ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《教導書》 二章 八節
『冠の裏に付いた泥を、戴く者だけが見ない。』
遠くで、雷鳴のような轟音が響いた。
空気が微かに震え、重たい湿気が肌にまとわりつく。だが、それは雨の前触れではない。クラスメイトたち――「戦闘選抜組」による、魔物の大巣穴に対する一斉攻撃の音だ。
「……これで、終わりますね」
僕は、集積所の木箱に腰を下ろし、手元の帳簿に目を落とした。
北方湿地帯。この二週間、僕たちは泥を啜り、錆と戦いながらこの過酷な土地を歩き続けてきた。ようやく、当初の目的である「深部魔物の殲滅」が完了しようとしている。
「ああ。魔法使い様たちの派手な花火だ。ありゃあ、地形が変わっちまうな」
隣でガント親方が、苦々しく、どこか感心したように煙草をくゆらせていた。視線の先、森の向こう側から、青白い魔力の光柱が立ち上るのが見える。あれは恐らく、三郷や佐々木たちが発動させた大規模魔術だろう。
直後、地響きと共に歓声が上がった。作戦成功。この遠征における、決定的な一撃だ。
「班長心得! 浄水器の予備、もう一個もらえますか!」
息を切らした若い兵士が、拠点に駆け込んできた。泥まみれだが、その顔には高揚感が溢れている。
「ああ、用意してあるよ。……調子はどう?」
「最高です! 前線の騎士様たちが、あの『沼大蛇』を文字通り一瞬で消し飛ばしたんですよ! あんなの、人間業じゃありません!」
彼は興奮気味に語り、新しい浄水フィルターを受け取ると、再び前線へと駆けていった。僕はその背中を見送りながら、数字を見た。
彼の数字に変化はない。健康だ。この遠征中、正規兵たちの「病気による離脱者」は、驚くほど少なかった。
何も起きていないこと、誰も倒れていないことを、良い知らせとして帳簿の余白に見る癖がついている。例年のこの季節、この場所であれば、汚染された水による疫病で、部隊の三割が脱落するのが「当たり前」だったのだと、カルマン曹長から聞いた。
僕が複製した浄水器。ガント親方と徹夜で調整した濾過システム。それらが、名もなき数千人の兵士たちの胃袋を守り、彼らを戦場に立たせ続けてきた。
けれど。
「……負傷者の搬送、始まります!」
医療テントの方が騒がしくなる。担架で運ばれてくるのは、主力の魔法使い、つまりクラスメイトたちではなく、その周囲を固めていた一般の歩兵たちだ。彼らは魔物の反撃を受け、手足を失い、あるいは毒に侵されて呻いている。
僕は立ち上がり、予備の魔石と消毒薬を抱えてテントに向かった。
作業。ひたすら、裏方の作業。
壊れた鎧の継ぎ目をこじ開け、傷口に薬を塗る兵士を助ける。包帯の位置を間違えないこと、担架の重さを逃がすこと、足場の悪い場所で姿勢を崩さないこと。どれも華やかさとは無縁だが、訓練で叩き込まれた基礎がなければ、とっくに手順ごと崩れていた。
「痛ってぇ……畜生、カッコよかったなぁ、佐々木様の剣……あんな風になれたらなぁ」
足に深い傷を負った兵士が、うわ言のように呟く。兵士の指は、まだ僕の袖を掴んでいた。爪の間に泥が入り、震えは止まっていない。
それでも目だけは、遠くの光を追っていた。
「お前、いい仕事したぜ」
カルマン曹長が、血を拭いながら僕の隣に来た。
「曹長。お疲れ様です」
「今回の損害、確認できた負傷者は三十一人。予想の半分以下だ。お前の言う通り、兵士に温かい飯と綺麗な水を食わせたのが効いた。……だがよ、羽黒」
曹長の視線の先には、凱旋するクラスメイトたちがいた。アンテラル騎士長を先頭に、誇らしげに胸を張る三郷、佐々木、桐谷。周囲の兵士たちが熱狂的な歓声で彼らを迎えている。
「あの連中の手柄は、歴史に太字で書かれる。だが……お前がやった『水の管理』は、一行も書かれねぇ」
「……分かってます。最初から、そのつもりでしたから」
僕は、汚れを拭うための布をきつく握りしめた。布から血と薬の匂いが上がる。
それでも、喉の奥に何かが残った。
凱旋の列の中から、三郷が僕を見つけて手を振った。眩しい笑顔。純粋な善意。
「僕たちはやったよ、羽黒!」という言葉が、あそこから届かなくても聞こえてくるようだった。
僕は、手を振り返せなかった。
ただ、手元の血のついたバケツを持ち、また次の「作業」へと足を進めた。
北方遠征、終了。
勝利の歓声が響き渡る中で、僕は血のついたバケツを持ち直した。手のひらに食い込む取っ手の冷たさだけが、やけにはっきりしていた。
あの光の中へ歩いていく足は、どうしても出なかった。
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