ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《王録》 九章 十四節
『夜は問いを薄めない。ただ、答える者の喉だけを乾かす。』
夜になっても、冷却液は来なかった。
代わりに、水筒が一本だけ机に残った。半分も入っていない。
誰のものか分からない。軍用品の水筒はみんな似ていて、傷の場所と革紐の結び方くらいしか違わない。
僕のものではない。でも、僕の机に置かれている。
たぶん、通信兵だ。
怒る水は残っていない、と言ったくせに、少し残していった。
そういうところだけ、部下は上官に似なくていい。
僕は水筒を持ち上げた。軽い。軽いのに、手首が下がる。
机の上には、戦果板がある。羽黒承、前進制圧。敵六十四死亡確認。推定八十以上。敵機甲衝撃兵一、戦闘室破壊。敵英雄級一、砲撃誘導により死亡確認。
結界消費なし。冷却液消費なし。仮買い取り上限、承認。いいことばかり並んでいる。いいことばかりだから、気持ちが悪い。
✶
短銃を分解する。
弾倉を抜き、薬室を見る。空。
銃身を布で拭くと煤がついた。黒い。当たり前だ。撃ったのだから。
何発撃った。北東石壁線の戦闘記録で四発。水車小屋線の弾薬表で六発。
合計十発。十発で、僕が直接止めたのは三人。
僕の命令で止まったのは三十四人。推定欄を入れれば、もっと増える。
僕が直接撃ったのは、その全部ではない。
でも、僕の命令で死んだ。僕の手で死んだ。
命令で死なせた方が楽か。自分で撃った方が楽か。
楽、という言葉が出た時点で、僕は少し笑った。
声は出なかった。口の中だけが、引きつった。楽な殺し方を比べている。
何やってるんだ、僕。左手の奥が、また熱い。戦闘が終わるたびに、表示が太くなる。
HP、SAN、STR。
最初は、見えるものが増えただけだと思った。
今は違う。
撃った後に増える。命令で止めた後に濃くなる。誰かのHPが消えた後で、僕の表示だけが太る。
その太くなる表示に、今日はじめて文字がついた。SPE。異能、と読めた。
魂、という言葉を使えば、たぶん説明は簡単になる。
でも、簡単にしたくなかった。
奪ったものが、僕の中で仕事をしている。
そう考えた瞬間、短銃の煤より先に、手袋の内側が汚れている気がした。
✶
三郷の剣を膝に置く。
重い。
昼間は、もう少し軽かった。
アクセラップ起動具と剣柄のマギブレイク機を動かし、敵の結界を裂いていた時は、重さを忘れていた。
忘れられていた。
敵のHPの端が、白く裂けるみたいに欠けた。
そこへ踏み込めば勝てると分かった。分かった瞬間、足が先に出た。それが一番嫌だった。
この剣は、三郷のものだ。僕のものではない。
なのに、僕の手の中で、人を殺す道具になっている。
三郷ならどうした。
前へ出ただろう。笑っただろう。誰かを立たせただろう。
それから。それから、殺しただろうか。答えは出ない。
出ないのに、僕は何度も同じところへ戻る。三郷なら。
三郷なら、という逃げ方を、僕はいつまで使うつもりだ。
剣の柄には、昼間の泥が少し残っていた。布で拭く。取れない。
爪でこすれば取れる。でも、爪の間に入る。それが嫌で、布だけで何度も拭いた。
✶
僕は、兵を前へ出している。
小銃班を、結界班を、通信兵を、救護兵を。前へ出して、下げて、また前へ出す。
戻すためだ。死なせないためだ。そう言える。
言えるだけの結果もある。味方死亡なし。負傷一。
結界消費なし。冷却液消費なし。板の上では、ちゃんと成功している。
でも、死地に向かわせていることは変わらない。
僕は自分もそこへ入っている。入っているから許されるのか。
違う。自分も死に誘っているだけだ。
人を死地へ置き、自分もそこへ置く。
それを覚悟と呼べば、少し格好がつく。
でも、あの日、クラスメイトを戦場へ押し出した構造と、どこが違う。
使えるから使う。戻れるかは、あとで数える。
戦力になるから前へ出す。死んだら、記録する。
僕が憎んだものと、僕が今やっていることの間に、きれいな線が引けない。
線を引こうとすると、三郷の剣の泥が布へ移る。
落ちない。
✶
外で、荷車の鈴が鳴った。遺体搬送用の空車。空で来て、空では戻らない。
帰り荷ではない。別枠。僕がそう決めた。
値段を付けないために。値段を付けないと決めるのに、書類が要る。署名が要る。
署名欄を広げるために、僕が殺した人数が使われる。
おかしい。
おかしいのに、通る。
通った方が、冷却液は来る。
冷却液が来れば、結界班の二人は次に死ににくくなる。
だから正しい。
正しい。
正しい。その言葉を、僕は机の上に置いたまま、何度も見返していた。
正しいなら、どうして水筒を持つ手が止まり、短銃を拭く布が黒くなるだけで吐き気が来る。
正しいなら、三郷の剣はもっと軽いはずだ。
✶
僕は水を飲まなかった。飲むと、喉が動く。喉が動くと、まだ生きている感じがする。
それが少し嫌だった。机の端に、昼間の記録板を裏返して置く。裏にも文字があった。
別の誰かの記録だ。旧水路、担架三。青杭、修理待ち。
茶札、九十一。破損三。有効八十八。
文字は淡い。何度も消して使った板だ。
死者数も、弾薬数も、茶札も、同じ板に乗る。
僕の名前も乗る。戦果の横に乗る。仮買い取りの横に乗る。冷却液の横に乗る。それで仕事が進む。
仕事が進むなら、板は間違っていない。間違っているのは。僕か。違う。僕だけではない。
世界か。大きすぎる。王国か。帝国か。森田さんか。第二夫人か。それとも、死んだ人か、殺した人か。
名前を並べると、どれも少しずつ合って、どれも足りない。
だから、楽な答えが欲しくなる。あいつらが悪い。王国が悪い。
帝国が悪い。僕は悪くない。その一文だけ、口の中で何度も作った。
作るたびに、短銃の煤が布へ移る。黒が増える。僕は悪くない。
そう言えば言うほど、布は黒くなった。
✶
夜明け前、少し眠ったらしい。
夢は見なかった。
見なかった、というより、覚えていない。
起きた時、机に額を乗せていた。水筒は、まだ半分以下のまま。三郷の剣は膝から落ちておらず、短銃は組み直してある。誰がやった。僕だ。眠る前に、手だけが動いていた。
窓の外で、荷車の鈴がまた鳴る。今度は少し違う音だった。瓶が触れ合う音。冷却液。来た。
僕は立ち上がる。足が少し痺れていた。机の上の戦果板を、もう一度見る。羽黒承、前進制圧。敵二十七死亡確認。仮買い取り上限、承認。冷却液、到着。一行、増える。
よかった。そう思った。思ってしまった。人を殺した後で、足りないものが届く。
人を死なせた後で、次の命令が軽くなる。僕はそれを、よかった、で受け取った。水筒を持つ。
今度は飲んだ。水はぬるくて、少し鉄の味がした。
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