ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《教導書》 二章 六節
『焚火の傍らで語られる声は、英雄譚より古く夜を支える。』
夜の野営地は、昼間とは別の場所みたいだった。焚き火がぱちぱちと鳴って、濡れた靴と泥の匂いが湯気みたいに上がっている。僕は兵士たちと一緒に火を囲んで座り、今日一日で何度目か分からない水筒の蓋を開けた。
今日も長かった。泥まみれの行軍、荷馬車の修理、夕食の準備、それから浄水器の点検。兵站部隊の仕事は、箱を閉じた瞬間に次の箱が置かれる。
……生えなくていいのに。
「班長心得、今日もお疲れ様です」
若い女性兵が、僕に水筒を差し出してくれた。彼女の頭上にも『0』が浮いている。
もう、それだけでは立ち止まらない。
水筒を持つ指が赤く荒れていて、袖口の泥が乾ききっていない。さっき荷馬車の車軸を押さえていた時についた泥だ。その方が、今はよほど急ぎの情報だった。
「ありがとう。君もお疲れ様」
僕は水筒を受け取り、一口飲んだ。冷たい水が喉を通る。
この水も、僕たちが作った浄水器で濾したものだ。変な話だけど、自分で作ったものを通った水だと思うと、ただの水なのに少し味が違う気がした。いや、さすがに水に制作者補正がかかるのはどうなんだ、とも思うけれど。
「今日だけで五十人分は沸かしましたよ、班長心得のおかげで、俺たち、病気にならずに済んでます」
別の男性兵が、そう言って笑った。
「いや、これはみんなで作ったものだから」
反射的にそう答えた。
水筒の金具が、指に冷たかった。
「じゃあ、みんなの分でいいです。明日も点検、お願いします」
「明日も、か」
「明後日もです」
女性兵は悪びれずに言った。焚き火の明かりで、彼女の袖口に乾いた泥が固まっているのが見えた。
「了解。箱が増えない範囲で頑張る」
「増えますよ」
「知ってる」
誰かが病気にならずに済んでいる。それは魔法の大爆発みたいに派手ではないけど、たしかにここにある結果だった。
地味だ。それだけは分かってる。
「しかし、前線の連中は派手だよなぁ」
一人の兵士が、遠くの方を指差した。そこには、クラスメイトたちがいる精鋭部隊の野営地がある。
魔法の光が、夜空を照らしている。時々、遅れて低い音が腹に響いた。
戦っているのだろう。乾いた銃声も混じっていた。
三発ずつ、間を空けて鳴る。誰かが教本通りに撃っている音なのか、弾を節約している音なのか、ここからでは分からない。けれど、焚き火の前で水筒を持っている僕の手まで、その間隔だけは届いた。
僕の知っている誰かが、あの光の下にいる。
「魔法で敵をバンバン倒してるらしいぜ。俺たちとは大違いだ」
「まあ、俺たちは裏方だからな。地味だけど、大事な仕事さ」
兵士たちが、そう言って笑い合う。
僕も笑ったが、どこか腹に力が入らなかった。
すごいとも羨ましいとも思う。でも言葉にし切れない何かが混じって、喉の奥にくすぶっていた。
あそこにいない自分は、今ここで水を飲んでいる。その事実は冷たかった。
焚き火の周りにも、ゼロはいくつも浮いている。最初の夜なら、気味が悪くて数えていたかもしれない。
今は、数える前に薪を足す。濡れた靴を火から離す。誰の水筒が空かを見る。男か女かより、明日その人が荷車を押せるか、銃を構えられるかの方が先に気になった。
それに気づくと、首の後ろだけが焚き火から少し遠くなった。
✶
食事が終わり、兵士たちが寝床に戻っていく。僕は一人、焚き火の前に残っていた。
炎を見ていると、考えがまとまるような、余計に散らかるような、よく分からない感じになる。
火はいい。見ているだけなら、何か考えている人みたいに見える。実際は、ぐるぐるしているだけなんだけど、黙って座っている理由を火のせいにできるのは便利だった。
もし三郷がここにいたら、たぶん「また難しい顔してるぞ」と言う。飛井なら勝手に隣へ座って、何も聞いていないのにくだらない話を始める。桐谷さんは、たぶん少し離れたところで、こちらが話すまで待つ。
そういう想像だけは、まだ簡単にできた。
だから余計に、遠くの光が気になった。
「まだ起きてたのか、羽黒」
背後から声がかかった。
振り返ると、ガント親方が葉巻をくゆらせながら立っていた。
「親方。はい、少し考え事をしていて」
「考え事、ねぇ。お前、最近よく考え込んでるな」
ガント親方が、僕の隣に座った。
「何を悩んでるんだ?」
「……自分が、役に立っているのかどうか、です」
言ってから、少し後悔した。
重い。夜の焚き火の前で言うには、だいぶ重い。
「浄水器は確かに役に立っている。でも、それは――。誰でもできることじゃないかって」
「お前、自分が何をしたか分かってるのか?」
ガント親方が、僕の頭を軽く小突いた。痛いというほどではないが、ちゃんと小突かれた。
「300個を一ヶ月で作って、3000人が病気にならずに戦えてる。でかい話に聞こえねぇなら、明日の朝、腹を下した兵を十人並べてやる。そういうのは、見たら分かる」
「……はい」
僕は小さく頷いた。親方の言っていることは、ちゃんと分かる。それでも、前線の光を見ると胸の奥がざわついた。
✶
「親方、一つ聞いてもいいですか?」
口に出してから、急に怖くなった。聞いていい話なのか分からない。
でも、もう言ってしまった。
「何だ?」
「親方は、なぜ、この仕事を続けているんですか?」
「……唐突だな」
ガント親方が、葉巻の煙を吐き出した。
「だが、まあ、答えてやろう」
親方は少し考えてから口を開いた。
「俺は、若い頃、戦場で戦っていた。剣を振るって、敵を倒していた」
「……そうなんですか」
「ああ。だが、ある日、気づいたんだ」
ガント親方が、遠くを見た。焚き火の向こうではなく、もっと前のどこかを見るような目だった。
「俺が戦えるのは、誰かが武器を作ってくれているからだ。誰かが食料を運んでくれているからだ」
「……」
「俺は、その『誰か』に感謝したことがなかった。当たり前だと思っていた。礼を言う前に、死んだやつもいる」
ガント親方が、自嘲するように笑った。その顔は、いつもの「職人の親方」より少し遠くにいた。
「だから、俺は剣を捨てて、鍛冶屋になった。今度は、俺が『誰か』になる番だと思った。……まあ、格好よく言えばな」
「……」
「実際は、剣で食っていくほど腕が残らなかっただけでもある」
ガント親方が、火の中へ短く灰を落とした。
「だから、あんまり綺麗に受け取るな。仕事なんて、だいたいは煤と飯代だ。その中に、たまに人が助かる分が混じる」
「……ありがとうございます」
僕は頭を下げた。
ガント親方の言葉は、確かに胸に残った。
だが、すぐに全部が晴れるほど、僕はできた人間ではなかった。感動した次の瞬間に「よし、僕も僕の道を行くぞ」と言えるほど、単純にはできていない。
✶
その夜、僕はテントの中でしばらく眠れなかった。
ガント親方の言葉。兵士たちの笑い声。遠くで光った魔法の光。全部が頭の中で混ざって、うまく整理できない。
どちらが正しいとか、間違っているとか、そういう話ではない。そう言い聞かせても、指先についた煤はすぐには落ちなかった。
寝返りを打つと、外で誰かが咳をした。そのあと、水を飲む音がした。僕たちが濾した水だ。
水筒の栓が閉まり、足音がテントから離れた。僕は煤の残った指を寝具の中へ引っ込め、目を閉じた。
目を閉じると、かえって耳が遠くを拾った。銃声が、三発ずつじゃなくなっている。数えているうちに間隔が分からなくなって、それでも耳だけが、朝まで起きていそうだった。
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