ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《教導書》 二章 九節
『金と煤のあいだを歩く者は、どちらの神にも属さない。』
第二王城の正門が見えたとき、僕は安堵より先に、疲労で膝から崩れ落ちそうになった。
泥に沈み続けた二週間だった。荷馬車の車輪は何度も歪み、浄水器の補修記録は帳簿の半分を埋め、僕の作業着には湿地の匂いが染みついていた。
それでも、城門の前ではラッパが鳴り、旗が振られ、帰還した遠征隊を迎える兵士や使用人たちの歓声が渦を巻いていた。
「おお、英雄様のお帰りだ!」
「三郷様だ! 佐々木様もいるぞ!」
歓声の向かう先は、隊列の中央だった。
泥を落とし、外套を新調した戦闘選抜組が、凱旋将軍みたいに整然と進んでいく。
魔力灯の光を受けた彼らは眩しかった。遠征中は同じ雨に打たれていたはずなのに、帰還してみれば、最初から別の道を歩いていたみたいに見える。
「班長心得、ぼさっとするな。3号車の積み荷、先に倉庫へ回すぞ」
カルマン曹長の声で、僕は現実に引き戻された。
「了解です」
僕たち兵站組の帰還は、凱旋ではなく搬入だった。
歓迎の広間へ向かう列から外れ、僕は台車の取っ手を握る。積まれているのは、使い切れずに済んだ予備フィルター、破損した魔導部品、泥にまみれた工具箱。どれも、今回の遠征で確かに人を生かしたものばかりだ。
だが、歓声はそれらに向けられない。
✶
その日の夕方、正面広間で遠征の論功行賞が行われた。
高い天井から吊るされた魔力灯が、金の装飾を白々しいほどに照らしている。磨き抜かれた床には、僕みたいな煤と泥に慣れた人間の姿はひどく不釣り合いだった。
僕は兵站組の端に立ち、壇上を見上げていた。
中央にはアンテラル騎士長。相変わらず気だるげな顔で立っているのに、その場の空気は彼一人で張り詰めていた。
「此度の北方遠征において、特に著しい戦果を挙げた者を顕彰する。本日表彰する者、全十二名」
呼ばれたのは、やはり三郷、佐々木、高橋桜華たちだった。
三郷は少し緊張した顔で前へ出て、佐々木は誇らしげに胸を張り、桜華は照れくさそうに笑っていた。
勲章の金具が服に留められるたび、広間に拍手が満ちる。
僕も手を叩いた。手袋越しの音は、周囲の拍手より少し鈍い。
彼らは実際に前線で戦い、魔物を倒し、作戦の成功を誰の目にも分かる形で示した。あの場に立つ資格がある。
僕には、ない。
「次に、兵站支援において功績のあった者」
その言葉で、少し背筋が伸びた。
呼ばれたのはカルマン曹長、補給官、それから僕だった。
一瞬、広間が静かになる。
戦闘組へのそれとは違う、事情をよく知らない者が帳尻合わせの表彰を眺めるときの静けさだった。
前に出ると、係官から小さな銀色の記章を渡された。勲章というより、制服の襟元に付ける補助徽章に近い。
「兵站整備補助功労。浄水設備の維持、補給車両の保全、衛生環境の改善に寄与した」
読み上げはそこで終わった。
北方で病による脱落者が激減したことも、負傷兵の搬送効率が上がったことも、記録の上では全部『寄与した』の一言で片づくらしい。
「おめでとう、羽黒」
壇上を降りるとき、三郷が小声で言った。
「ありがと」
自分でも驚くくらい、平らな声が出た。
佐々木も肩を叩いてきた。
「お前もちゃんと評価されたじゃん。よかったな」
「うん」
よかったな。
その通りなのだと思う。
実際、評価はされた。僕は無視されたわけじゃない。功績を奪われたわけでもない。
なのに、胸のどこかが冷えていく。
彼らの言葉に悪意はない。むしろ本気で祝ってくれている。
だからこそ、余計につらかった。
同じ『評価』という言葉を使いながら、僕たちが受け取ったものは、別物だったからだ。
もらったのは金の勲章じゃなく、銀の小さな記章だった。
歓声も、三郷たちに向けられたものとは違う。
英雄譚の一節と、報告書の脚注。
その差を、誰も悪いことだとは思っていない。
✶
式が終わると、戦闘組は祝宴へ案内されていった。
僕も兵站組の席が用意されていると聞いたが、どうにも足が向かなかった。
「行かねぇのか」
広間の外で待っていたガント親方が、壁にもたれて言った。
「……親方」
「祝宴だぞ。肉も酒も出る。お前の好きそうな白パンもあるだろうさ」
「今は、鉄の匂いの方が落ち着きます」
親方は鼻で笑った。
「難儀なガキだ。まあ、来い」
工房の扉を開けると、煤と油と焼けた鉄の匂いが肺に入った。
それだけで、肩の力が少しゆるんだ。炉は落としてあるが、昼の熱がまだ石壁に残っている。金箔の広間より、よほど体に馴染んだ空気だった。
「記章、見せてみろ」
言われるまま渡すと、親方は無骨な指でつまみ上げた。
「軽いな。薄っぺらい」
「はは……そうですね」
「だが、鉄屑よりはマシだ」
そう言って、親方はそれを僕に投げ返した。
「お前が作った浄水器がなきゃ、今ごろ遠征隊は半分寝込んでた。俺はそう見てる。曹長もそうだろうよ。広間の連中がどう数えようが、現場じゃ別の勘定で生き死にが決まる」
「……でも、その『別の勘定』は、表には出ない」
炉の奥で、小さな灰が崩れた。
親方は怒らなかった。
「当たり前だ。世の中ってのは、爆発した音の方が、壊れなかった車輪より耳に残る」
あまりにその通りで、僕は笑えなかった。
炉の横の椅子に腰を下ろす。
手の中の記章は冷たく、軽かった。
もし僕が望むべきものが、誰かに「助かった」と言われることだけなら、これで十分なはずだ。
水を飲んだ兵士は笑っていた。
泥の中で引き上げた荷馬車は、ちゃんと目的地へ着いた。
親方も曹長も、それを見てくれている。
それなのに、広間で浴びた光を思い出すたび、僕の中の何かが軋んだ。
あそこに立ちたかったのかと問われれば、たぶん違う。
ただ、最初から同じ秤に載せられていなかったことが、「軋んだ」とも違う場所でじわりと残った。
「……羽黒」
工房の入り口に、アンテラル騎士長が立っていた。
赤いマントの端だけが、薄暗い工房の中で妙に鮮やかに見える。
「騎士長」
「祝宴には出ないのか」
「向いてないので」
「そうか」
騎士長はそれ以上何も言わず、僕の胸元の記章を一瞥した。
その目は、哀れみとも侮蔑とも違った。値踏みするようでいて、もっと先の何かを見ている目だった。
「……貴様は、そこで燻っているには少し惜しいな」
たったそれだけ言って、騎士長は踵を返した。
意味を問い返す前に、赤いマントは扉の向こうへ消える。
「何なんだ、あの人は」
呟くと、親方が肩をすくめた。
「さあな。だが、面倒ごとの匂いはする」
僕は胸元の記章を見下ろした。
黄金の広間でも、煤の工房でも、これはやっぱり軽いままだった。
けれど今は、その軽さが妙に気になった。
自分はこのまま工房の片隅で、誰かの当たり前を支える人間で終わるのか。
それとも、騎士長の言葉の先に、別の道があるのか。
まだ分からない。
ただ、今日のあの拍手の中へ戻る想像だけは、どうしてもうまくできなかった。