ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《王録》 十章 八節
『空の匙を重ねても、飢えの深さには届かぬ』
2378- 魔力溜まり外縁作戦準備区域 羽黒承視点
桜華さんは、救護車で来た。
前線復帰ではない。
後方救護線の記録を、外縁指揮所へ移すための同行だった。
車両から降りる時、救護兵が踏み台を置いた。
桜華さんは先に右足を下ろし、車体の取っ手を掴む。
左足が地面へつくまで、一拍かかった。
「お迎えが少将」
「逃げられないように見張っています」
「病人に厳しい」
「回復中です」
「言い換えた」
「あの薬、まだ効いてるみたいです」
僕が言うと、桜華さんは少し驚いた顔をした。
「エリカさんが迷宮で拾った、鑑定名のない薬ですか」
「はい」
「軍医さんも、あれが何だったのか、結局分からずじまいだって言ってました。ただ、普通の傷薬より、戻りが早いみたいで」
「鑑定、まだ終わらないんですか」
「聖別水の出来損ないか、古い回復薬か。どちらでもいいかな、って最近は思ってます。戻ってきてるので」
桜華さんは外套の前を閉じた。
以前より顔色は戻っている。
袖から出た手首はまだ細い。
「歩けますか」
「踏み台一段で聞く?」
「二段目からは救護兵に聞きます」
「じゃあ歩ける」
救護兵が後ろから記録箱を下ろした。
桜華さんが手を伸ばす。
「それは僕が持ちます」
「記録係なんだけど」
「中身を読んでください。箱は僕の仕事です」
「少将の仕事、広いね」
「戦域限定です」
希望さんが指揮天幕から出てきた。
眼鏡の左側へ、地図用の白い粉がついている。
「高橋先輩」
「希望ちゃん。久しぶり」
「七日です」
「戦場の七日は長いの」
希望さんは桜華さんの足元を見た。踏み台。救護兵。
空いた手。
「食事が先です」
「再会の次がそれ?」
「羽黒先輩に教わりました」
「悪い教育だ」
「良い教育ですよ」
僕が記録箱を持ち上げると、桜華さんが箱の端へ手を添えた。
力はほとんど入っていない。
添えたまま、炊事天幕まで歩いた。
✶
昼食は、豆と芋の煮込みだった。薄い塩味。乾燥香草が少し。
パンは硬い。炊事兵が四人分を机へ置いた。僕。
桜華さん。希望さん。夜番明けの通信兵。
通信兵は座ったまま、椀の湯気へ顔を近づけている。
右耳に送話具の跡が赤く残っていた。
「眠る前に食べてください」
「少将殿もです」
「もちろん」
希望さんが僕の椀を見た。
まだ一口も減っていない。
「もちろん、これからです」
「便利な言葉」
桜華さんが匙を持つ。指先が少し揺れ、椀の縁へ当たった。軽い音。
誰もそちらを見続けなかった。
「味、薄くない?」
桜華さんが煮込みを一口食べた。
「塩は規定量です」
炊事兵が離れた場所から答えた。
「聞こえてた」
「炊事への苦情はよく通ります」
僕も口へ運ぶ。豆。芋。
香草。塩は少ない。味は分かる。
「少し薄いですね」
「少将殿」
炊事兵の声が飛んだ。
「健康的です」
言い直すと、通信兵が椀へ顔を伏せた。
咳ではない。
桜華さんはパンをちぎろうとして、両手を使った。
硬い表皮が割れない。
僕が受け取る。
「小さくします」
「子供扱い」
「パンが敵です」
「敵なら自分で倒したい」
「現在、交戦許可がありません」
パンを四つへ割る。
一つを桜華さんの皿へ戻した。
「許可制なの」
「鑑定班より厳しいです」
「羽黒くんにも必要じゃない?」
希望さんが匙を止めた。
通信兵は何も聞こえなかった顔で、煮込みを食べている。
見なくても、みんなの数字は勝手に浮かぶ。桜華さんの、細いままの `生命`。希望さんの、疲労の色。見たいわけじゃないのに、頭の隅から追い出せない。
「僕には、すでに二人の承認者がいます」
「山崎くんと希望ちゃん?」
「はい」
「足りないね」
「増員は予算外です」
桜華さんは割ったパンを煮込みへ浸した。
柔らかくなるまで待つ。
「じゃあ、食事だけ」
「何がですか」
「私も承認者」
桜華さんが僕の椀を匙で示した。
「半分までは食べて」
「回復中の人に監督されるんですか」
「回復してるからね」
希望さんが自分の椀を机の中央へ少し寄せた。
「私も確認します」
「後輩の権限が強い」
「先輩が弱いので」
通信兵が食べ終えた。
椀の底まできれいだった。
「通信兵さんは味方ですよね」
「眠いので、どちらでもありません」
「中立は認めません」
「では、食べた側です」
三対一になった。仕方なく、匙を動かす。豆を一つ。
芋を半分。煮汁。温かい。
塩が少ない。香草の茎が舌へ残る。全部分かる。
喉を通る時だけ、椀の中身より重かった。
✶
食事の途中で、東路から通信が入った。敵斥候一組。投降路の外側。
こちらを観測し、北へ下がった。通信兵が立ち上がる。僕も椅子を引いた。
「希望さん、過去位置と照合してください。撃たなくていいです。追跡は観測だけ」
「はい」
「通信兵さんは夜番明けです。送話だけ渡して、寝てください」
「しかし」
「食べた側の義務です」
通信兵は送話具を希望さんへ渡した。
耳の赤い跡を指で押さえながら、炊事天幕を出る。
「桜華さんは」
「食べる」
「良い判断です」
桜華さんはパンを煮込みに沈めたまま、記録箱を足元へ寄せた。
「記録箱も見る」
「食べた後で」
匙を持つ手が箱の留め具へ伸び、希望さんに軽く叩かれた。
「少将権限?」
「食卓限定です」
希望さんが地図を広げる。僕は東路の現在位置を確認した。斥候は二名。
敵意表示は薄い。武器は持っている。こちらへ近づいてはいない。
撃たない。追わない。観測線だけをずらす。
「北観測線を三十歩下げてください。姿を見せず、帰路だけ記録。東路の投降標識は残します」
希望さんが送話具へ復唱した。返事が来る。了解。
敵斥候は北へ消えた。交戦なし。死傷者なし。
「終わりですか」
桜華さんが聞いた。
「終わりです」
「早い」
「食事中なので」
桜華さんは止めていた匙を、煮込みへ戻した。
「毎回ご飯の時間に攻めてきてもらおう」
「敵へ時刻表を送りますか」
「食後は駄目って書いて」
希望さんが地図を畳んだ。
「食後も駄目です」
「希望ちゃん、厳しくなった」
「先輩方の影響です」
机へ戻る。
僕の椀は、半分まで減っていた。
桜華さんの椀には、煮汁と芋が少し残っている。
「半分」
桜華さんが言った。
「達成しました」
「私は残す」
桜華さんの椀には、芋が一つだけ残っている。
「構いません」
「羽黒くんは構うでしょう」
「回復中なので」
「便利な言葉」
桜華さんは匙を置いた。指先の揺れは、最初より小さい。希望さんが記録箱を開く。
昼食は、そこで終わった。
✶
午後、桜華さんは救護車で後方へ戻った。記録箱だけが指揮所へ残る。希望さんは北観測線。
通信兵は仮眠。
炊事兵が食器を回収しに来た時、僕は会議中だと伝えた。
会議は終わっていた。
天幕に一人になると、机には椀が二つ残っていた。半分まで食べた僕のものと、煮汁と芋が少し残った桜華さんのもの。どちらも同じ木製で、縁の欠け方も近い。
僕は手前の椀を持ち上げた。冷めた表面に、薄い脂が浮いていた。桜華さんの残した椀だと思った。
匙を入れる。底から、香草の茎が出てきた。昼、僕の舌に残ったものと同じ長さだった。
椀を戻してもう一つを持つと、芋が一切れ残っていた。
桜華さんは、最後に芋を残していた。
こちらが桜華さんの椀なら、最初の方が僕の椀だ。分かっている。天幕の外、十歩もない場所に残飯桶がある。
僕の椀を持つと、桜華さんの椀だけが机へ残った。手にした方を戻す。
二つ重ねようとした。上の椀が滑った。煮汁が机へこぼれる。
布で机を拭くと、香草の匂いが広がった。
味は分かる。薄かった。それでも桜華さんは食べ、僕も半分は食べた。残りはどちらも同じ桶へ入る。
手が動かなかった。
左手の奥に、`魂` と `意思` が浮く。
線は椀にも食べ残しにも伸びていない。何も起きていない。
僕は椅子へ座った。
二つの椀を机の左右へ離し、右を僕、左を桜華さんのものと決めた。
しばらくして、どちらを右へ置いたか分からなくなった。
炊事兵が天幕の外を通った。声をかければ、片づけてくれる。呼び止めなかった。
椀の底で、冷えた芋が煮汁を吸っていた。
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