ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《王録》 十章 十二節
『帰りし者を数える帳ほど、帰らぬ者の余白が深い』
2378- 魔力溜まり外縁中央低地 羽黒承視点
低地全体が、朝から鳴りどおしだった。北の壕線で砲声が連続し、間を縫うように味方の榴弾が敵陣へ落ちる。土煙の柱が、風向きを変えるたび形を崩した。
敵車両は、煙幕を抜けたところで止まった。
先頭の左履帯が外れた。
砲弾ではない。
工兵が夜のうちに掘った浅い溝へ、傷んだ側だけが落ちた。後続の二両目、三両目が速度を落とさず迫り、止まった一両目の脇を回り込もうとする。土の柔らかい場所を選んだつもりが、そこも工兵が均していた場所だった。
「対車両班、先頭の砲塔だけ。二両目は撃たないでください」
発射。結界が白く歪み、砲塔基部の継ぎ目から火花が散った。砲塔が横を向いた。装甲を抜いたわけではない。旋回機構だけが、二度と正面を向けなくなった。
撃破ではない。前方へ撃てなくなった。味方歩兵が右側の壕へ進む。
結界班が六秒ごとに面を替える。
後ろでは、補給兵が弾薬箱を一つずつ開けている。
「北歩兵、下がります」
希望さんの声が送話具から来る。遠くで、北壕の機銃が連続して鳴っていた。押し返された敵の一群が、壕の縁で折り重なって動かなくなる。
「東へ誘導。西へ寄る部隊だけ煙幕で切ってください」
「敵中央の濃い反応が動きました」
「方向は」
「こちらです」
転移者らしい反応が、低地を横切る。
まだ遠い。
速い。
「山崎さん、中央手前へ一発。直撃させないでください」
「嫌な注文だな」
「得意でしょう」
「褒めても弾は増えない」
榴弾が低地の手前へ落ちた。土壁が立つ。濃い反応が横へ逸れた。
その間に味方の負傷者を二人引く。一人は脚。一人は肩。
救護兵が担架を低く運ぶ。
「戻してください」
味方歩兵が射線を張る。
敵が顔を上げられない三十秒で、担架が結界の後ろへ入った。
補給車が前へ出る。空箱を積み、負傷者を乗せて戻る。行きと帰りで荷が違う。
同じ道を空にしない。補給車の車輪が、壕の角で滑った。工兵が二人、板を差し込む。
運転手は降りない。
後ろの弾薬箱には、砲弾と小銃弾が混じっている。順番を変える時間がない。補給兵が荷台へ乗り、必要な箱だけを前へ寄せた。
「小銃弾、右壕へ二箱」
「結界具の冷却液は」
補給兵が空瓶を持ち上げ、底に残った一滴を揺らした。
「次便です」
「今の班は残り一瓶」
「山崎さん」
「砲兵から一瓶回す。こっちは面を張らない」
砲兵用の魔導冷却液が、歩兵結界班へ渡る。
砲側では装填手が水で手袋を冷やしている。
足りないものを、別の足りない場所から動かす。
「西の敵砲、再使用の兆候」
希望さんの報告が入った。
「修理中だった一門です。砲側に六名」
中央の負傷者を戻す道と、西砲の射線が重なる。
山崎さんの砲隊は、中央の濃い反応を抑えるため照準を移したばかりだった。
「対砲撃、間に合うか」
「砲を戻せば、中央が出ます」
ルセリナが地図の二点を押さえる。西を止めれば中央が動く。中央を止めれば西が撃つ。
味方の担架は、その間にいる。
「昔の水路が使えます」
ミネナが地図の端、印のない場所を指した。
「担架なら通ります。狭いので車両は無理です」
ルセリナが顔を上げた。
「記録にありません」
「記録にないから、敵も知りません」
「担架を守ることを優先してください。方法はお任せします」
ルセリナは一拍だけ僕を見て、それから地図へ視線を戻した。
「では、砲は中央を継続。西砲は観測手を抑えます。小銃では届きませんので、煙幕二発。風上へずらして、砲そのものではなく観測線を切ります」
「それで」
「はい」
「進めてください」
山崎さんが照準手の背を叩いた。
「聞いたな。弾を外せってよ」
「煙を置く場所です」
「外した方が近い」
二発が西砲の手前へ落ちた。
煙は風に押され、砲と前方観測位置の間へ流れる。
敵砲口が上がった。撃った。着弾は味方壕の後方。
補給車の二十歩先。土塊が荷台へ降る。
運転手は伏せたまま、変速桿へ手を伸ばした。
「進めますか」
「車輪が戻れば」
工兵が板を蹴り込む。
補給車が動いた。
敵砲の次弾より先に、壕の陰へ入る。
「西砲、観測不良」
「そのまま煙を維持。撃破は後です」
敵砲は残った。補給車も残った。残すために砲弾を使う。
山崎さんの表では、煙幕二発消費。救護表では、後送二名。戦果表には何も増えない。
「少将殿、北壕を取りました」
「保持しなくていいです。東路が見える位置まで。敵が下がれば追わない」
「了解」
敵歩兵が壕を出る。武器を捨てる者。持ったまま西へ走る者。
伏せたまま動かない者。こちらは撃てる。撃たない場所を選ぶ。
撃つ場所も選ぶ。
「西から機銃」
「結界班、右。小銃班は射手の周囲へ。殺傷確認は後です」
銃声。敵機銃が止まる。味方歩兵がまた進む。
車両一両を止めた。壕を一つ。負傷者二人を戻した。
敵兵二十七名が東路へ出た。中央低地は、こちらの観測下に入った。
「英雄だな、少将殿」
帰ってきた歩兵が言った。
頬に泥がつき、銃帯が片方へずれている。
「工兵と砲兵……あと、救護兵にも分けてください」
「分けても余ります」
「では補給兵へ」
兵は笑った。僕も笑った。その後ろを、敵負傷者の担架が通った。
担架の布から血が落ちていた。笑った兵が道を空ける。敵負傷者の片手が垂れ、指先が泥を掠めた。
味方救護兵が立ち止まらず、その手を布の上へ戻した。
「敵ですけど」
歩兵が言った。
「重いものは、持ちやすい位置へ戻します」
救護兵はそれだけ答えた。
英雄という言葉は、もう聞こえなかった。
✶
夜、戦果報告には僕の名前が三度あった。中央低地攻略指揮。敵機甲前進阻止。
味方負傷者後送成功。紙を裏返す。敵死者。
砲兵二。機銃手一。歩兵、確認中。
味方死者。一。
名前の欄には、昼に右壕へ小銃弾を運んだ兵の識別番号があった。
顔は覚えていない。弾薬箱を受け取った手だけを見た。手袋の親指が破れていた。
その手で、箱を二つ受け取った。不足はないと報告した。報告から一時間後、西砲の外れ弾で死んだ。
僕は煙幕で観測を切った。着弾をずらした。ずれた場所に、その兵がいた。
戻した人数より、欄は短い。短い欄を先に読んだ。左手の `魂` が濃くなる。
表には英雄。裏には死者。表へ戻す。
味方負傷者後送成功。もう一度、裏へ返す。味方死者一。
紙を返すたび、左手の線が同じ場所を往復した。
名前ではなく番号で覚えている自分に、今更驚かなくなっていた。多すぎて、名前の方が先に消えていく。
戻した。戻せなかった。戻した兵が次に撃った。
撃たれた敵を救護兵が戻した。どこまでが僕の戦果なのか。どこからが僕の死者なのか。
紙を伏せても、二つは重なったままだった。
✶
昼間、兵が笑った。僕も笑った。
あれは本当だ。壕を取った。車両を止めた。負傷者、二人。頑張った。みんなも、僕も。
でも。
いつもの場所が、いつものように締まった。何度目かは、もう数えていない。数えなくても、体が先に覚えている。
撃たなかった弾の欄まで作り、それを立派な仕事みたいに扱っている。
戦争だから、という言葉にも、もう驚かない。前は吐き気がした。今日は、吐き気が来る前に、指が先に口を覆っていた。
慣れた、というのとは違う。
むしろ、それが一番怖かった。
昼に笑った兵の顔を思い出す。あの人も、向こう側で誰かを撃っている。撃たれた側にも、笑う夜があるのかもしれない。想像しても、前ほど胸が動かない。
動かないことが、醜い。
煙幕も、砲声も。担架の順番まで。作ったのは僕だ。同じことを、あちらもこちらもしている。分かっていて、まだ止めようとしている。
こんなやり方で。
悍ましい、憎い、醜い――そう並べる自分にも、もう驚けなくなっている。
僕でなければ、と思っていた理由を、今日はうまく思い出せなかった。
思い出せないまま、次の紙へ手が伸びる。
こうやって、少しずつ何も感じなくなっていくのかもしれない。理由を忘れたまま。
必要とされる理由を考えるより先に、次の紙へ手が伸びる。その速さだけが、以前とは違った。
天幕の外で、誰かが空の弾薬箱を運ぶ音がした。僕は左手の甲で目を拭い、報告書の続きに手を伸ばした。これも、いつも通りだった。
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