ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《王録》 九章 十八節
『杯に残る水は、飲んだ者の名を選ばぬ。』
夜になっても、地図室の灯りは消えなかった。
消す理由がなかった。救護列は抜けた。弾薬車も抜けた。
敵精鋭集団は、地図の上から消えた。
それなのに、机の上にはまだ札が残っている。
赤札が二つ。
青札が四つ。
黒札が、箱の外へはみ出していた。
「少佐、戦果表の写しです」
書記官が薄い紙束を置いた。
紙は乾いている。
乾いている紙は、濡れた紙より軽い。
軽いはずなのに、机に置かれた音だけが重かった。
「ありがとうございます」
僕が受け取ると、書記官はすぐには手を離さなかった。
紙束の下に、彼の親指の跡が薄く残っている。
インクではない。
灰だ。
「確認欄に、降伏勧告の時刻を入れました。記録上は、敵が拒否した後の包囲殲滅です」
「記録上は」
「はい」
書記官の声は乾いていた。
乾いているのに、喉を鳴らす音だけが一度混じる。
「記録外で、何かありますか」
僕が聞くと、書記官は机の横に置かれた水差しを見た。
もう水はない。
底に、白い粉みたいな沈殿が残っている。
「白布を拾いかけた敵兵が一名いました」
「見ました」
「その後、同じ兵が小銃を構え直しています」
「はい」
「ですので、降伏者なし、で通ります」
通る。通ってしまう。僕は紙束を受け取った。
親指の灰が、一枚目の端へ移る。
「通るように書いたのは、あなたですか」
「私です」
書記官は、そこだけ迷わなかった。
「違う書き方もできます。白布確認一、後続戦闘継続、と」
「その場合は」
「敵側の降伏行動を一度認めた上で、こちらが射撃を継続した記録になります。法務官が来ます」
「来てもらうべきですか」
書記官は、口の中で何かを一度転がした。
言葉ではない。
乾いた舌の音だった。
「来てもらうべき日もあります。今日かどうかは、私には分かりません」
正しい答えではなかった。
だから、少し助かった。
正しいことばかり言われると、こちらの逃げ場がなくなる。
「写しは、三部で」
「はい。地図室、救護、上申用です」
「救護にも」
「死者と負傷者の引き渡し時刻が必要です。敵味方を分ける欄はありません」
敵味方を分ける欄はない。
水筒も、分けなかった。
半分の半分だけ飲む、と言ったのに、僕はたぶん、少し多く飲んだ。
喉が渇いていたからだ。
敵精鋭を全員殺したあとでも、喉は渇く。
渇けば、水を飲む。
その順番が壊れていないことの方が、嫌だった。
✶
通信兵は、地図室の隅で符号板を拭いていた。
昼間、僕へ水筒を渡した人だ。彼女の水筒は、机の足元に置かれている。中身はほとんどない。
振ると、ほんの少し音がする。
「返します」
僕が水筒を差し出すと、通信兵は布で手を拭いてから受け取った。
すぐには飲まない。
金属の口の歪みを親指で確かめている。
「減っていますね」
「すみません」
「謝るほどではありません」
通信兵は水筒を軽く振った。
薄い音がした。
「ただ、次からは、半分の半分と言ったら、半分の半分です」
「測りますか」
「目分量で怒ります」
「それは厳しい」
通信兵は少し息を抜いた。
笑いにはならない。
でも、符号板を拭く手の力が少し抜けた。
「少佐」
「はい」
「今日は、戻ってきた人が多いです」
彼女は、水筒を机に置いた。
置き方が静かだった。
「救護列四列、全部抜けました。弾薬車も二両抜けました。結界具も石垣裏へ移せました。こちらの死者は三です」
「三人います」
「はい」
通信兵は、そこで初めて水を一口飲んだ。
本当に一口だけだった。
「でも、三で済みました」
その言い方に、僕の腹の奥が少し縮む。
三で済んだ。
僕も、昼間なら同じ言葉を使ったかもしれない。
いや、使った。
戦果表の中では、そういう言葉を何度も選んでいる。
「済んだ、でいいんでしょうか」
通信兵は、水筒の蓋を閉めた。
金属が小さく噛み合う。
「私に聞きますか」
「聞いてしまいました」
「では、答えます。よくないです」
彼女は符号板へ布を戻した。
「よくないです。でも、三で済ませる仕事をしたのは少佐です。私は、その通信を通しました」
彼女の手袋の指先は、黒くなっている。墨と油と、たぶん火薬の粉。きれいな手ではない。
でも、僕の手よりずっとまっすぐに見えた。
「少佐が嫌なら、私たちも嫌です」
「それは、困ります」
「困ってください。こちらも困っています」
少し、部屋の空気が戻った。
戻った空気は薄い。
でも、無いよりましだった。
✶
眠れないので、外へ出た。
正確には、寝台に横になったあとで、天幕の布目を数え続けるのに飽きた。
布目は途中で分からなくなる。分からなくなるたびに、昼間の数字へ戻る。敵歩兵百四十六。
術式兵十二。機甲衝撃兵六。軽戦車三。
英雄級三。味方死者三。負傷二十一。
救護列四。弾薬車二。結界具一。
数字だけなら、眠る前の羊より規則正しい。でも、羊は短銃を抜かない。羊は白布を拾わない。
羊は、三郷の剣を持っていない。外の空気は冷えていた。
水車小屋線の方角に、まだ焦げた匂いが残っている。
夜風が湿っていて、煙は高く上がらない。土嚢の影に、誰かが座っていた。小銃班長だった。
銃を膝に置き、布で銃床を拭いている。
「少佐」
「起こしましたか」
「起きていました」
班長は布をたたんだ。
古い傷のある頬に、夜の冷えで赤みが出ている。
「水車小屋線の死者、名前を確認しました」
「お願いします」
僕は立ったまま聞いた。
座ると、途中で立てなくなりそうだった。
「ロジック・ラルド伍長。既婚。子供一。昨日、弾倉受け渡しで一回叱られています」
叱ったのは、たぶん僕だ。弾倉を土嚢の外へ置くな、と言った。名前は覚えていない。
弾倉の置き場所は覚えている。
「ダイム・ウェル一等兵。十九。水車小屋線へ回されたばかりです。出身は南の方で、寒いのが苦手だと言っていました」
夜風が、土嚢の上の砂を少し動かした。
「もう一人は、重傷から亡くなりました。エンリ・サロ。救護列を通す時、荷車を押していた兵です」
荷車。車輪の音。泥を噛む音。
人が荷を押す声。あの中に、いた。
「記録します」
「もう書いてあります」
班長は、胸元から小さな紙を出した。
折り目が濡れて、少し波打っている。
「通信兵へ渡してあります。少佐へは、名前だけ」
「ありがとうございます」
「礼を言われる仕事ではありません」
「それでも」
班長は銃床をもう一度拭いた。
同じところを拭いている。
汚れはもう落ちている。
「少佐」
「はい」
「今日、少佐が出なければ、死者はもっと増えました」
それは、たぶん本当だ。
本当だから、きつい。
「今日、僕が出たから、敵はもっと死にました」
「敵です」
「人です」
班長は黙った。
その沈黙は、気まずさではなかった。
銃を拭く布が、そこで止まっただけだ。
「人です」
班長は繰り返した。
「でも、こちらへ撃ってきた人です」
「はい」
「その順番を、私は忘れないようにします」
忘れないようにする。
忘れない、ではなく。
それくらいの言い方しかできないのだと思う。
僕も、たぶんそうだ。
✶
天幕へ戻る途中で、三郷の剣を抜いた。
抜く必要はない。
見張りに見られたら、たぶん変な報告になる。
それでも、鞘から少し出した。刃に残っていた泥は、拭き取られている。血も、落とされている。
誰かがやってくれたのだろう。僕ではない。僕は、使ったあとに拭く余裕もなかった。
昼休みに三郷が牛乳パックを潰した手。僕の水筒を勝手に持っていった手。
誰かが列から外れそうになると、先に出ていた手。
その手に合っていた剣を、僕が握っている。今日は、それで人を殺した。ひとりではない。
剣で押した。短銃で撃った。砲撃を呼んだ。
包囲を閉じた。逃げ場所をなくした。降伏を促した。
拒否された。全員を殺した。順番に並べると、どこかで自分が薄まる。
命令。復唱。射撃。
着弾。死亡確認。記録。
でも、薄まらないものもある。水が喉を通ったこと。通信兵の水筒を、少し多く飲んだこと。
ロジック伍長の弾倉の置き場所だけを覚えていたこと。
エンリという兵が、荷車を押していたこと。名前は、後から来る。いつも、後から来る。
僕は剣を鞘へ戻した。金属が収まる音は小さい。
小さいのに、夜の中では遠くまで聞こえる気がした。
「少佐」
背後から声がした。
通信兵だった。
水筒を持っている。
「巡回ですか」
「少佐の回収です」
「僕は荷物ですか」
「今日は、かなり面倒な荷物です」
彼女はそう言って、水筒を差し出した。
「飲みません」
「飲んでください。今度は、私が量を見ます」
「厳しい」
「厳しくします」
水筒の口は、相変わらず少し歪んでいる。僕は受け取って、一口だけ飲んだ。本当に一口だけ。
水は、やっぱり喉を通った。通信兵は、それを見届けてから言った。
「明朝、臨時戦域調整会議です。少佐待遇では足りないそうです」
「またですか」
「はい。署名欄が増えます」
夜風が、地図室の方から吹いた。
冷たい。
それでも、天幕の中にいるよりはましだった。
「分かりました」
「寝てください」
「努力します」
「努力では困ります」
同じようなことを、別の人にも言われた。僕は少し笑った。笑えたかどうかは、分からない。
でも、通信兵は水筒をしまった。それだけで、今は十分だった。明日の署名欄は、今日より広いらしい。
広い欄ほど、人の名前が入りやすい。僕はそれを、もう知っている。
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