ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《王録》 十章 一節
『誰も動かぬ線はいかにして道と言えようか』
2378- 北部第三中継点―魔力溜まり外縁作戦準備区域 羽黒承視点
魔力溜まり外縁へ指揮所を移す朝、出発は夜明けより少し遅れた。
遅れた理由は、辞令でも敵でもない。
車輪だった。最後の敵主力へ届く前に、まず全員と朝食を予定地まで運ぶ。それが最初の仕事になった。
炊事車の左後輪が、北部第三中継点を出る前に泥へ沈んだ。荷台には鍋、乾燥豆、塩、薪、それから空の水桶が積まれている。人間なら軽い荷も、まとめれば車輪を半分埋めるくらいには重い。
「少将殿、先行車列は出せます」
輸送担当の兵が言った。
外套の右肩だけ濡れている。車輪の下へ板を入れた時に、泥水を浴びたらしい。
「炊事車を置いてですか」
「後続へ回します」
「では、僕も後続へ回してください」
兵が口を閉じた。
炊事班の人が、荷台からこちらを見ている。両手に豆袋を抱えていた。袋の口が少し開き、黒い粒が一つ、荷台の板に転がっている。
「冗談です。半分くらい」
「残りの半分は」
「朝食を置いて進む指揮所は、たぶん夕方に反乱が起きます」
「兵がですか」
「僕の腹がです」
輸送担当の兵は、泥の中の車輪を見た。
「反乱防止を優先します」
「お願いします」
アルゴ二両から牽引索を出した。
一両目が前へ出る。索が張り、炊事車の荷台が軋んだ。二両目は道の右へ寄り、沈んだ側を少し持ち上げる。
車輪が泥を削った。
一度目は動かない。
二度目で、板が割れた。
三度目に、左後輪が泥の縁を越えた。炊事班から声が上がり、荷台の豆袋が一斉に揺れる。
「反乱、回避しました」
輸送担当の兵が言った。
「迅速な鎮圧でした」
「記録に残しますか」
「少将最初の戦果が炊事車の救出になるので、やめてください」
炊事班の人が笑った。
豆袋から落ちた一粒を拾い、布で拭いて袋へ戻している。
朝食一食分より小さい。
でも、置いていく理由にはならない。
✶
車列は三つに分けた。先行は観測、工兵、護衛。中央に通信、救護、指揮所資材。
後続に炊事、修理、予備弾薬、空箱。アルゴは二両を中央と後続へ一両ずつ。
三両目は北部第三中継点に残し、橋梁補修材と後送者を午後便で運ばせる。
空箱は空でも場所を取る。
だから置いていきたくなる。
置いていくと、帰り荷を積む箱がなくなる。帰り荷が積めなければ、壊れた結界具も空薬莢も回収できない。回収できないものは、次の補給へ戻らない。
何も入っていない箱が、次の弾薬より先に必要になる。
空箱を一つ減らせば、往路の荷台は空く。
復路では、その一つ分だけ壊れた結界具か負傷者の荷物を置けなくなる。
「旧採石道まで、四時間です」
通信兵が車内の地図を指した。
アルゴの兵員区画は、暖かいとは言いにくい。車体底から振動が上がり、座席の金具が一定の間隔で鳴っている。
「四時間で着きますか」
「予定では」
「予定以外では」
「橋が一つ落ちています。迂回路は工兵が確認中です」
護衛兵が速度表の余白へ、迂回路の候補を書き足した。
「では、五時間半」
「どうして増えたんですか」
「工兵が大丈夫と言う道は、輸送車が一度嫌がります」
向かいの工兵が顔を上げた。
膝の上に測量杭を四本まとめている。手袋の親指に、白い石灰が染みていた。
「今回は嫌がらせません」
「頼もしいですね」
「嫌がる前に引っ張ります」
「方法が力強い」
工兵は鼻で短く息を出し、杭の先を布で包み直した。
車体が大きく傾いた。
壁の留め具へ吊られた水筒が三つ、同じ方向に振れる。通信兵が地図を押さえ、僕は座席の縁を掴んだ。
窓は狭い。外は細くしか見えない。土手。
濡れた草。砲弾で折れた木。その間を、数字が流れていく。
先行する護衛兵のHP。操縦手のSAN。車外警戒の兵が向けている視線。
見ようとしなくても、車体の向こうに薄く残る。
先行だけではない。中央車列の通信兵、後続の炊事班、橋梁の残り杭の数――同時に、いくつも重なって流れてくる。以前は一つずつ拾えばよかった。今は、拾う前から答えが並んでいる。
前は壁の向こうが見えないだけで、少し気が楽だった。
でも今は、壁ごしでも数字の方が先に届いてしまう。
「少将殿」
「はい」
「酔いましたか」
通信兵がこちらを見ていた。
「まだ大丈夫です」
「顔色が落ちています」
「階級が上がると、揺れにも弱くなるらしいです」
「初めて聞きました」
「僕も今、作りました」
通信兵は腰の袋から乾燥果実を一つ出した。
「食べてください」
「通信兵の携行食を奪う少将は、かなり印象が悪いですよ」
「これは私物です」
乾燥果実は僕の膝の上へ置かれた。受け取るまで回収しないらしい。
「もっと悪いですね」
「では、命令です」
「誰から僕への命令ですか」
「車酔いした人間を増やしたくない者からです」
乾燥果実を受け取った。
酸味が強い。
少し硬く、噛むと歯に張りつく。
「おいしいです」
「そうですか」
「疑っていますね」
「顔が変わっていません」
「車内で感想まで揺らすと危ないので」
通信兵は、それ以上聞かなかった。
僕は残りを飲み込んだ。
酸味は、ちゃんと残った。
✶
旧採石道の橋は、橋ではなくなっていた。
石造りの橋脚が二本残り、その間へ木材と鉄板が渡されている。下を流れる水は浅いが、流れが速い。砲撃で崩れた石が川底を狭め、水だけが急いでいた。
先行した工兵が、対岸から白旗を二度振った。
通行可能。
ただし、一両ずつ。
「アルゴから渡しますか」
輸送担当の兵が聞いた。
「救護車を先に」
「空ですよ」
「向こうで埋まる予定です」
言ってから、喉が少し乾いた。
救護車の御者は、何も聞かなかった。手綱を引き、馬の首を橋へ向ける。
馬は鉄板の手前で止まった。
蹄が一度、石を叩く。
工兵が横から布を見せ、鉄板の匂いを嗅がせた。馬は鼻を鳴らし、前脚を乗せる。
荷車が橋へ入った。板が沈む。川の音が一瞬だけ大きくなる。
救護車は対岸へ渡った。次に通信車。アルゴ。
炊事車。予備弾薬車は最後にした。
「弾薬を先に渡した方が、向こうで戦えます」
護衛兵が言った。
銃床に新しい革が巻かれている。古い革は雨で伸びたのだろう。
「弾薬だけ渡って橋が落ちると、こちらの人が戦えません」
「橋が落ちる前提ですか」
「落ちないように渡します。落ちた時の順番も決めます」
橋上では、工兵が輸送車の車間を白墨で区切っている。
「少将って、嫌なことばかり考えるんですね」
「前からです」
護衛兵は銃を背負い直した。
予備弾薬車が橋へ入る。
左の鉄板が鳴った。
工兵が手を上げ、車を止める。川の上で、車輪が半分だけ板から外れていた。
「後ろへ戻すな!」
対岸から声が飛ぶ。
アルゴの牽引索を前から繋ぐ。
弾薬車の御者は動かなかった。手綱を握ったまま、馬の耳だけを見ている。馬も動かない。
「そのままで大丈夫です」
僕は声をかけた。
御者が一度だけ頷く。
「アルゴ、低速。工兵は左輪へ板を足してください。護衛は橋から降りて。弾薬箱は開けない」
「開ける者はいません」
「確認です。こういう時、人は軽くしたくなります」
牽引索が張った。左輪の下へ板が入る。車輪が少し浮き、鉄板へ戻った。
弾薬車が対岸へ抜ける。橋は残った。
工兵がしゃがみ込み、ずれた鉄板へ新しい杭を打つ。槌の音が川沿いへ響いた。
橋の手前には、青と白の標識杭が並んでいた。本物の渡河点は白杭の内側だけで、青杭の並びは上流の偽装だと後で聞いた。工兵が地形へ先に嘘をつき、敵の観測がそちらへ寄る間に、こちらは本当の橋を渡り切る。派手な護衛より、その一手の方が渡河の遅延を減らしていた。
僕は損耗表の余白へ書いた。橋梁鉄板一、変形。補強杭三。
通過遅延、二十七分。死者なし。
最後の四文字を書いた時、左手の奥が少し重くなった。
橋は落ちなかった。
誰も死んでいない。
左手の重さは、死者なしの四文字を書き終えても消えなかった。
✶
魔力溜まり外縁は、地図より広かった。
最初に見えたのは、光ではない。
柵だった。
低い木柵が、丘の斜面を何重にも囲んでいる。杭の間には鈴と細い導線が張られ、魔物が触れれば音と光で知らせる仕組みになっていた。
柵の向こうに、灰色の土地が続く。
草が少ない。
岩が多い。
岩の一部だけ、濡れていないのに暗く光っている。
魔力溜まり。
近づけば何か感じると思っていた。
実際に感じたのは、冷えだった。
風が外套の隙間へ入り、汗の乾いた背中を冷やす。魔力かどうかは分からない。冬の風でも同じことは起きる。
「指揮所予定地、あの丘です」
工兵が指した。
柵の内側ではない。
外縁からさらに離れた、小さな高地だった。採石跡の窪みを背にし、北と西を見渡せる。砲撃を受ければ目立つ。観測には向く。逃げ道は二本。
「近いですね」
通信兵が言った。
「命令範囲ですから」
「感想になっていません」
「遠い方がよかったです」
「それなら感想です」
僕たちは丘へ上がった。
工兵が杭を打つ。
通信班が導線を延ばす。
救護班は採石跡の陰へ天幕を置いた。炊事班は風下を避け、水桶を並べる。予備弾薬は指揮所から離し、土を掘って半分沈めた。
「地図台はここでいいですか」
通信兵が聞いた。
「入口から一番遠い場所へ」
「少将用の席は」
「地図台の横で」
通信兵が入口から地図台までの泥を、長靴の底で均した。
「椅子があります」
「誰の判断ですか」
「師団司令部です」
折り畳み椅子だった。
背もたれがある。
北部第三中継点の弾薬箱より、明らかに椅子らしい。
「立派ですね」
「座りますか」
「荷物を置きましょう」
通信兵は地図箱を椅子へ載せようとしたが、途中で止めた。
「少将殿」
「はい」
「座ってください」
「設営が終わったら」
「終わるまで立つ人のために、椅子を運んだわけではありません」
通信兵が椅子を開いた。
僕は座った。
座面が乾いている。
泥のついた外套で座ると、布へ自分の形だけが残った。
「どうですか」
「偉くなった気がします」
「本当ですか」
「椅子の分だけ」
通信兵は地図台へ布をかけた。
布の四隅を紐で留め、中央へ北部第三戦域の地図を広げる。
北部第三中継点。ゴルペホ橋梁線。旧採石道。
魔力溜まり外縁。
昨日まで紙の端にあった場所が、今日は中央にある。
「警戒線、三重で置きます」
僕は地図に指を置いた。
「第一線は柵の外、六名。魔物への警戒。第二線は旧採石道側、四名。敵斥候への警戒。第三線は指揮所周囲、三名。夜間は二時間交代です」
「少将殿もですか」
「僕は交代表を作ります」
「質問の答えになっていません」
「設営が終わってから相談しましょう」
「その『相談』、いつも少将殿の中で終わっています」
通信兵が言った。
「終わっていません。返事をしていないだけです」
「同じことです。経路も、警戒線も、損耗表も、全部少将殿が最後に決めています。誰かに投げても、戻ってくるのはいつも少将殿の判断です」
「誰かに投げると、遅れます」
「遅れても、誰かが倒れるよりましです」
通信兵は交代表の用紙を見せた。
「これも、結局は少将殿が名前を埋めています」
「今のところは」
「今のところが、何日続くつもりですか」
僕は答えられなかった。
外から、炊事班の声が飛んだ。
「鍋、置けます!」
僕は地図台から顔を上げた。
「反乱は避けられそうですね」
「その話、まだ続いていたんですか」
「重要案件です」
通信兵は諦めたように、手の中の交代表へ視線を戻した。
✶
夕食は豆の煮込みだった。
肉は少ない。
塩も少ない。
朝に救出した炊事車の鍋から、全員へ同じ湯気が配られた。
僕は工兵の隣で食べた。
測量杭を持っていた人だ。手袋を外すと、親指の爪が割れていた。橋で杭を打った時に傷めたらしい。
「橋、明日の朝まで持ちますか」
「持たせます」
「明後日は」
工兵が橋梁図の翌日欄へ、木材と鉄帯の数を書き込んだ。
「明日、直します」
「正しい答えですね」
「先のことを聞く人は、だいたい今日の人手を増やしてくれません」
天幕の外で、橋梁用の槌が一度鳴った。工兵はその音を数えていた。
「二人、増やします」
工兵が匙を止めた。
「本当に?」
「橋が落ちるより安いです」
「少将は話が早い」
「人手を出す時だけ好かれます」
「十分でしょう」
工兵は豆を口へ運んだ。
僕も食べる。
温かい。
朝の乾燥果実より味が薄い。でも、塩が少ないなりに、豆の甘さが残っている。
炊事車を置いてこなくてよかった。そう思える程度には、味がした。食後、各班を回った。
救護天幕の寝台は十二。空きは十二。通信線は二系統。
一系統は旧採石道へ戻り、もう一系統は北の観測所へ伸びる。
予備弾薬は湿気対策が終わっていない。機構衝撃兵は一機が外周警戒、もう一機は関節部の整備中。アルゴは二両とも泥を落とし、明朝の輸送へ回せる。
中央車列には、北部第三中継点で補充された人員が四人いた。名簿には動員二期の印がつき、生年の欄の幅が広い。一番若い操縦助手は、手綱より先に鍬の持ち方が出る手をしていた。訓練弾の割当は、一人三発。僕たちが最初の日に撃った数と同じで、意味はまるで違う。
死者なし。負傷者なし。橋梁通過時の遅延、二十七分。
炊事車救出時の遅延、十四分。設営完了、予定より四十一分遅れ。数字は合う。
全て足せば、四十一分になる。僕は報告書へ署名した。臨時少将、羽黒承。
書いた文字が、自分の名前より少し長く見えた。
✶
深夜、指揮所の灯りを一つ消した。外では、鈴が風に鳴っている。魔物ではない。
一定の間隔で、細く鳴る。机には夕食の椀が残っていた。
半分ほど食べたところで、通信が入り、そのまま冷めた。表面の脂は白く固まり、豆が底へ沈んでいる。
匙を入れれば、まだ食べられる。それをせず、僕は損耗表を開いた。
炊事車と救護車は損傷なし。通信車は右側板に擦過、アルゴ一号は牽引索摩耗。橋梁鉄板一枚が変形し、補強杭三本と設営用杭四十二本を使った。予備は十八本。
最後の行は、死者なし。
合計を二度出しても同じだった。紙を裏返し、先行班、中央車列、後続、橋梁補修へ残した工兵、外周警戒、仮眠中の順に移動人員を数える。
全員いる。人数も合う。
それでも、もう一度数えた。
死者なしと書いた行から、指を離せなかった。
椀へ匙を入れた。
白く固まった脂が割れ、底の豆が一つ浮いた。
口へ運ぶと、冷えた煮汁には塩気がほとんどなく、豆の形だけが舌に残った。
僕は椀を机の端へ戻した。
損耗表の合計を、もう一度書いた。
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