ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~   作:ハルキーノ

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九章十六話 返る痛み

《王録》 九章 十六節

 

『痛みは道を覚える。誰が敷いた道かまでは、まだ知らない。』

 

2378- 臨時拘束区 武田哲弥視点

 

 第三柵の内側で、男が右腕を押さえていた。

 

 帝国兵だ。肩章は外され、外套の襟には乾いた泥が固まっていた。

 

 腕は折れていない。腫れてもいない。それでも、男は肘から手首までを抱えるようにして、歯を食いしばっていた。

 

 柵の外では、監視員が同じ場所をさすっている。

 

 こちらも怪我はない。ただ、革手袋の上から何度も右腕を押さえる。

 

 哲弥は、二人の間に張られた細い銅線を見た。

 

 銅線は、柵の柱を通り、地面の杭へ落ちている。

 

 杭には、小さな札。

 

 番号だけが書かれている。

 

 名前はない。

 

「またですか」

 

 記録係の女が言った。

 

 彼女は若い。

 

 若いのに、声がもう若くなかった。

 

 袖口にインクの染みがあり、左手の爪だけ短く切っている。紙をめくるためだろう。

 

「またですね」

 

 哲弥は答えた。

 

「捕虜が暴れたわけではありません。監視員も触っていません。なのに、両方が腕を押さえています」

 

「両方ではありません」

 

 哲弥は、柵の向こうを見た。

 

 少し離れた机で、別の男が手首を回している。

 

 文官だ。捕虜番号の整理をしていた男で、彼も同じ右腕をかばっている。

 

「三人です」

 

 記録係は紙へ目を落とした。線が増える。ただの事故なら、線は増えない。

 

 事故ではないから、紙が増える。

 

✶

 

 卵理論、と彼は仮に呼んでいた。

 

 言葉としては、あまり好きではない。丸すぎるし、柔らかすぎる。

 

 本当はもっと嫌なものだ。

 

 他者へ与えた苦痛や影響が、関係、距離、近さ、濃さに応じて返る。

 

 単純に言えば、それだけ。

 

 人を殴れば、殴った分だけ痛む。命じれば、命じた分だけ薄く返る。記録すれば、記録した分だけ、さらに薄く触れる。

 

 哲弥は、それを抑止に使えると思っていた。

 

 虐待を止める。

 

 過剰な処罰を止める。

 

 命令だけして手を汚さない人間にも、少し重さを返す。

 

 そのはずだった。柵の中で、捕虜が呻く。柵の外で、監視員が腕を押さえる。

 

 机の前で、文官が手首を回す。返っている。原理は、壊れていない。

 

 壊れていないのが、いちばんまずい。

 

✶

 

「こちらをご覧ください」

 

 術式官が銅板を持ってきた。年配の男だ。髭の先に灰色が混じっている。

 

 声は丁寧だが、指先は落ち着きがない。

 

 自分の作ったものを見せたい職人の手つきだった。

 

 銅板には、円と線が刻まれている。中心に、捕虜。その外側に、監視員。

 

 さらに外側に、治安兵。端に、記録係。線は一本ではない。

 

 細く分かれて、また戻る。

 

「直接の負荷は軽くしています。監視員に全部返ると職務が持ちません。治安兵と記録係へ薄く分散させます」

 

「分散」

 

「はい。全員が少しずつ不快になります。致命的ではありません。仕事に支障が出ない程度です」

 

 術式官は、誇らしげだった。哲弥は、銅板の端を見た。閾値。

 

 そう書かれている。耐えられるが、不快。常時ではなく、逸脱時だけ強くなる。

 

「これを、誰に使うつもりですか」

 

「暴れる捕虜です」

 

 術式官はすぐに答えた。

 

 答えが早すぎる。

 

「捕虜だけですか」

 

「今は」

 

 今は。その言い方で、もう次がある。哲弥は銅板を返した。

 

 指先が冷たかった。

 

✶

 

 昼前、第三柵の外へ人が集まった。捕虜ではない。荷運びの人夫。

 

 下働きの女。行方不明者の名前を聞きに来た老人。門前で、彼らは列にならなかった。

 

 誰かが前へ出る。別の誰かが文句を言う。声が重なる。

 

 その瞬間、柵の柱に結ばれた銅線が、細く鳴った。

 

 一人が腹を押さえる。

 

 もう一人が膝を折る。

 

 老人は、何が起きたのか分からないまま、口を閉じた。

 

 集まりが、ほどける。誰も命令していない。誰も殴っていない。

 

 ただ、集まると不快になる。声を上げると、少し痛む。列を乱すと、膝に来る。

 

 従えば楽になる。哲弥は、門の横に立つ文官を見た。文官は何もしていない。

 

 ただ、銅板の札を一枚裏返しただけだ。

 

「密度の操作です」

 

 記録係が言った。

 

 説明する声ではない。

 

 読んでしまったものを、そのまま口に出す声だった。

 

「門前だけ、強く返ります。離れると薄くなる。日常生活には影響しない、そう書いてあります」

 

「日常生活」

 

 哲弥は、解けていく人の流れを見た。老人は、最後まで門を見ていた。聞きたい名前があったのだろう。

 

 でも、もう前へ出ない。楽な方へ、体が逃げる。

 

「反抗だけが、痛くなる」

 

 哲弥が言うと、記録係の顔色が少し変わった。

 

「そんな言い方は」

 

「違いますか」

 

 彼女は答えなかった。答えないまま、紙の角を折った。そこには、こう書かれていた。

 

 秩序維持試験。反体制行動による周辺負荷の抑制。社会協力者への負荷軽減。

 

 言葉が、すでに上書きされている。反抗は他者への影響。従順は社会への貢献。

 

 原理は、その定義に従う。

 

✶

 

 午後、捕虜の一人が笑った。

 

 笑える状態ではない。

 

 右腕を抱え、唇の端を切り、汗を流している。

 

 それでも、短く笑った。

 

「あんたら、上手いな」

 

 翻訳札が遅れて鳴る。

 

 声はかすれていた。

 

「何がですか」

 

 哲弥が問う。

 

「俺たちに殴らせず、俺たちに黙らせる。楽だろ」

 

 捕虜は、柵の外の監視員を見た。

 

 監視員は視線を逸らさなかった。

 

 逸らせば、負けると思っている目だ。

 

「俺が暴れれば、あいつも痛む。俺が黙れば、あいつは楽だ。俺も少し楽だ。じゃあ、黙る。そういう檻だ」

 

 哲弥は、言葉を返せなかった。

 

 捕虜の方が早く理解している。

 

 檻の中にいるからだ。

 

 図面を見ているだけの人間より、実際に痛みを受けている人間の方が、この仕組みに早く気づく。

 

「あんたの術か」

 

 捕虜が言った。

 

 哲弥は首を振った。

 

「僕の能力が元です」

 

「同じだろ」

 

 違う。そう言いたかった。防衛のためだった。

 

 加害を止めるためだった。隠された暴力を、隠せなくするためだった。言葉は、全部あった。

 

 全部、柵の前では軽い。

 

「同じではないです」

 

 哲弥は、やっと言った。

 

 捕虜は笑わなかった。

 

「じゃあ、止めろ」

 

✶

 

 夕方、哲弥は記録を借りた。

 

 借りた、というより、記録係が机の端へ置いた。

 

 彼女は何も言わない。

 

 ただ、インクのついた左手で、銅線の図を一枚だけ押さえていた。

 

 そこに書かれているのは、捕虜管理ではなかった。

 

 市門、市場、集会場——徴発受付、配給列まで。指が止まったのは、配給列のところだった。印が置かれているのは、人が集まる場所ばかりだった。

 

 密度を上げる。声を上げた時だけ、閾値を越える。受け皿は拘束者、異端者、あるいは名前のない者。誰も強制されていない。でも、抵抗すると痛む。従えば楽になる。無関心なら安全でいられる。

 

 哲弥は、自分の手を見た。指先は震えていない。理解できていることと、まだ止めていないことが、同じ手の中にある。

 

 柵の内側で捕虜がまた腕を押さえ、柵の外で監視員も腕を押さえる。机の前で、文官が手首を回した。痛みは返っている。原理は守られている。だからこそ、止めなければならない。

 

 哲弥は銅板を閉じた。重なった二枚が、指の中で小さく鳴った。

 

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