ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《王録》 九章 十五節
『朝は勝者にだけ来るのではない。数えられた瓶の上にも来る。』
冷却液は、二十二本だった。必要数は三十六。足りない。
でも、昨日よりは多い。
補給係は、箱の底に敷かれた藁まで取り出して、割れがないかを確認していた。
小瓶の首に巻かれた紙札には、ネクサスの印が押されている。
急ぎで作った印らしく、片側だけ少し潰れていた。
「二十二本。うち一本、首に欠け」
「使えますか」
「漏れてはいません。揺らすと危ないです」
「では、動かさない結界具へ回してください」
補給係が箱の横へ小さな線を引いた。その線だけで、一本の行き先が決まる。戦場は、こういう線で動く。
人も、瓶も。
「結界班の二人は」
「一人は熱が下がりました。もう一人は手の痺れが残っています」
「戻さないでください」
「本人は戻ると言っています」
「本人に言わせないでください。言えば戻したくなる」
補給係が、少し眉を寄せた。
怒ったわけではない。
たぶん、同じことを自分にも言い聞かせている。
「了解しました。代替班を回します」
「お願いします」
お願い、という言葉が、朝の空気に合わなかった。
命令の形をしたお願い。
お願いの形をした命令。
どちらでも、相手は動く。
✶
会計担当が、金属板を二枚持ってきた。
一枚は仮買い取りの承認板。
もう一枚は、僕の名前が入った臨時権限表だった。
羽黒承。戦域補給・救護・撤退線調整補佐。佐官待遇。
正式階級ではない。なのに、使える署名欄だけが広がっている。
「補佐、ですか」
「名称は軽くしました」
「軽く見えません」
「中身は軽くありません」
会計担当は、朝から目の下に薄い影を作っていた。
彼の机にも、たぶん夜は来ていない。
「この権限で何ができますか」
「仮買い取り上限の拡張。復路優先札の臨時発行。遺体搬送別枠の承認。修理部品回収箱の優先封印。あとは、救護線と補給線が衝突した場合の通行順位」
「多いですね」
「昨日の戦果が多いので」
昨日。敵二十七死亡確認。結界消費なし。
冷却液消費なし。組合仮買い取り上限、二段引き上げ。
軍買い戻し予定、修理部品箱四、空薬莢箱六、結界導線束三。
僕が黙ると、会計担当は金属板を裏返した。裏には、細い文字で理由が刻まれている。現場判断により敵小火点を速やかに除去。
補給線損耗を防止。冷却資材消費を回避。結果として前線結界再展開能力を維持。
きれいな文章だ。きれいすぎて、誰が死んだのか分からない。
「この理由書、通りますか」
「通すために書いてあります」
「僕が読んでも、昨日の畑跡が見えません」
「上に畑跡は要りません。結果が要ります」
会計担当は言い切ってから、少し息を吐いた。
「すみません。言い方が硬い」
「硬い方が通るなら、それで」
「ええ。硬い方が通ります」
僕は金属板を受け取った。
冷たい。
朝の水より冷たい。
✶
通信兵は、僕を見るなり水筒を隠した。
「私の水です。大尉に取られそうなので隠しています」
「取りません」
「昨日、机の水を飲みましたよね」
「あれは置かれていました」
彼女はそう言ってから、地図へ赤札を置いた。
軽口は軽口のまま終わらない。
戦場では、すぐに次の札が来る。
「南西、敵補給観測。荷馬車二、護衛歩兵十六、結界補助具なし、術式兵一。距離一・四キロ。茶札新線へ入らず、畑跡の外を回っています」
通信兵の報告と、僕の数字が同時に来る。荷馬車の値、護衛の値、術式兵だけ少し濃い値。ひとつずつ見れば分かるのに、重ねて読むと一拍遅れる。遅れた分だけ、判断も遅れる。
「昨日の小火点跡を確認しに来た形ですか」
「それもあります。たぶん、僕が前へ出るかどうかを見たい」
通信兵の指が、赤札の横で止まった。
「また出ますか」
「出ません」
自分で言って、少し遅れて息が入った。
出ない。
出ないと決めるのにも、力が要る。
「今回は、見せない方がいいです。前進制圧が毎回使えると思われると、向こうもそこへ罠を張ります」
「では」
「小銃班は撃たない。山崎さん、低装薬で荷馬車の前の道だけ崩してください。荷は欲しいです。人は散らしてください」
「荷は欲しい、か」
通信具が鳴り、山崎さんの声が割り込んだ。
「はい。冷却液ではないでしょうけど、部品か布なら使えます」
「了解。道だけ崩す」
「通信兵、拡声。敵部隊へ、荷を置いて下がれば撃たないと伝えてください」
「信じますか」
「信じないと思います。だから道を崩します」
砲声は一発だけだった。荷馬車の前の道が崩れる。馬が暴れ、護衛歩兵が散る。
敵術式兵が結界を張ろうとする。
張る前に、希望さんの狙撃が杖先を落とした。
荷馬車は止まった。歩兵は下がった。こちらは撃たなかった。
撃たずに済んだ。
済んだ、という言葉が胸の中で少し浮く。
すぐ沈む。昨日は撃った。今日は撃たなかった。
その差は、僕が優しくなったからではない。荷が欲しかったからだ。
✶
荷馬車の中身は、冷却液ではなかった。魔導冷却管の継ぎ手。湿布布。
乾いた豆袋。鉄線。古い結界補助具の基板。
使える。とても使える。だから、嬉しい。
嬉しいと思う前に、荷馬車の横へ倒れていた敵兵の腕が目に入った。
撃っていない。死んでいない。転んで、腕を折っただけだ。
HPは残っている。SANは細い。STRは戦闘用には戻らない。
救護兵が、敵兵の腕へクラウジを当てている。出血は止まっても、折れた骨までは戻らない魔法だ。それでも布を巻くだけより早い。敵兵は抵抗しなかった。こちらを見ない。
荷馬車だけを見ていた。荷を守れなかった兵の目だ。僕にも分かる。
守れなかったものを見る目は、たぶん世界が違っても似る。
「敵負傷一。捕縛しますか」
「武器を取っていないなら、救護後に後送。捕縛記録は別です」
「敵ですよ」
「はい」
「昨日は殺しました」
通信兵が言った。
責めているのではない。
確認している。
「昨日は、殺さないと結界を使わされました」
「今日は」
「今日は、荷が欲しいです」
「それだけですか」
僕は荷馬車の中の継ぎ手を見た。小さい金属の輪。これがあれば、結界具が一つ戻る。
結界具が戻れば、誰かが死ににくくなる。
「それだけにしておきたいです」
通信兵は水筒を僕へ投げなかった。
自分で飲んだ。
その方がよかった。
✶
救護分室へ寄ると、桜華さんは寝台の上で豆袋を膝に置いていた。
食べるためではない。
袋の口をほどき、豆を一粒ずつ小皿へ移している。
指の動きは遅い。
でも、止まってはいない。
「何をしているんですか」
「数えてる」
「豆を」
「うん。暇だから」
暇。
救護分室で聞くと、ひどく贅沢な言葉に聞こえた。
「手伝いますか」
「羽黒くんが手伝うと、帳簿になるからだめ」
「信用が低い」
「高すぎるの」
桜華さんは、豆を一粒つまみ損ねた。
小皿の縁で跳ねて、布団の上へ転がる。
僕が拾おうとすると、彼女は先に指で押さえた。
「これは私の失敗」
「取らないです」
「取られそうだった」
「仕事の癖です」
「悪い癖」
そう言って、桜華さんは豆を小皿へ戻した。小さな音がした。金属ではない。
薬莢でもない。ただの豆が、皿に当たる音だった。
「今日、撃たなかったって聞いた」
「荷が欲しかったので」
「うん」
「優しい理由ではないです」
「でも、撃たなかった日は、撃たなかった日でいいと思う」
僕は返事を探した。
見つからなかった。
桜華さんは、また豆を一粒移した。
「私も、死ねなかった日を、助かった日って言われると困る。でも、死ななかった日ではあるから」
窓の外で、荷車の鈴が鳴った。
冷却液ではない。
たぶん、空箱だ。
「豆、何粒ですか」
「今、四十七」
「数えているじゃないですか」
「帳簿じゃないからいいの」
桜華さんは少し口元を動かした。僕はそれ以上、荷の話をしなかった。小皿に落ちる豆の音を、しばらく聞いた。
戦場の音ではなかった。だから、少し長く聞けた。
✶
夕方、臨時権限表に印が増えた。戦域補給・救護・撤退線調整補佐。佐官待遇。
下に、小さく追記。
現場判断により、敵輸送荷を損耗軽微で確保。
敵死者なし。味方死傷なし。冷却管継ぎ手十二。
湿布布四十枚。豆袋六。豆袋。
その文字を見て、少し胃が鳴った。嫌なタイミングだ。人を殺した記録の翌日に、豆袋で腹が鳴る。
体は、いつもこちらの都合を聞かない。
会計担当が、印を乾かすために板を立てかけた。
「これで、明日の復路便が一つ増やせます」
「はい」
「助かりました」
僕は水筒の底を見た。空だった。飲んだのは僕ではない。
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