ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《王録》 十章 二節
『動かぬ台の上に数多の死が積み重なる』
2378- 魔力溜まり外縁作戦準備区域 羽黒承視点
朝、机の左脚が沈んでいた。
地面が柔らかい。
昨夜までは布と板の重さだけだった。夜の間に書類が増え、通信具が増え、油灯が増えた。重くなった側から、土へ入った。
地図台の左端が、指一本分だけ低い。
置いた鉛筆が転がる。
戦果表を横切り、救護要請の上で止まった。
「少将殿の机が傾いています」
通信兵が入口で言った。
今朝は髪の右側だけ少し濡れている。顔を洗った後、呼び出されたのだろう。水筒の革紐は直っていた。
「人事でしょうか」
「地面です」
「安心しました」
「安心するところですか」
「人事よりは、工兵で直せます」
机の下へ木片を入れた。
一枚では足りない。
二枚目を重ねると、今度は右へ傾いた。
「難しいですね」
「少将の机ですから」
「階級で水平が変わるんですか」
「書類が増えると変わります」
通信兵は鉛筆を机の中央へ置いた。
今度は動かなかった。
「直りました」
「工兵を呼ばずに済みましたね」
「人事も不要です」
「それは本当に安心しました」
入口の外に、三人並んでいた。橋梁補修の工兵。救護班の下士官。
予備弾薬を管理する兵。全員、紙を持っている。僕が机を直す間、待っていたらしい。
「すみません。机との交渉が長引きました」
救護班の下士官が紙を持ち上げた。
「こちらは負けそうです」
「何にですか」
「寝台です。昼までに負傷者が八名来ます」
昨夜、空きは十二だった。
八名なら入る。
入るだけなら。
「状態は」
「歩行可能三。担架四。術式熱傷一。熱傷は隔離したいです」
「寝台を二つ離してください。歩行可能者は天幕内へ入れず、採石跡の風が当たらない場所へ。毛布と温水を先に」
救護兵が空いた寝台へ毛布を投げ、二つ分の間隔を作った。
「治癒術者は一人です」
「熱傷を優先。歩行可能者は救護兵で処置してください。担架四名のうち、出血が続く人は」
「二名」
「そこまでで寝台六。残り六です」
救護班の下士官が紙へ書き込む。
鉛筆の先が丸い。文字が少し太くなった。
「次です」
橋梁補修の工兵は、昨日と同じ割れた爪をしていた。包帯は巻かれていない。石灰の白さだけが、爪の端に残っている。
「橋脚の東側が削られています。補強材が足りません」
「昨日、人を二人増やしました」
「人が橋脚にはなってくれません」
「それは困ります」
工兵は橋脚の断面図へ炭筆で横線を引いた。要求量との差が、そのまま空白で残る。
「木材十二本。鉄帯四。杭はあるだけ」
「木材八、鉄帯二」
工兵の炭筆が、そこで止まった。
「落ちます」
「いつ」
「大雨が来たら」
天幕の外を見る。
雲は低い。
雨の匂いはまだない。
「今日中は」
「通せます」
「木材八、鉄帯二を先に。残りは北部第三中継点へ要求します。橋脚用の杭は指揮所から六本出してください」
「設営用ですよ」
「指揮所より橋の方が、よく動きます」
工兵は机の脚を見た。
「こちらも動いたと聞きました」
「もう直しました」
「残念です」
「直す気でしたか」
「工兵なので」
救護班の下士官が、太い鉛筆で笑いを隠した。
最後に弾薬管理の兵が紙を出す。
「十ミリ重機関銃弾、予定より六箱少ないです」
「理由は」
「北部第三中継点で二箱、旧採石道で四箱止められています。後送の空箱と積載が競合しました」
輸送兵が荷札を裏返した。往路と復路の重量が、同じ荷台へ書かれている。
「空箱を降ろしましたか」
「いいえ」
「ありがとうございます」
兵が少し顎を引いた。
「弾薬を優先しろと言われると思いました」
「空箱を捨てると、明日の弾薬が戻りません」
輸送兵は空箱の欄へ、返送の印を押した。
「では、今日の六箱は」
「機構衝撃兵の予備を二箱だけ借ります。残り四箱は午後便。借りた分は戦闘用ではなく、外周警戒用として封を分けてください」
「敵が来た場合は」
「封を開けます。その時は僕が署名します」
三枚の紙が机に並んだ。救護。橋。
弾薬。救護へ寝台を渡せば、橋の補修人員が減る。橋へ木材を渡せば、弾薬車の積載が減る。
弾薬を遅らせれば、外周警戒の誰かが少ない箱で立つ。
僕は一枚ずつ処理した。
最後の紙を閉じても、机の左脚は沈まなかった。
✶
昼前、北の観測線から二人戻った。
先に入ってきたのは、井上希望だった。
眼鏡の右側だけ泥が跳ねている。拭こうとした跡があり、泥が薄く広がっていた。背負った小銃の銃床には白い布が巻かれ、外套の裾は膝まで濡れている。
その後ろから沢渡澄人が入った。
地図板を胸の前に抱えている。板の角に新しい傷があり、赤い紐が一本、泥で茶色くなっていた。
「戻りました」
希望さんの声は細い。
でも、外の風に削られた声ではなかった。
「おかえりなさい。先に眼鏡を拭いた方がいいです」
「見えています」
「泥がですか」
「先輩がです」
「それなら大丈夫ですね」
通信兵が乾いた布を渡した。
希望さんは眼鏡を外した。目の周りだけ、風を避けていた跡が白い。
「北観測線、柵の外側に魔物の足跡が十一。全部、小型です。新しいものは三。人の足跡が二組あります」
沢渡さんが地図板を机へ置いた。北斜面。柵。
灰色の岩場。
二本の赤い紐が、柵に沿って西へ伸びている。
「帝国側ですか」
「分かりません」
希望さんは眼鏡を拭きながら答えた。
「靴底は軍靴みたいでした。でも、歩幅が揃っていません。片方は何度も止まっています」
「何を見ていました」
「柵の鈴と、導線の杭。それから、指揮所の丘」
「こちらは見つかっていますね」
「たぶん」
希望さんが眼鏡をかけ直す。
泥は少し残った。
「少し前も見ました。二人とも柵へ入っていません。西へ戻っています」
希望さんが拾った少し前の視界へ、僕の数字が重なる。そこへ沢渡さんの足跡と時間を足す。
観測板には、北、西、旧採石道、橋梁補修班の四欄がある。時刻、移動可能円、確度。確度の低い線は白、中は黄、位置と痕跡と数字が合った線だけ赤。今、北西だけが赤へ変わった。
「北観測線を一つ下げます。見つけたことは、相手に見せないでください。鈴も直さない」
「壊されています」
沢渡さんが、泥のついた赤い紐を一本持ち上げた。
「北西の一本だけ。切らずに、杭から外してありました」
「試していますね」
「こちらがいつ直すか」
「はい。直す人を見れば、警戒の交代も分かります」
鈴を壊したのではない。僕たちが異常へ反応する時間を測っている。敵も、こちらの観測網が普通の見張りではないと気づき始めていた。
僕は地図の北西へ印を置いた。
「夕方まで放置。暗くなってから別の杭へ繋いでください。元の杭には触れない。北観測線は二十歩下げて、柵を見ずに西の戻り道を見ます」
「撃ちますか」
希望さんが聞いた。
「見つけただけなら撃ちません」
「指揮所を見ていても」
「見るだけなら」
希望さんは眼鏡の位置を直した。
右のレンズに、薄い泥が残っている。
「分かりました」
「その前に食事を」
「報告が先です」
炊事兵が、湯気の消えかけた椀を机の端へ置いた。
「終わりました」
「まだ、足跡の深さが」
「沢渡さんが地図板に書いています」
沢渡さんは地図板を抱え直した。
「書いています」
「弾薬は」
「希望さん」
「はい」
「食べてください」
言うと、希望さんは机の上を見た。救護要請。橋梁補修。
弾薬割当。
その横に、朝のまま残っている僕の椀がある。
「先輩は」
「食べました」
嘘ではない。
朝、二口は食べた。
「どれくらい」
「少将へ質問する内容ではないですね」
「後輩として聞いています」
「それは権限が強い」
希望さんは待っている。
沢渡さんは地図板の傷へ指を当て、剥がれた木片を押し戻していた。
「あとで食べます」
「今では」
「希望さんが食べた後で」
「では、早く食べます」
希望さんは通信兵から食事札を受け取った。天幕を出る前に、一度だけこちらを見た。僕は机の端にあった椀を持ち上げた。
見せると、希望さんは外へ出た。
椀の中は、朝からほとんど減っていなかった。
✶
後方救護線との通信試験は、午後に行われた。
新しく延ばした導線は、旧採石道の中継具を二つ通る。声は届くが、遅れる。ときどき別の通信が混じり、知らない部隊の弾薬数が会話へ入ってくる。
「外縁指揮所、聞こえますか」
通信兵が送話具へ言った。雑音。荷車の車輪。
誰かが遠くで咳をする音。
『聞こえます。少し小さいです』
後方の通信係が返した。
「こちらは明瞭です。救護記録の受信試験をお願いします」
『受信、八名。歩行可能三、担架四、術式熱傷一』
「一致しています」
通信兵が記録札へ丸をつける。
『それと、患者が一人、話したいと』
「患者名は」
雑音が入り、声が途切れた。
送話具の青い表示が一度消える。
通信兵が導線の接続部を押し込み、魔力片を差し直した。淡い光が戻る。
『――羽黒くん、聞こえる?』
桜華さんの声だった。
以前より息が続いている。
それでも、言葉の後ろに短い間がある。
「聞こえます。通信具を奪いましたか」
『借りたの』
「返す予定は」
『体調次第』
「強いですね」
『不死だからね』
言った後、向こうで誰かが小さく注意した。
桜華さんは咳を一つして、送話具から少し離れた。
『今のは冗談。怒られた』
「こちらにも聞こえました」
『少将になったんだって』
「通信が速いですね」
『救護分室は、怪我と噂が一番先に来るから』
「噂の治療はできますか」
『切る?』
「できれば穏便に」
通信兵は試験記録へ時刻を書いている。
こちらの会話を聞かないふりが、少し上手くなっていた。
『羽黒くん』
「はい」
『ちゃんと寝た?』
「椅子には座りました」
『聞いてない』
「立ち続けてはいません」
『それも聞いてない』
向こうで布が動く音がした。
桜華さんは寝台にいるのだろう。上体を起こしているのかもしれない。見えないので、そこまでは分からない。
「桜華さんは、豆を何粒移せるようになりましたか」
『今日、百三十』
「増えましたね」
『途中で二回落とした』
「それでも百三十です」
『帳簿にしないで』
「気をつけます」
『今、紙を見たでしょ』
鉛筆を取っていた。
百三十。
最初の線を書く前に、指を止めた。
「見ていません」
『嘘』
「通信越しに分かるんですか」
『羽黒くんだから』
声の後ろで、また咳がした。
今度は桜華さんではない。
救護分室には、他の患者もいる。
『戻ったら、ご飯作ってね』
「何がいいですか」
『豆じゃないもの』
「難題ですね」
『少将の権限で何とかして』
「権限の使い道が見つかりました」
桜華さんが笑った。
長くは続かなかった。
でも、途中で咳にはならなかった。
『じゃあ、返す。通信試験の邪魔になるから』
「お大事に」
『羽黒くんも』
後方の通信係へ声が戻った。
救護記録の確認が再開される。
記録札の端には、鉛筆の先でついた黒い点だけが残っていた。
✶
午後の書類は、午前より増えた。北観測線の変更。橋梁補修材の追加要求。
救護車の復路優先。十ミリ重機関銃弾の一時借用。外周警戒班の交代。
後方救護線との通信試験完了。
以前なら、別々の担当者が別々の机で処理していた。
今は、僕の机へ来る。
署名がなければ動かない紙もある。
署名がなくても現場が先に動き、後から責任だけ届く紙もある。
「午後便、到着しました」
通信兵が弾薬受領票を置いた。
「十ミリ、四箱。橋梁用木材四本、鉄帯二。救護用毛布八。食料箱一」
「食料箱の中身は」
「乾燥豆です」
通信兵が封印番号を読み上げ、食料欄へ書き足した。
「桜華さんに知られないようにしましょう」
「なぜですか」
「豆以外を要求されています」
送話具の脇には、桜華さんの伝言札が伏せてある。表には「豆以外」とだけあった。
「少将命令ですか」
「個人的な要望です」
通信兵は食料箱の印を、弾薬より一段下の欄へ置いた。
「優先順位は」
「かなり高いです」
通信兵は受領票の食料欄へ印をつけた。
「では、後方へ送らず保管します」
「豆は送っても怒られます」
「難しいですね」
「少将の仕事らしいです」
外から、希望さんの銃声が一発聞こえた。警報の鈴は鳴っていない。続けて二発。
一定の間隔。試射だ。通信兵が送話具を取る。
『北観測線。照準確認、終了』
希望さんの声が入った。
「弾着は」
『右へ半。泥が銃床へ入っていました。清掃済みです』
「食事は」
通信兵が僕を見た。
送話具の向こうで、沢渡さんが何か言っている。
『食べました』
「どれくらい」
『先輩へ報告する内容ではありません』
「後輩の権限が強い」
『借りました』
通信が切れた。
通信兵は送話具を戻した。
「似てきましたね」
「誰にですか」
「少将殿に」
通信兵は自分の勤務表から、夜番の一枠を消した。
「それは止めた方がいいです」
「命令しますか」
「できれば、命令以外で」
通信兵は次の紙を置いた。
夜間警戒の交代表だった。
僕の名前はない。
「抜けています」
「抜きました」
「誰の権限で」
「救護班、通信班、工兵班の合議です」
三班分の署名が、僕の空欄を囲んでいた。
「反乱では」
「朝、鎮圧したと聞きました」
「あれは炊事車です」
通信兵は交代表の夜半欄を読み上げた。僕の代わりに入る三人の名前だった。
「今度は少将です」
交代表の各欄には、すでに班長の署名がある。
僕の休息時間にも線が引かれ、夜明けまでの欄が塞がれていた。
「休めという命令ですか」
「予定です」
「予定以外では」
「椅子を使ってください」
通信兵は、朝に直した机の左脚を靴先で確かめた。
「机も、明日までは持ちます」
「橋と同じですね」
「橋よりは動きません」
僕は交代表へ署名した。
臨時少将、羽黒承。
✶
仮眠所の寝台は六つ。二つは使用中で、三つは夜間警戒班のために空けてある。残った一つへ外套を脱ぐと、襟の階級章が油灯を反した。
臨時少将、戦域限定。
外すための留め具が硬い。
右はすぐ取れたが、左が引っかかった。爪を入れて布を少し引くと、金具が外れた。
階級章を枕元の箱へ置き、襟を指で押す。金具の跡は布に残っていた。
寝台へ横になった。
外では警戒班が交代している。靴音に鈴が混じり、誰かが小銃の遊底を確かめた。
誰かが僕の代わりに起きている。目を閉じると、北西林の観測手が見えた。顔は見えない。
観測筒を持つ腕だけ。僕が撃った。
その後ろには、希望さんの銃声がある。山崎さんの砲撃がある。僕が前へ出した歩兵と、結界班と、機構衝撃兵がいる。煙の縁だけを見ろと言って、空へ出した航空魔導兵もいる。
敵を殺すために、味方を死ぬ場所へ置く。味方を戻すために、敵が戻れない線を選ぶ。地図では、味方は青、敵は赤だった。
銃口の先では、色が消える。
希望さんに食べてくださいと言った口で、次は撃ってくださいと言う。工兵へ休息を命じても、橋を渡る部隊が増えれば、また冷たい川へ出す。
桜華さんへは、お大事にと言った。通信を切った後、救護車へ積まれる人間を増やす命令を作った。
僕は布団の端を握った。
戻すため。
終わらせるため。
昼には、その二つを前置きにして「撃ってください」と言えた。
指の間で、毛布が細くねじれた。
息を吸っても喉の途中で止まった。もう一度吸うと、今度は胃の奥が持ち上がる。
僕は寝台から降り、水桶の前へ膝をついた。
吐き気は来なかった。
来るはずの場所まで来て、そこで止まった。何も出ないまま、喉の奥だけが乾いた音を立てた。
隣の寝台で、誰かが寝返りを打った。
音を立てないように口を押さえた。
手袋を外した。掌には泥も血もない。それでも水桶の布を取り、指を一本ずつ拭いた。
汚れていないので、布の色は変わらない。
もう一度、親指から拭く。引き金に触れ、地図の上で希望さんを動かし、航空魔導兵を煙の上へ出し、救護車へ積む順番を決めた指だった。
布を替えた。爪の間を拭く。皮膚が赤くなっても、血はつかなかった。
外では、北の鈴が一つ鳴った。警報ではない。
僕が決めた交代表どおり、銃を持った誰かの靴音がそちらへ向かった。
その音が遠ざかるたび、胃の奥がまた縮んだ。
濡れた布が温くなった。
手袋をつける気になれず、寝台へ戻る気にもなれなかった。
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