ごくりと喉が鳴った。役割を任された。
膝の裏に力が入り、喉だけが先に乾いた。仲間たちが顔を向ける。
桐谷さんが僕の袖を小さくつまんだ。「無理はしないで」。その声は柔らかいのに、僕をまっすぐに見つめる瞳は強い。
三郷くんは砲の三脚を調べながら「もう少し石に沈めたいな」と呟く。森田さんは記録用の板と炭を手に、目盛りを写す手が少しもぶれていない。
高橋さんは「不死者は安全運転でいくよ」と軽く笑う。冗談めかしてはいるが、防水布を畳むその手つきは驚くほど速く、無駄がない。
田中さん、小泉くん、飯田くんのミリオタ三人組は、僕には半分も分からない専門用語を飛ばし合っている。元の教室では、三人で同じ資料集を回し読みしていた。誰かがページを折ると、別の一人がすぐ直す。そのくらいの細かさが、今は砲の横に立っている。
けれど、その声の速さだけは一定だった。知らない単語が多いのに、そこだけは聞き取れた。
砲兵長の所作は、儀式に近かった。楔、駐退機、砲口。一つ一つ分厚い指で触って確かめていく。
横では、女性の装填手が空の薬筒を抱え上げ、床の白線にぴたりと合わせた。背の高い男性兵が代わろうとして、彼女に短く睨まれて手を引っ込める。重いものを持つのは力だけの仕事ではない、という感じだった。
「砲座――台から勝手に降りるな」
「装填――熱い金属の筒を押し込む作業だ」
「楔――閉めたら声に出して確認しろ」
「射角――砲口の上げ下げだ」
「補修魔法――光の糊だ。砲に使うな。石壁に使え」
短い言葉が、点となって僕たちの思考に打ち込まれていく。迷った時に見る場所が、ひとつずつ増えた。
ずしりと重い砂嚢を胸に抱え、城壁の欠けた箇所へと運ぶ。肩に食い込む縄の痛みと、手のひらに残る砂のざらついた感触。道具に身体が慣れていく。
肩の痛みだけが先に覚えた。
田中さんが肩で息をしながら言う。
「もう一段欲しい」
「いや、二段だ」小泉くんが即答する。
飯田くんは黙って砂嚢の口を締め直し、隙間なく積み上げていく。僕もそれを真似て、砂嚢を並べて押し固める。
少しずつ、この場所に自分の仕事ができていく。砂嚢の列が、さっきより一段だけ高くなった。
訓練が始まる。僕の仕事は距離板の目盛りを読み上げ、炭で記録すること。
砲兵長が僕の目を見て言った。
「見たことだけを言え。感情を乗せるな。報告の間合いを崩すな」
「はい」
声が少し震えた。隣で桐谷さんがこくりと頷いてくれる。続きを言うには、それで足りた。
空撃ちが始まった。火薬の咆哮はなく、ただ撃鉄が落ちる甲高い金属音と、機械部品が噛み合う重い音だけが響く。それでも『女神』の肩はわずかに跳ね、その振動が足元から伝わってきた。
最初の衝撃で、身体が勝手に震えた。二度目は、震えなかった。
舌の奥に、金属みたいな味だけが残った。
休憩に配られたのは石のように硬いパンと、草の匂いがする温いスープ。スープの温かさが、冷え切った指先にじんわりと沁みていく。
桐谷さんが僕の手元を見て、「指先、冷たいね」と言った。
「平気」
そう返したが、ほんとうは少し震えていた。
午後、城壁の上で観測手順の確認が始まる。砲は北に向けられている。僕たちの背後で旗が一度だけ、風に逆らうようにばさりと音を立てた。
「観測手」
促されて前へ出る。距離板を握る掌が、じっとりと汗で湿っていた。
砲兵長が言う。
「訓練だ。敵は来ない。お前の仕事は『間』を読むことだ。合図の鐘は鳴らすな」
その言葉に長く息を吐く。握っていた距離板の角が、手のひらに跡を残していた。
「変化、ありません」
僕の報告を受け、砲兵長は砲口に触れたまま静かに頷いた。次の数字を読む時、喉の引っかかりが少し浅くなった。
砲座の横で、装填手の『0』が三つ重なって見えた。
近すぎる。
「そこ、少し離れた方がいいと思います」
「何がだ」
「次の手順で、空薬筒を受ける箱に肘が当たります」
砲兵長は一瞬だけ僕を見た。それから顎で合図する。
「一歩下がれ」
装填手が下がった直後、重い空薬筒が箱の縁に当たって跳ねた。さっきまで肘があった場所で、金属が甲高く鳴った。
砲兵長は何も褒めなかった。ただ、次の確認から、僕の報告を待つ間が少しだけ長くなった。
見張り台の影が長く伸び、夕焼けが城壁を血の色に染め始める頃、訓練は終わった。
城へ戻る坂の途中で、桐谷さんが言った。
「今日の羽黒くん、ちゃんと観測手、だったね」
「見たことを言っただけだよ」
「それが一番、むずかしいことなんだよ」
うまく返す言葉が見つからず、代わりに「うん」とだけ言った。坂道の石を、さっきより一つ先まで見られた。
面白かった、と言えば嘘になる。でも、何も残らなかったわけではない。距離板の目盛り。砲兵長の声。砂嚢を置く高さ。そういうものなら、少しずつ覚えられる気がした。
部屋に戻る。灯りを落とす前に手のひらを見つめる。砂のざらつきはもうなかった。
明日のことは分からない。
けれど、今日身体に刻んだ手順は残っていた。桐谷さんの声も、砲兵長の短い頷きも。
消えるものではないらしい。