ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《王録》 九章 二十九節
『借りた頭は、返す時まで自分のものだと錯覚してよい。』
2378- 魔力溜まり外縁作戦準備区域 羽黒承視点
車列が到着すると、地図室の前に見慣れない外套が二着、並んで立っていた。
連合王国の意匠ではない。灰緑の生地に、金の縁取り。片方は将官の階級章、もう片方は佐官の階級章をつけている。
「羽黒少将殿ですね」
将官の方が先に敬礼した。動きに無駄がない。声は柔らかいのに、目だけが先にこちらの階級章と装備を数え終えていた。
「ネールリナ帝国軍、ルセリナ・ノルハです。特別警備隊総局より、連携武官として派遣されました」
帽子の縁から、大きく立った耳が二つ覗いている。ルネーナ人特有の、灰色の短毛に覆われた狼の耳だった。動きに合わせて片方だけが軽く傾く。外套の裾からは、太く豊かな尾がまっすぐ伸びていた。
丸みのある顔立ちに、ゆったりした笑み。話し方も、初対面の相手をくつろがせる調子だった。それなのに、握った手の力だけが、こちらの疲労の程度を測っているように感じた。
「副官のミネナです、よろしくお願いします!」
もう一人は、ルセリナとは違う耳をしていた。狐に近い、先の尖った耳が二つ。背後では、三本の太い尾がそれぞれ別の方向へ揺れている。敬礼の角度は少し崩れていた。
「敬礼、その形で通ってるんですか」
「通ってます。総監部が緩いので」
「羨ましいですね」
「少将殿の方が階級高いので、真似しないでください」
ルセリナが横から言った。声の温度は変わらないのに、釘の刺し方だけが正確だった。
✶
地図室に通されると、ルセリナは机の端、書記官の隣に椅子を引いた。
「口を出す許可はいただけますか」
「聞かないと出せない性格ですか」
「出す前に聞く方が、後で揉めません」
「では、聞きます。ここでは何をしていただけますか」
「立案の補助です。指揮権はいただきません。あなたの名前で出す命令の、下書きを書きます」
下書き。
その言葉が、思ったより静かに耳へ入った。
「僕が全部読んで、直して、それから出す形ですか」
「はい。読まずに出したら、そこで叱ります」
冗談のように言われたが、目は笑っていなかった。
「ミネナ中佐は」
「記憶と地図です。彼女は一度見た配置を忘れません」
「忘れないだけで、忘れっぽいって言われるんですけどね」
ミネナが荷物を広げながら口を挟んだ。
「性格の話と記憶力の話は別です」
「厳しいなあ、ルセリナ様は」
「様はやめてください」
二人のやり取りに、通信兵が小さく咳をした。笑いを堪えた咳だった。
✶
最初の仕事は、既存の指揮記録を読むことだった。
ルセリナは、羽黒がこれまで出した命令の写しを、無言でめくっていった。
「反対可能欄。中止権者の分散。回収補助制度」
紙の端を指で押さえる。
「よくできています。ただし」
「ただし」
「全部、あなたが一人で設計しています」
言われて、返す言葉がすぐには出なかった。
「制度は正しい。設計者が一人しかいないことが、次の弱点です。あなたが倒れたら、この地図室は誰の頭で動きますか」
「それは」
「今日からは、二人います」
ルセリナは、写しの束を自分の前へ引き寄せた。
「明日の分から、下書きは私が書きます。あなたは、直す仕事だけしてください」
直す仕事。
全部を作る仕事より、少しだけ軽い言葉だった。軽いのに、何かが喉の奥でつかえた。
「疑うわけではありませんが」
「疑ってください。それが監査です」
ルセリナは、初めて少しだけ笑った。柔らかい表情はそのままなのに、帽子の下の耳だけが、ぴたりと後ろへ伏せていた。表面の柔らかさの下から、別の何かが一瞬だけ覗いた気がした。
「私は、あなたを信用するために来たのではありません。あなたが倒れても地図室が止まらないようにするために来ました」
その言い方は、慰めではなかった。
だから、受け取れた。
部屋の隅で、沢渡が測距記録を整理していた。呼ばれるまで待つ姿勢が、いつもと同じだった。
「沢渡さん」
「はい」
「明日の弾薬配分、先に叩き台を作ってもらえますか。僕は最後に直すだけにします」
沢渡は一瞬だけ手を止め、それから頷いた。
「叩き台、ですね。分かりました」
声の端に、少しだけ驚きが残っていた。任せる側にも、慣れが必要らしい。
✶
夜、ミネナが地図の端に古い符号紙を並べていた。
「北方稜線、去年の観測記録と今年の記録、微妙にずれてます」
「ずれ、というと」
「川の位置。多分、雪解けで土手が動いたんですよ。地図は正直なんですけど、地面の方が嘘つきです」
「直しますか」
「もう直しました。ルセリナ様に怒られる前に」
「様は」
「やめてくださいって、はい、分かってます。癖なんです」
ミネナは尻尾の先で符号紙の角を押さえながら、こちらを見た。
「羽黒少将殿、疲れてますね」
「疲れは、いつものことです」
「いつものことにするの、やめた方がいいですよ」
軽い口調のまま、真っ直ぐな言葉だった。
「それ、ルセリナさんの受け売りですか」
「半分。もう半分は、五百年生きてると分かることです」
僕は、その数字の重さをうまく量れなかった。
量れないまま、頷いた。
「覚えておきます」
「覚えるだけじゃなくて、休んでくださいね」
ミネナは笑って、次の符号紙へ手を伸ばした。
地図室の隅、ルセリナはまだ命令の下書きを書いていた。
二人分の手が、今日から地図の上にある。
その分だけ、僕の手が空くわけではなかった。それでも、空かないことに気づいてくれる人間が、一人増えた。
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