ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~   作:ハルキーノ

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十章四話 眠らない観測所

《王録》 十章 四節

 

『夜番の灯は、朝の名を知らぬまま燃え続ける』

 

2378- 魔力溜まり外縁作戦準備区域 羽黒承視点

 

 東の道を通った敵兵は、夜明けまでに百人を超えた。

 

 武器を捨てた人。

 

 負傷者を背負った人。

 

 片側の車輪が曲がった救護車を、四人で押す人。

 

 白布の手前で武器を集め、向こう側で水を渡す。

 

 検査。

 

 負傷者の選別。

 

 捕虜札の発行。

 

 東路監視班だけでは足りず、救護班と通信班からも人を出した。

 

「捕虜収容区画、毛布が二十枚足りません」

 

 救護兵が言った。

 

 左袖に乾いた血がついている。本人のものではないらしく、袖を曲げるたびに黒い跡が割れた。

 

「予備寝台の分を十。車両用を六。残り四は指揮所から出します」

 

「指揮所用は八枚しかありません」

 

 補給兵は毛布の束を二つに分け、片方だけを指揮所側へ戻した。

 

「半分残ります」

 

「少将殿の分も含まれています」

 

「僕は外套があります」

 

「昨日、冷却布の前で座り込んでいた人の発言として記録します」

 

 誰が見ていたのだろう。

 

 振り返ると、通信兵が受信札を並べていた。

 

 こちらを見ない。

 

 見ないまま、捕虜数の欄へ新しい数字を書いている。

 

「報告が正確ですね」

 

「観測所ですので」

 

「味方への観測が少し鋭くないですか」

 

「敵味方を区別するなと教わりました」

 

「使い方を間違えています」

 

 救護兵は毛布の受領札を差し出した。

 

「では、指揮所から四枚。少将殿の分には印をつけておきます」

 

「返却予定ですか」

 

「使用禁止の印です」

 

 受領札へ署名した。外では、捕虜の咳が続いている。味方の咳と音は変わらない。

 

 捕虜札だけが違う色をしていた。

 

✶

 

 午前の報告では、敵砲列はまだ沈黙していた。

 

 破壊された砲は三。放棄された砲は二。残り一門は、西へ曳かれた形跡がある。

 

 弾薬車は一台炎上、一台放棄、一台不明。死傷者数は、まだ確定していない。

 

「敵は夜の間に砲兵陣地を捨てています」

 

 希望さんが地図板を置いた。

 

 眼鏡は拭かれていた。

 

 代わりに、右手の手袋へ炭の線が三本ついている。夜の位置を地図へ移す時、鉛筆を握ったまま手袋で線を押さえたらしい。

 

「西へ移動した人員が四組。担架が二。砲を曳いた組が一。残りは東へ」

 

「追撃は」

 

「していません」

 

「ありがとうございます」

 

「命令どおりです」

 

 希望さんは北観測線の交代表を開いた。

 

「今日の夜番、先輩の名前があります」

 

「追加しました」

 

「誰が」

 

「臨時少将です」

 

 希望さんは交代表の僕の名前へ太い鉛筆を置いた。芯が紙に黒い点を作る。

 

「昨日、休息予定に署名しました」

 

「昨日の予定です」

 

 彼女は昨日の休息欄と今日の夜番欄を並べ、鉛筆の腹で二つをつないだ。

 

「今日は」

 

「観測所の記録を確認します。敵が東路から斥候を戻す可能性があります」

 

 希望さんは交代表を持ったまま、通信兵を見た。

 

 通信兵は送話具の接続を確かめている。

 

 救護兵は毛布を運び終え、もう天幕にいない。

 

 助けを求める相手を失った希望さんが、こちらへ戻った。

 

「私が残ります」

 

「昨夜も観測しています」

 

 希望さんの左側の寝癖は、まだ直っていなかった。休んだ時間の短さだけは見える。

 

「先輩も寝ていません」

 

「横にはなりました」

 

 希望さんは僕の前から朝の椀を取り上げた。豆の煮込みは半分残っている。

 

「寝ましたか」

 

「寝台の性能は確認しました」

 

「寝ましたか」

 

 同じ質問が戻ってきた。

 

 机の上には、朝の椀がある。

 

 豆の煮込みは半分残っている。

 

「希望さん」

 

「はい」

 

 希望さんは鉛筆を持ったまま、交代表の空いている昼欄を待っている。

 

「昼まで休んでください。午後に東路の捕虜記録と過去位置を照合します。夜は沢渡さんと交代。北観測線は二人ずつ」

 

「先輩は」

 

 希望さんは昼欄に自分の名を書かず、鉛筆を僕へ渡した。

 

「最初の二時間だけです」

 

「二時間で戻りますか」

 

「観測所に机は一つです。書類を増やせないので戻ります」

 

「持ち込みますよね」

 

「僕への理解が深い」

 

 希望さんは交代表の僕の欄へ、太い線を引いた。

 

 二時間。

 

 その横に、戻る、と書いた。

 

「命令ですか」

 

「後輩の権限です」

 

「強いですね」

 

「昨日から借りています」

 

 交代表を返された。

 

 炭の線が、僕の名前の横にも薄くついた。

 

✶

 

 北観測所は、指揮所から歩いて十五分ほどの場所にある。

 

 土を掘り下げ、木板で壁を作った半地下式。

 

 外から見えるのは、観測窓と低い屋根だけだ。

 

 中には机が一つ。椅子が二つ。観測筒。

 

 送話具。魔導灯。

 

 壁の釘には、古い通信記録を束ねた紐が掛かっていた。

 

「零時までです」

 

 夜番の通信兵が言った。

 

 昼間とは別の兵だった。

 

 右耳へ当てた受話具の革が裂け、糸で縫ってある。耳から外しても、頬に四角い跡が残っていた。

 

「交代が来なければ、こちらから呼んでください」

 

「少将殿が戻らない場合は」

 

 通信兵が観測所へ運ぶ折り畳み椅子を閉じ、重さを確かめた。

 

「椅子ごと運びます」

 

「重いですよ」

 

「椅子がですか」

 

「書類が」

 

 机には、過去の通信記録が六束あった。水車小屋線。旧水路。

 

 北東丘。第三中継点。

 

 今の北観測線と地形が似ている記録だけを集めてある。

 

「否定できませんね」

 

「零時です」

 

「はい」

 

 通信兵が観測所を出た。

 

 階段を上がる靴音が止まり、木の蓋が閉じる。

 

 一人になった。

 

✶

 

 二十三時二十分。北観測線、異常なし。東路、捕虜通過六。

 

 西の旧砲列、灯火なし。現在の報告を一枚目へ書く。次に、過去の記録を開く。

 

 水車小屋線。青杭四番。偽標識。

 

 人は二十歩以内に残らない。

 

 以前の僕が出した命令が、別の書記の字で残っている。

 

 通信兵の復唱。

 

 着信時刻。

 

 終了符号。

 

 書かれた言葉は、今も同じ順番で並んでいた。

 

 送話具が短く鳴った。

 

『北観測線、異常なし』

 

「了解。東路は」

 

『東路監視、通過二。武器なし。負傷者一』

 

「収容区画へ。急がせないでください」

 

『復唱。通過二、負傷者一。急がせない』

 

「はい」

 

 終了符号。灯りが一度弱くなる。魔力片を押し込むと、白い光が戻った。

 

 二十三時三十七分。旧水路の記録。声なし。

 

 鈴三。担架班。

 

 誰かを戻すために、誰かへ声を出さないよう命じている。

 

 日付は二年前。紙の端が湿気で波打っていた。現在の記録へ戻る。東路、通過二。負傷者一。急がせない。

 

 文字が少し右へ傾いている。書き直す。東路、通過二。負傷者一。急がせない。同じ傾きになった。

 

 送話具の奥で、細い雑音が続く。風が導線を揺らしている。ときどき、離れた通信が混じる。車両番号。弾薬箱。橋の通過。誰かの咳。

 

 言葉にならない音が、受話管の底で重なっていた。

 

 数字も同じだった。北の柵、東路の捕虜、二年前の水車小屋線――古い記録の数と、今の観測が同じ場所に浮かぶ。どちらが今かは、書いてみるまで分からなかった。

 

✶

 

 零時を過ぎても、交代は来なかった。

 

 時計の長針は、十二を少し越えている。

 

 僕は送話具を取った。

 

「北観測所。交代予定を確認してください」

 

 雑音。返事はない。終了符号も来ない。

 

 導線の表示は青い。繋がっている。

 

「外縁指揮所、聞こえますか」

 

 受話管の向こうで、紙をめくる音がした。自分の手元だった。旧記録の紐が机の角へ引っかかっている。

 

 外す。水車小屋線の紙が開いた。古杭一本、六番後方。

 

 人は二十歩以内に残らない。その下に、復唱の文字がある。

 

『古杭一本、六番後方。人は二十歩以内に残らない』

 

「はい」

 

 返事をしてから、送話具を見た。青い表示は消えていた。終了符号も鳴っていない。

 

 受話管を耳へ押し当てる。何も聞こえない。魔導灯の火が、小さく鳴った。

 

 机の上には、僕しかいない。椅子は二つある。向かいの椅子は、壁へ寄せたままだった。

 

「復唱済みです」

 

 声が出た。

 

 自分の声だった。

 

「ありがとうございます」

 

 続けていた。

 

 喉の奥が乾いた。

 

 受話管を置く。

 

 置いた場所が分からなくなり、もう一度持ち上げた。

 

 右。左。送話具の台は右にある。

 

 戻す。木の蓋が開いた。

 

 冷たい風が階段から入り、机の紙を持ち上げた。

 

「先輩」

 

 希望さんが降りてきた。

 

 外套の前を閉じていない。急いで来たらしく、眼鏡が曇っている。

 

「お疲れさまです」

 

 声は普通に出た。

 

「交代時刻を過ぎています」

 

「通信が切れていました」

 

「呼びました」

 

「聞こえませんでした」

 

 希望さんは送話具の表示を確かめた。

 

 魔力片を抜き、端を布で拭く。

 

 青い光が戻った。

 

『北観測所、応答してください』

 

 指揮所からの声が入る。

 

 希望さんが送話具を取った。

 

「北観測所。交代到着。異常ありません」

 

 異常ありません。

 

 その復唱を待つ前に、僕は過去記録を束ねた。

 

「二時間で戻る約束でしたね」

 

「三十分過ぎています」

 

「観測所の時計が遅いようです」

 

 希望さんは壁の時計と、自分の携帯時計を並べた。

 

 針は同じ位置にある。

 

「時計は合っています」

 

「では、僕が遅いですね」

 

「知っています」

 

 希望さんは向かいの椅子を引いた。

 

 座面に埃が残っている。

 

「記録は私が持ちます」

 

「重いですよ」

 

「書類がですか」

 

「今日は、僕かもしれません」

 

 希望さんは答えず、六束を腕へ抱えた。階段へ向かう。僕も立った。

 

 足が椅子の脚へ当たった。木が床を擦る。

 

「大丈夫ですか」

 

「椅子が強いですね」

 

「敵より」

 

「昨日から連勝しています」

 

 希望さんが先に階段を上がった。僕は現在の記録を閉じた。最後の行に、了解、と書かれている。

 

 報告内容は空欄だった。文字は、僕の筆跡だった。その紙だけを裏返し、魔導灯を消した。

 

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