ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《創世訓》 一章 十九節
『夜明けの城壁に、数は冷たく並ぶ。』
夜明け前の冷たい空気が、城壁の上に張り詰めていた。眼下に広がる平原はまだ薄暗い靄に沈んでおり、不気味なほど静まり返っている。胸壁に置いた指先だけが、石の冷たさを拾っている。
現地の騎士たちは、この北の砦をノエホ砦と呼んでいた。
寒い土地、という意味だと聞いた。名前の通り、指先がじわじわ冷える。
「……敵影、未だ確認できず。斥候からの報告も芳しくない」
騎士の一人が、舌打ちを噛み殺すように報告した。僕たちは、いつ、どこから、どれだけの敵が来るのか、ほとんど把握できていないまま夜明けを待っていた。
胸壁に身を寄せ、クラスメイトたちは眼下の闇を見つめている。自慢の魔法も、強力な剣技も、敵が見えなければ振るいようがない。リーダーである三郷も、唇を固く結んでいた。誰かの革手袋が、胸壁の縁をぎゅっと鳴らした。
僕のすぐ隣では、桐谷さんが銃身を布で拭いていた。狙う先もまだ見えないのに、指の動きだけは迷いがなかった。
城壁の内側には、まだ眠そうな補修兵と砲兵が行き来している。水桶、弾薬箱、担架。昨日までは別々に見えていた物が、今朝は同じ通路の上に並んでいた。
――いや、僕だけは、見えていた。
この静かな闇の向こう側。蠢き、陣形を整え、牙を研いでいる無数の生命の灯火が。僕の眼にだけ映る、明滅する『数字』の群れが。
「……敵、集結完了。総数、およそ三百。距離、千八百。前衛に大型種が三十。後衛に……おそらく魔法を使う個体が多数。左右の森に伏兵……」
喉が張り付くような感覚を覚えながら、僕はか細い声で呟いた。それは誰に言うでもない、ただの独り言のはずだった。
「承」
不意に、すぐ隣にいた三郷が僕の顔を覗き込んだ。僕の口が止まったあとも、彼は闇ではなく僕の方を見ていた。
「今、なんて言った」
「いや……その、見えてる、だけで……」
「詳しく話せ。全部だ」
有無を言わさぬ強い口調。僕はごくりと唾を飲み込み、視界に映る情報をありのままに伝えた。
すべての報告を聞き終えた三郷は、一つ大きく息を吐くと、僕の腕を掴んで走り出した。向かう先は、赤い外套を羽織った壮年の騎士――近衛騎士長アンテラルが待つ仮設の指揮所だった。
「――アンテラル騎士長! 以上の情報から、この防衛戦における俺たち転移者部隊の指揮を、羽黒に任せてほしい!」
三郷の言葉に、指揮所の空気が凍り付く。
「正気か、三郷! あいつは戦闘能力ゼロだぞ!」
「そうだ! 見間違いじゃないのか?」
当然の反発が渦巻く。だが、三郷は一歩も引かなかった。背中を丸めず、声の高さも変えない。反発していた何人かが、先に口を閉じた。
「あいつの眼は本物だ。だが、それだけじゃない。こいつの状況判断と采配能力は、俺が保証する! この五里霧中の状況を覆せるのは、承のその頭脳だけだ!」
そして、僕の方に向き直る。小学校の帰り道で、僕のランドセルを勝手に持って走った時と同じ目だった。
「承。お前の好きなゲームみたいに、俺たちを駒だと思って使ってくれ。頼む」
RTSが好き。
そんな他愛ない話を、三郷は覚えていた。
胸の奥に何かが上がってきて、すぐに背中が冷えた。
駒。
友達を、駒として見る。
それを頼まれている。
「……わかった。やってみる」
僕は頷くと、指揮所に広げられた地図を睨みつけた。机は仮設で、脚の片方に布が噛ませてある。地図の端を押さえる重しには、使い終えた砲弾の底が使われていた。
現実の地形と、僕の網膜に映る敵の配置図が、ぴたりと重なる。
「騎士長、現在の配置では危険です。僕の観測に基づき、転移者部隊の配置変更を提案します。敵の主力は正面からではなく、西の森を抜けて側面を突く配置です。正面の部隊は陽動に過ぎません」
僕の言葉に、アンテラル騎士長は眉をひそめる。だが、三郷がまだ一歩も下がらないのを見て、短く息を吐いた。
「……よかろう。だが、指揮権はあくまで転移者部隊のみ。騎士団は貴様の情報を『参考』に、こちらの判断で動く。城塞からの移動は許可しない。徹底的な防戦こそが我らの方針だ。それでいいな」
「はい。その条件でやります」
「それと」
アンテラル騎士長は、地図から僕へ視線を移した。
「貴様の報告が外れたと判断した瞬間、私が上書きする。反論の時間は与えん」
「……分かりました」
許可ではない。
試されているだけだ。
それでも、何も見えないまま立っているよりはよかった。
僕は頷き、クラスメイトたちに向き直った。
名前を呼ぶ前に、教室の席がいくつか浮かんだ。窓際、黒板前、掃除当番の札。どれも今は城壁の上に散っている。
呼べば、その人が動く。
当たり前みたいで、全然当たり前じゃなかった。
「鈴木、東側城壁へ回ってくれ。森の入口から五十メートル地点。最大火力を撃てるよう、今から準備して。敵の魔道部隊が集まってる」
「弾は二十発、装填済みです」
鈴木が短く答えた。
「弓や援護魔法が使える人は、西側城壁の上層へ。敵の伏兵を森に留めます。位置は僕が見て伝えます」
「佐々木さん、高橋さん、それから前衛は西側城壁へ回って。大型種が取り付く。騎士団の迎撃部隊と合わせて、突破させないで」
僕の指示は、あくまで城壁内での再配置と、役割の確認だ。
敵の全貌が見えている。
だから、空いている場所と危ない場所が見える。
それだけだ。
それだけのはずなのに、声を出すたび、誰かの足音が動いた。
三郷が一度も遮らなかった。
そのせいで、他の視線も少しずつ僕の方へ寄ってくる。
すべての部隊が再配置を終える頃には、東の空がようやく白み始めていた。しかし、厚い雲が空を覆い、夜明けの光はまだ地上に届かない。
眼下の平原は動かない。森際で最初の数字が一つ進み、続いて三百が城壁へ向きを変えた。