ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~   作:ハルキーノ

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二章七話 影の食卓

《教導書》 二章 七節

『影の食卓では、空いた席こそ最も多くを語る。』

 

 雨音は、もう三日も絶え間なく続いている。湿地帯特有の、粘りつくような雨だ。天幕を叩く音は時に激しく、時に陰気な囁きのように耳にまとわりつく。

 

 事前情報では知っていたが、実際にこの季節の北方の雨を食らうのは、想像とは違った。

 

「……また錆びてる」

 

 天幕の中で、僕はため息をつきながらレンチを磨いていた。湿度は容赦なく金属を侵食する。僕たちが管理する予備パーツも、油断するとすぐに赤茶色の斑点が浮かび上がる。

 

 それを一つ一つ油で拭き取り、防錆紙で包み直す。今日、何度目になるか分からない。

 

「よう、生きてるか班長心得」

 

 天幕の入り口がめくられ、湿った風と共にガント親方が入ってきた。彼もまた、雨合羽代わりの油紙を被り、不機嫌そうな顔をしている。

 

「なんとか。そっちはどうですか?」

 

「最悪だ。馬車の車軸が一本イカれた。泥に埋まったのを無理やり引っこ抜こうとして、過負荷がかかったらしい。飯田の錬金術で応急処置はしたが、長くは持たんぞ」

 

 親方は濡れた外套を脱ぎ捨てると、ドカッと木箱に腰を下ろした。

 

「兵士たちの士気もガタ落ちだ。食い物はカビ臭いパンと、岩みてぇに硬い干し肉だけ。おまけにこの雨だ。……魔法使い様たちは快適な結界の中で優雅にティータイムかもしれんが、俺たちゃ泥水啜って生き延びるしかねぇ」

 

 親方の愚痴は尤もだった。前線の選抜メンバー――クラスメイトの主力組は、魔法による結界で雨風を凌いでいる。全体のためだと説明されれば、頷くしかない。

 

 けれど、冷たい泥の中で作業を続けていると、どうしても心はささくれ立つ。

 

「……何か、作りますよ」

 

 僕は立ち上がり、道具袋を探った。

 

「あん? 作るって、何をだ?」

 

「温かい食事です。カビ臭いパンや干し肉も、工夫次第でどうにかなりますから」

 

 僕は天幕の隅に設置した簡易コンロ(空き缶と固形燃料で作ったものだ)を取り出した。鍋に、雨水……ではなく、浄水器を通した清潔な水を張る。

 

「おいおい、そんな固形燃料で何ができるんだ? 干し肉なんて煮込んでもゴム草履みてぇなままだぞ」

 

「普通に煮込めば、ですが」

 

 僕はナイフを取り出し、干し肉を繊維に逆らって薄く、極限まで薄く削ぎ切りにしていく。さらに、昨日行軍中に見つけた「湿地セロリ」と「香草ニンニク」――見た目は雑草だが、鑑定スキルで可食判定が出ている現地の野草――を細かく刻む。

 

「まずは油で香草を炒めて香りを出し……そこに肉を投入。表面の色が変わったら一度取り出します」

 

 ジュウ、と小気味よい音が天幕に響く。ニンニクに似た食欲をそそる香りが立ち込め、親方が鼻をひくつかせた。

 

「……ほう、いい匂いじゃねぇか」

 

「次に、パンです。カビ臭い部分は削り落として、残りを賽の目に切ります。これを油を吸わせるようにして炒めて……最後に水を入れ、スープにします」

 

 クルトンのようにカリッとしたパンが、スープを吸ってとろみを帯びていく。最後に、先ほどの肉を戻し入れ、塩と少量の胡椒(これは私物だ)で味を調える。

 

「完成です。『即席・湿地風リゾット』」

 

 湯気の立つカップを親方に差し出す。親方は疑わしそうな目で中身を見たが、香りに負けたのか、一口啜った。

 

「……!」

 

 親方の目が大きく見開かれた。

 

「おい、これ……マジかよ。あのゴム草履が、解けるように柔らかくなってやがる」

 

「薄く切ってサッと火を通すだけにしましたから。それに、香草の香りが肉の臭みを消してくれてます」

 

「パンもだ。ただのふやけた小麦粉じゃねぇ。油の旨味を吸って、立派な具になってる」

 

 親方は二口、三口とスプーンを運び、あっという間に平らげてしまった。

 

「はぁー……生き返ったぜ。まさかこの泥沼のど真ん中で、こんなまともなモンが食えるとはな」

 

 親方は満足げに腹をさすった。その顔からは、先ほどまでの陰鬱な空気が消えている。

 

「羽黒、お前、いい腕してるな。この技術がありゃ、どこ行っても食いっぱぐれねぇぞ」

 

「……ただの趣味ですよ。昔から、あるもので工夫するのが好きだったんです」

 

 そう。

 

 僕は「無い物ねだり」をしない。スーパーパワーも、選ばれた宿命も、僕にはない。けれど、手元にあるカビたパンと干し肉を、少しマシなものに変えることはできる。

 

 それが、僕の戦い方なのかもしれない。

 

「いい匂い! ねぇ羽黒くん、ここ何かいいものあるの?」

 

 その時、天幕の入り口からひょっこりと顔を出したのは、高橋桜華だった。ピンク色の髪が湿気で少し縮れているが、声はいつも通りよく通った。後ろには、申し訳なさそうにしている三郷の姿もあった。

 

「あ、ごめん羽黒。桜華が良い匂いがするって騒ぎ出してさ……邪魔するつもりじゃなかったんだけど」

 

 天幕の入り口の外側に、桐谷の姿もあった。中には入らず、湯気の匂いを確かめるように鼻先だけ上げてから、すぐに視線を逸らした。

 

「いいよ。二人も食べる? まだ材料はあるから」

 

「食べる食べる! 前線の配給、味気なくて飽きてたんだよね~」

 

「水、足りるか? 俺の水筒、まだ半分より上ある」

 

 三郷が水筒を軽く振って、中の音を確かめながら差し出した。

 

 桜華が嬉々として中に入ってくる。僕は鍋を再び火にかけながら、苦笑した。

 

 外ではまだ、冷たい雨が降り続いている。

 

 けれど、この小さな天幕の中だけは、温かい湯気と穏やかな空気が満ちていた。

 

 クラスメイトとの格差。迫りくる脅威。それらが消えたわけではない。

 

 それでも今だけは、この温かいスープの味だけを口の中に残しておきたかった。

 

 泥濘の行軍は、まだ続く。けれど、美味しいご飯があれば、明日もまた一歩、前に進める気がした。

 

 親方が、空になったカップを置いて天幕の外へ目をやった。

 

「……車軸、明日まで持つといいがな」

 

 雨音は、まだ止む気配がなかった。

 

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