ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~   作:ハルキーノ

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九章二十七話 机の上の階級

《王録》 九章 二十七節

 

『高い椅子ほど、足元の泥を見えにくくする。ゆえに記録官は、椅子ではなく靴を見よ。』

 

2378- 北部第三中継点 羽黒承視点

 

 夕方までに、アルゴは二往復した。

 

 一往復目は負傷者。二往復目は空箱と、壊れた結界導線と、濡れた毛布。

 

 三往復目はなかった。

 

 車両が疲れた、と言えば簡単だ。

 

 正確には、車両の中にいる人間と、車両の下で働く歯車と、車両に乗せられる荷の順番を決める人間が、同時に疲れた。

 

 アルゴ一両目の操縦手は、降りる時に足を踏み外した。すぐ笑ってごまかしたが、笑ったあとで膝に手をついている。

 

「三往復目は止めます」

 

 僕が言うと、操縦手は顔を上げた。

 

「まだ行けます」

 

「車両は行けます。あなたは、たぶん帰りに眠ります」

 

「寝ません」

 

「では、眠らないために止めます」

 

 横で聞いていた車長が、操縦手の襟をつかんだ。

 

「命令だ。水飲め」

 

「車長」

 

「水」

 

 操縦手は文句を飲み込んだ。水筒の蓋を開ける手つきが少し遅い。革手袋の端が泥で固まっていて、指がうまく曲がっていなかった。

 

「すみません、嫌な命令です」

 

 僕が言うと、車長は短く鼻で笑った。

 

「いい命令ですよ。嫌な顔をするのは部下の仕事です」

 

「では、嫌われ役を分けてください」

 

「戦域調整官殿は十分嫌われています」

 

「早いですね」

 

「昇進より早いです」

 

 近くにいた通信兵が咳をした。

 

 笑いを隠す咳だった。

 

 僕も笑った。笑う方を選ばなければ、車両の下から聞こえる歯車の冷える音だけが残る。

 

✶

 

 夜の地図室には、机が三つ増えた。

 

 車両を動かす机には油の匂いが残り、救護後送を回す机には濡れた毛布が積まれ、戦果と買い戻しを扱う机には赤い印が乾かないまま置かれていた。

 

 少将相当権限という言葉は、紙の上では短い。けれど実際には、机と椅子と、そこに座る人と、その人が飲み込む文句が増える。

 

「車両部品の買い戻し枠、また上げますか」

 

 会計担当が言った。

 

 目の下が少し青い。数字はまだ整っているが、声の端だけが紙やすりみたいになっていた。

 

「上げます。歯車箱と結界導線は修理班へ。油冷管は機甲試験隊へ。アルゴ用の後部扉金具だけは救護後送の別枠で」

 

「後部扉金具までですか」

 

「負傷者を下ろす時に壊れます」

 

「壊れなければいい」

 

「壊れない運用にすると、下ろすのが遅れます」

 

 会計担当は一度、帳簿の余白ではなく、机に置かれた泥つきの金具を見た。

 

 金具には布が巻かれている。誰かが手を切らないようにしたのだろう。巻き方は雑だったが、雑なりに役に立っていた。

 

「別枠にします」

 

「ありがとうございます」

 

「ありがとうで済ませると、次も増えます」

 

「では、嫌な経験則をありがとう」

 

「それも済ませています」

 

 会計担当は小さく息を吐いた。

 

 怒ってはいない。疲れている。

 

 疲れている人に、こちらの軽口が届く時と届かない時がある。今日は、ぎりぎり届いた。

 

 通信兵が新しい符号紙を持って入ってきた。

 

 封蝋つき。

 

 封蝋がつく紙は、だいたい面倒だ。

 

「師団司令部、軍務局、第二王子近衛会議連名です」

 

「三つは多いですね」

 

 返事はなかった。通信兵は封を切らずに置いて、受領簿の署名欄だけをこちらへ向けた。

 

 束の一番下に、封蝋のない紙が一枚だけ紛れていた。字が丸い。

 

『少将って、給料上がるの? 上がるなら次会った時おごって』

 

 差出人の欄には、山崎才我とだけ書かれていた。用件の紙に紛れて届いたらしい。

 

 僕は少し笑って、その一枚だけ辞令の束から抜いた。

 

「書類はたまに乱暴なんだね」

 

 それも返ってこなかった。符号紙の束を揃え直す音だけが続いている。指先だけ、インクで青い。

 

 疲れているのか、付き合わない主義なのか。どちらにしても、無理に届かせるものでもない。

 

 僕は受領簿に署名して、封を切った。開けなければ、開けなかった理由書が増えるだけだ。

 

 中の紙は二枚で、一枚目が辞令、二枚目が命令範囲だった。

 

 臨時少将相当ではなく、臨時少将。ただし、戦域限定。

 

 北部第三戦域で、ゴルペホ橋梁線から旧採石道、魔力溜まり外縁の作戦準備区域までを扱うこと。

 

 補給を通し、負傷者を戻し、救護の順番を決めること。砲兵観測線と機甲予備を動かし、冒険者協会や民間輸送との連絡に署名すること。鹵獲品の買い戻しも、その範囲に含めること。

 

 長い紙だった。

 

 こういう紙は、だいたい誰かが短く泣いた後に作られる。

 

「少将、ですか」

 

 通信兵が言った。

 

「戦域限定でも少将です。内部では戦域調整官、外部回線では少将、師団司令部は少将殿でしょう」

 

 受領欄の横には拒否手続きもあったが、その下に即時適用と赤で追記されている。選べる形だけを残した紙だった。

 

 会計担当が、辞令の二枚目を見て顔をしかめた。

 

「買い戻しも署名範囲に入っていますね」

 

「入っています」

 

「つまり、戦果が増えるほど買い戻し枠も増やせる」

 

「言い方」

 

「帳簿の言い方です」

 

 僕は紙を置いた。

 

 机の上に、戦果表がある。

 

 敵の観測手を消した行がある。徹甲小銃兵を止めた行がある。術式兵、戦車、機甲衝撃兵も、同じ紙の中で数になっている。

 

 その横に買い戻し枠があり、さらに横に臨時少将の辞令がある。

 

 机の上で並べると、別々の紙だったものが同じ線で繋がってしまう。

 

 人を殺すと、敵の装備が残る。装備を買い戻すと、味方の補給が回る。

 

 補給が回ると、次の戦闘に間に合う。次の戦闘で、また人が死ぬ。

 

 僕の署名が、その途中に入る。紙の匂いがした。乾いた紙ではない。

 

 湿気を吸った紙の匂い。

 

 野戦机の上で夜を越した紙は、少し重くなる。

 

✶

 

 外へ出ると、炊事天幕に灯りが残っていた。

 

 冒険者補給班の一人が、鍋の底を木べらでこすっている。焦げた麦がはがれる音がした。

 

「少将になったって聞きました」

 

「誰からですか」

 

「鍋から」

 

 冒険者は木べらの先で、鍋の縁を軽く叩いた。

 

「それは困ります」

 

「口止め料は塩で」

 

「会計担当に撃たれるので、やめてください」

 

 冒険者は笑った。

 

 前歯が一本欠けている。昼間は気づかなかった。笑うと、そこだけ暗い。

 

「偉くなると、飯はうまくなるんですか」

 

「たぶん、冷めます」

 

「でしょうね」

 

 彼は鍋底の焦げを一つ、木べらで寄せた。

 

「昔、北の守備隊にいました。冒険者と仲のいい部隊は飯がうまいって、あれ本当ですよ。うまい飯を出す部隊は、帰り荷を頼みやすい。帰り荷を頼みやすい部隊は、弾薬箱も戻る。弾薬箱が戻る部隊は、次に飯が炊ける」

 

「循環ですね」

 

「言い方がきれいすぎます。腹の話です」

 

 鍋の焦げが、ぺり、と剥がれた。

 

 冒険者はそれを見て、少し満足そうにした。

 

「少将殿」

 

「やめてください」

 

「じゃあ、羽黒さん」

 

「はい」

 

「殺すと強くなるって話、聞いたでしょう」

 

 木べらが鍋の底で止まった。

 

 炊事天幕の外で、誰かが水桶を置く音がした。

 

「聞きました」

 

「あれ、冒険者は半分信じて、半分嫌ってます。魔物ならまだいい。人は、よくない」

 

「よくない」

 

「後に残るんですよ。力か、夢か、癖か。名前は人によって違う」

 

 冒険者は鍋の底を見たまま言った。

 

「強い奴ほど、変なものを持って帰る。剣筋とか、口癖とか、寝る時の向きとか。死んだ相手のものか、自分で作ったものかは分からない」

 

 僕の左手が、手袋の中で少し重くなった。

 

 HP、SAN、STR。その隣に、見たことのない文字が薄く浮かんでいた。KR。読み方も、意味も、まだ分からない。

 

 表示は見ない。見ないようにしても、そこにある。

 

「僕もですか」

 

「さあ。俺は測定器じゃないです」

 

「正直ですね」

 

「冒険者なので」

 

 冒険者は木べらをまた動かした。

 

「でも、飯を手伝う人は、だいたいまだ戻れます」

 

「根拠は」

 

「鍋の底を気にする人は、まだ全部を戦果にしない」

 

 僕は返事に少し困った。

 

 返事に困っている間に、彼は焦げを小皿へ移した。

 

「食べますか」

 

「それは食べ物ですか」

 

「食べられる焦げです」

 

「じゃあ、少し」

 

 焦げた麦は苦かった。

 

 でも、苦いだけではなかった。

 

✶

 

 深夜、地図室に戻ると、辞令はまだ机の上にあった。

 

 臨時少将、戦域限定。

 

 限定と書かれていても、死ぬ人間は限定されない。

 

 魔力溜まり外縁作戦準備区域。

 

 その文字だけが、二枚目の紙で少し濃く見えた。

 

 最初に受けた講義で聞いた言葉だ。

 

 魔力溜まり。資源。魔物。王国軍が簡単には手を出せない場所。

 

 あの時は、黒板の地図だった。今は、命令範囲に入っている。僕は机に手をついた。

 

 木が冷たい。昼間の軽口が、机の上で全部乾いている。少将になったら、何かが変わるのだろうか。

 

 たぶん、変わる。

 

 署名欄と呼び方が変わり、僕の命令で動く車両が増える。戻る人も増える。戻らない人も増える。

 

 それだけだ。

 

 胸の奥で、何かが硬くなった。

 

 泣くほど柔らかくなく、怒るほど熱くもない。ただ、硬い。

 

 その硬さで、紙を押さえた。

 

 僕は辞令の下に、今日の戦果表を重ねた。

 

 敵死亡推定、味方死者なし、車両損傷、買い戻し枠増額。

 

 その下に、炊事班の塩不足。最後の一行だけ、報告書には入らない。でも、僕の紙には残した。

 

 塩が足りない。

 

 兵は明日も飯を食べる。食べた兵を、僕はまたどこかへ出す。

 

 地位が上がるほど、都合の悪いものは見えにくくなるのかもしれない。

 

 僕は椅子に座らなかった。

 

 立ったまま、地図を見た。

 

 北部第三中継点からゴルペホ橋梁線へ、旧採石道へ、魔力溜まり外縁へ。

 

 線が、次の場所へ伸びている。区切りではない。

 

 地図の上に、まだ拾いきれていない値がいくつも残っている気がした。全部を同時に持つには、たぶんこの左手はもう少し余裕がない。それでも、線は伸びる。

 

 僕にとっては、ただ、次の命令範囲が増えただけだった。

 

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