ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《王録》 九章 十二節
『白き盾は冷えず、持つ手だけが先に乾く。』
冷却液、残りゼロ。
その一行は、戦果表の端にあるのに、どの死者数よりも先に目へ入った。
敵英雄級一、死亡確認。戦車一、砲塔喪失。機甲衝撃兵二、戦闘不能。
並べれば、立派な戦果だ。でも、結界具を冷やせない。
次に同じ攻撃を受けたら、白い面は同じ厚さでは出ない。
補給係が、空の小瓶を箱へ戻していた。
瓶の口に、薄い青い膜だけが残っている。
それを逆さにしても、一滴も落ちない。
「大尉、予備倉庫にもありません」
補給係の声は、砂を噛んだみたいに掠れていた。
年上だ。
僕よりずっと年上なのに、僕の返事を待っている。
それが、少し嫌だった。
「分かりました。空瓶は捨てないでください。残渣だけでも、術式兵が見る材料になります」
「残渣ですか」
「はい。最後の一滴にも、嫌な仕事をしてもらいます」
補給係が、少し息を漏らした。
笑ったのか、喉が乾いただけなのかは分からない。
どちらでもいい。
手が動けば、それでいい。
✶
通信兵の符号板には、隣接戦域の報告も並んでいた。北東林で連隊規模の押し合い、南低地で工兵領域権の再設定。どちらも、こちらからは見えない。見えないまま、同じ雨が降っている。
希望さんの千里眼を一度だけ切り替える。北東林、南低地、旧街道。どれも少し前の景色に、薄い数字が重なる。三つを同時に読もうとすると、目の奥が痺れた。今はここだけでいい。切り替えを止め、正面へ戻す。戻すたびに、遅れて届くはずの数字が、一つ抜け落ちた気がした。抜けたのがどれかは、分からない。
敵は、すぐには大きく来なかった。代わりに、小さく来た。北西尾根の下から、三人。
歩兵二。術式兵一。距離、六百五十。
歩兵の一人は、片足を引きずっている。でも、引きずり方が軽い。負傷兵ではない。
こちらにそう見せるための歩き方だ。術式兵の背には、細い筒が三本。ボルト・スパークではない。
結界を焦がすより、こちらの結界班を起こさせるための術式標識だ。
「誘いです」
通信兵が、僕の横で地図に札を置く。
彼の手袋は、指先だけ黒くなっていた。
さっきまで、焼けた導線を拾っていた手だ。
「結界を張らせたいんですね」
「はい。冷やせない結界を、先に使わせたい」
敵は、こちらの冷却液切れを読んでいる。読まれているのではなく、見られている。さっきの戦闘で、結界面の色が薄くなった。
それだけで十分だったのだろう。
「第一結界班は動かさないでください」
「では、撃ちますか」
「撃つと、向こうは下がります。たぶん、こちらの弾薬消費を見るだけです」
「では」
通信兵が、僕の方を見ないで言った。
返事を先に知っている言い方だった。
「僕が出ます」
通信兵が、今度は僕を見た。
「怒りますよ」
「水を飲んでからにしてください」
「今は水も少ないです」
「では、あとで短く怒ってください」
軽く言ったつもりだった。
喉が乾いていて、うまく軽くならなかった。
✶
土嚢線の外は、昨日より静かだった。静かな場所ほど、足元の音が大きい。泥が靴底を離す時の湿った音。
遠くの砲声。結界具の冷却管が鳴らないこと。いつもならある白い面が、ない。
ないだけで、首の後ろが寒い。敵歩兵がこちらへ小銃を向けた。僕は走らない。
歩く。走ると、相手は撃つ。歩くと、迷う。
足首のアクセラップ起動具を短く作動させる。泥の重さが一瞬だけ変わる。右へ一歩。
銃声。弾は、僕の左の土を叩いた。次は、修正される。
HPの線。敵歩兵二人は、どちらも薄い。術式兵だけが少し太い。
けれど、SANの線は術式兵が一番揺れている。
こちらを試す役を渡された人間だ。
逃げるほどではない。
でも、死にたいわけではない。
「聞こえますか」
僕は翻訳札を口元へ上げた。
「結界班は動かしません。あなたたちの目的は外れました。下がるなら撃ちません」
歩兵の片方が撃った。土が跳ねる。返事としては、分かりやすい。
僕は三郷の剣を抜いた。銃ではなく、剣。
遠くの味方から見れば、変に見えるかもしれない。
でも、銃声を増やしたくない。弾薬表の数字も、もう十分に軽くない。術式兵が筒を抜く。
先端に、青い火花。ボルト・スパークより細い。
結界を焦がす術ではなく、人間の筋肉を一瞬だけ止める方だ。
僕は短銃を左手に持ち替え、撃たないまま銃口を術式兵へ置いた。
相手の手が止まる。その間に、前へ出る。歩兵一人目。
銃床が来た。受けない。剣の腹で銃身を押し下げる。
剣柄のマギブレイク機を低出力で作動させる。
銃身を守っていた小さな結界が、布を裂くみたいに歪む。
そのまま横へ払う。
銃身だけではない。
後ろで筒を構え直していた術式兵の手元まで、同じ幅に入った。
細い筒の先が泥へ落ち、青い火花が水たまりの上で消える。
右脇。刃。装甲の合わせ目へ、三郷の剣が入った。
白い面が一度だけ膨らみ、すぐに薄くなる。
歩兵のHPが落ちる。膝ではなく、体が沈んだ。二人目は迷わず、こちらの足ではなく胸を撃つ。いい判断だ。
僕はアクセラップ起動具を短く作動させた。横へ抜ける。弾が外套を引き、布が焼けた匂いがした。熱い。
近づく。近づきすぎる。相手の小銃は長い。長いものは、近すぎると遅い。
剣の柄で手首を叩き、短銃の銃口を肩の結界具へ当てる。
一発。結界具が割れ、白い光が散る。相手の小銃が落ちた。
二発目。胸。HPの線が、そこで切れた。術式兵が筒を捨てる。
逃げるのかと思った。違った。腰の短剣を抜いて、こちらへ来る。細い。速い。英雄級ではない。
でも、術式兵は術式だけで戦う人間ではない。
短剣の刃に、薄い黄色の線が走っている。ボルト・スパークを刃へ流している。刺されれば、筋肉が止まる。
止まったところを、残った歩兵に撃たれる。単純で、嫌な組み合わせだ。僕は三郷の剣を低く構えた。
相手が笑った。
たぶん、僕の構えが素人に見えたのだと思う。
実際、剣士ではない。ただ、僕は三郷の剣の重さを知っている。速く振るものではない。
置くものだ。相手の短剣が来る場所へ、先に置く。金属が合う。
黄色の火花が、剣の腹を走った。手袋の内側で指が痺れる。痛みはある。
でも、手は離れない。剣柄のマギブレイク機の出力を上げる。黄色の線が途切れた。
術式兵の目が、そこで初めて大きくなった。僕は短銃を撃った。胸。
薄い黄色の線が、短剣から消える。術式兵が泥へ落ちる。最初に倒れた歩兵が、まだ動いていた。
右手が腰へ伸びる。短い拳銃。僕は剣を抜き直す余裕がなかった。
短銃を向ける。一発。HPの線が消えた。
✶
三人とも、動かなくなった。一人は右脇。二人は胸。
三人とも、こちらの結界を使わせなかった。
確認班が来るまで、僕は短銃を下ろさなかった。
下ろすと、手が震える気がした。
震えているなら、握っていた方が目立たない。
「敵誘導偵察三、死亡確認。こちら結界消費なし。十ミリ徹甲一、通常弾一、短銃弾四」
通信兵が記録する。彼女は、怒らなかった。代わりに、水筒を投げてきた。
受け取った水筒は、思ったより軽かった。
「怒る分の水は残しましたか」
「残していません。だから、後で怒ります」
「はい」
水を飲む。口の中の鉄の味が、少し薄くなる。術式兵は、泥の上で横を向いていた。
年は、僕たちと変わらない。唇の端に泥がついている。
手袋の指先が、短剣の柄に触れたまま固まっている。
HPはない。
SANもない。
STRだけが、表示の残り香みたいに薄く滲んで、すぐ消えた。
「全員ですか」
通信兵が言った。
「はい」
「結界を使わせないためですか」
僕は水筒の口を閉めた。
音が小さく鳴る。
「それもあります」
通信兵は何も言わなかった。
記録板には、きれいな字でこう書かれていた。
敵誘導偵察三、死亡確認。結界消費なし。冷却液消費なし。
羽黒承、前進殺害処理。その四つ目だけ、やけに浮いて見えた。補給を節約するために、僕が前へ出る。
それが成立してしまった。成立してしまったことを、周りの兵が見た。
遠くの土嚢線で、誰かが小さく拳を上げている。
戻ってきたら、たぶん笑って迎えられる。敵が三人死んだ後で。こちらの結界が減らなかった後で。
冷却液が残った後で。僕は、少し頼れる人間として扱われる。その順番が、どうしても喉を通らなかった。
僕は水筒を補給係へ返した。軽い水筒が、やけに重かった。
左手の表示は、さっきから何度も千里眼を跨いだせいか、輪郭がにじんでいる。北東林の数字と、今ここの数字が、一瞬だけ重なって見えた。見間違いだと思うことにした。思わないと、次の命令が出せない。
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