ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《教導書》 二章 五節
『靴底の泥は巡礼の証であり、帰還の門にも同じ重さで付く。』
2373年3月。王国軍北方遠征部隊は、第二王城を出発して10日目を迎えていた。
北へ進むにつれて、空気はまとわりつくような湿気を濃くしていた。
「――クソッ、また車輪が取られたぞ! 誰か肩を貸せ!」
怒号が飛び交う。
僕たちの目の前には、見渡す限りの泥の海が広がっていた。
このあたり特有の湿潤な大地。雨季の終わりのこの時期、未舗装の街道は底なし沼のような泥濘と化していた。
「おい羽黒! 浄水器のコンテナが傾いてるぞ! 抑えろ!」
「ハイッ!」
カルマン曹長の指示で、僕は泥の中に足を突っ込んだ。
ズブズブと膝まで沈む感触。軍靴の中に冷たい泥水が浸入してくる。
僕が所属するのは、遠征軍の最後尾を行く「兵站輜重部隊」。
食料、予備弾薬、そして例の「ハイブリッド浄水器」300個を積んだ荷馬車隊だ。
「せーのっ、ふんぬッ!」
数人がかりで荷馬車を押し上げる。
車輪が泥を跳ね上げ、顔にかかる。口の中にじゃりっとした感触が広がった。
重い。痛い。臭い。
腐敗した植物の匂いと、馬の排泄物、そして兵たちの汗の匂いが混じり合う。
右側で車輪を押していた女性兵の袖は、肘まで泥に沈んでいた。左側の大柄な男性兵と同じタイミングで肩を入れ、同じタイミングで息を吐く。違って見えたのは体格ではなく、泥を踏む足の置き方だった。
これが、「行軍」の現実だった。
遠征と聞いた時、頭のどこかでは地図の上に矢印が伸びる絵を想像していた。
実際の矢印は、泥の中で車輪の幅だけ進んで止まる。
そのたびに、誰かが後ろから押す。
「……あーあ、あっちが羨ましいぜ」
隣で同じように泥だらけになっている若い女性兵が、恨めしそうに前方を指差した。
遥か前方。先頭集団を行く精鋭部隊の姿が、陽炎のように見える。
その一角だけ、妙に空気が澄んでいた。
黄泉依冬喜。長い髪を一本の三つ編みにまとめ、事も無げに片手を地面へ向けるその立ち姿だけは、遠目にもすぐ見分けがついた。彼女が持つ異能は『土への干渉』。
彼女が意識を向けるだけで、足元の底なし沼は瞬時に水分を排出し、コンクリートのように強固な道へと変貌していく。
詠唱も、魔法陣も必要ない。ただ念じるだけで、この世界の理屈を捻じ曲げているようにさえ見えた。
物語なら、あの道を作る側が主人公だ。
僕はその後ろで、道が終わった場所の泥を押している。
それでも車輪が一つ進むなら、たぶん仕事にはなっている。
佐々木宗助をはじめとする戦闘班の連中は、泥汚れ一つない姿で談笑しながら歩いていた。その中に、桐谷の姿もあった。話には加わらず、少し離れた位置から周囲の草むらへ視線を配っている。
「すげぇな、ありゃ。魔法で道を作っちまうなんてよ」
「俺らなんて、泥と格闘するので手一杯だってのに」
兵士たちがため息をつく。
彼らは特別な力で、あっという間に道を作ってしまう。
僕らはその後ろで、重荷を背負って同じ道を踏み固めるだけだ。
その格差は、この物理的な距離以上に開いていた。
「無駄口叩くな! 手を動かせ!」
カルマン曹長の一喝で、僕たちは現実に引き戻される。
そうだ、羨んでも仕方がない。僕には僕の仕事がある。
「班長心得、3号車の車軸から異音! 油切れのようです!」
「了解、すぐ見る! 飯田が作った予備パーツを持ってきてくれ!」
僕は泥を拭うのも忘れて、荷馬車の下に潜り込んだ。
予備パーツの箱には、車軸受けと補強輪、歯車の歯が雑に詰められていた。蓋の裏に、小泉の字で「馬車用。戦車に流用するな」と書いてある。
田中の字で、その横に「流用しないとは言ってない」と足されていた。
泥の中で見るには、あまりにくだらない落書きだった。
でも、誰かが笑いながら作った部品で、今この荷馬車がもう一度動く。
ハイブリッド浄水器だけではない。馬車の整備、物資の管理、破損した装備の応急処置。
「特別技術班・班長心得」という肩書きは伊達ではなかった。技術的なトラブルは全て僕のところに回ってくる。
転移直後の僕だったら、こんな泥の中を這い回っただけで息が上がっていただろう。今も楽ではない。だが、体の使い方だけは、いつの間にかトズメク仕込みのものになっていた。
ガキン、とレンチを回す。
指の皮が擦りむけ、血が滲む。だが、痛みを感じている暇はない。この物資が届かなければ、前線の3000人が干上がるのだ。
その時、前方で銃声が二つ鳴った。
荷車を押していた兵士たちの背中が、一斉に低くなる。
僕も反射で顔を上げた。雨に濡れた草の奥で、何か小さな影が跳ね、すぐに泥の向こうへ消える。兵士の一人が銃を構えたまま、追わないよう片手を上げた。
「小型だ。深追いするな。二発で十分だ」
それだけで終わった。報告書に書けば、たぶん警戒射撃二発。
戦果なし。損害なし。
でも、その二発が鳴ったあと、誰もすぐには冗談を言わなかった。あの城壁の上で聞いた砲声よりずっと小さいのに、同じ場所へ体を引っ張る音だった。
僕はレンチを持ち直した。
泥の中でも、戦闘は急に横から顔を出す。
「……ふん、いい動きじゃねぇか」
不意に、上から声が降ってきた。
這い出すと、荷台の上で胡座をかいたガント親方が、葉巻をくゆらせていた。
彼は民間人枠としての同行だ。
「親方、サボってないで手伝ってくださいよ」
「馬鹿言え。俺は『技術顧問』だぞ。手出しするのはお前らが泣きついた時だけだ」
ニヤリと笑う親方だが、その視線は鋭く車列全体を観察していた。
彼は葉巻の煙を長く吐き出すと、遠くの先頭集団――クラスメイトたちの方を見て呟いた。
「魔法で道を作るのは結構だがな。……ありゃ『脆い』ぞ」
「脆い?」
「ああ。土台を固めずに、上っ面だけ綺麗にしてるだけだ。一度崩れりゃ、あっという間だろうよ」
親方の言葉の意味を、僕はまだ理解できていなかった。
ただ、その予言めいた言葉は、湿った風に乗って不穏に響いた。
その夜。
遠征十日目の夜。
見出しだけなら少し格好がつく。
実際の僕は、濡れた靴下を火に近づけすぎないよう、枝で位置を直していた。
野営地で配られたスープを飲みながら、僕は泥のように眠った。
夢を見た。
綺麗な道を歩く彼らが、突然足元から崩れ落ちていく夢を。
そして僕は、その穴の底で、ひたすら泥をかき出し続けているのだ。
遠征はまだ、始まったばかりだった。