ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《教導書》 二章 十三節
『鞘へ戻る刃は、抜かれなかった日の錆も連れ帰る。』
封書を受け取ってから二日。僕はまだ返答をしていなかったが、工房では引き継ぎ札を作り始めていた。
残る理由は消えていない。工房には僕の使う机がある。兵站では曹長が名前を呼ぶ。親方はたぶん、明日も当たり前みたいに工具を投げてくる。それでも、次に進むなら、何かを置いていかなければならない気がしていた。
棚の奥から、布に包んだ剣が出てきた。三郷から預かったまま、遠征、工房、兵站と理由を足して返さずにいた剣だ。けれど今の僕には、その先延ばし自体が、まだ昔の距離感に指を引っかけているみたいに思えた。
僕は布をほどき、剣身を確かめた。刃は曇っておらず、鞘の金具も緩んでいない。返さない理由は、もう手入れでは作れなかった。
そう決めた瞬間、何かが喉の奥につかえた。
鞘へ入れ直そうとして、鍔が一度、鯉口に当たった。角度を直せば済むのに、指が動かなかった。
✶
夕方、中庭の端で三郷を待った。訓練帰りの兵たちが行き交い、石畳には西日が長く伸びている。
空は晴れていた。北方遠征の泥と雨が、ずいぶん遠いことのように思える。やがて、三郷は桜華と一緒に現れた。
「羽黒?」
先に僕に気づいたのは桜華だった。
「珍しいじゃん、こんなとこで。どうしたの?」
「三郷に用事があって」
そう言うと、三郷が少し表情を引き締めた。
「俺に?」
「うん」
桜華は二人の間を一度見て、
「じゃ、私ちょっと先行ってるね」
と軽く手を振って離れていった。
残された中庭は、妙に広かった。
「それで、何?」
三郷が問う。僕は布包みを差し出した。
「これ、返す」
三郷は一瞬だけきょとんとしたあと、すぐに中身に気づいたらしい。
「……ああ」
包みを受け取り、静かに開く。剣の柄が見えた瞬間、彼の目がわずかに揺れた。
「ちゃんと手入れしてくれてたんだな」
「預かってたから」
「別に、急がなくてもよかったのに」
前なら、その言葉に甘えて包みを持ち帰ったかもしれない。
「急いだわけじゃないよ」
少し間を置いて、続ける。
「ただ、返すなら今かなって」
三郷は剣を見下ろしたまま、何も言わなかった。中庭を吹き抜ける風が、外套の端を揺らす。
「……城を出るのか」
やがて、低い声でそう聞かれた。喉の奥で息が止まった。顔に出たのか、騎士長から聞いたのかは分からない。
「まだ決めきってはない」
「でも、考えてる」
三郷は小さく息を吐いた。
「そっか」
三郷はそれ以上聞かず、包みの布を畳み直した。
「羽黒」
「うん」
「俺、お前に何かしたか」
「してないよ」
「じゃあ、なんで」
三郷の手の中で、布包みが傾いた。
「相談したら、止めた?」
「当たり前だろ」
返事が早かった。
「だから言わなかったのかよ」
「まだ決めてなかった」
「剣まで磨いて持ってきて、それ言う?」
僕は口を閉じた。三郷は抱えていた剣を脇へ移した。
「遠征の時も、僕は荷の方にいた。三郷たちは前にいた。帰ってきても、そのままだった」
「……」
「三郷が決めた配置じゃないのは分かってる。でも、三郷に何でもないみたいに言われると、腹が立つ」
「だったら、何で勝手に終わらせるんだよ」
三郷の声が初めて大きくなった。通りかかった兵がこちらを見て、すぐ歩調を戻した。
「俺は、お前が工房にいるから放っておいたんじゃない。そこなら大丈夫だと思ってた。違うなら言えよ」
「言ったら、何か変わった?」
「分かんねえよ。分かんねえけど、言われないよりはましだろ」
そこまで言って、今さら自分の声が大きいことに気づいた。
「……それは、ごめん」
「今謝るの、ずるくないか」
「じゃあ、どうすればいいんだよ」
「僕にも分からない」
どちらも次を言えなかった。訓練場から終了の鐘が鳴り、兵たちが中庭へ流れ込んできた。
三郷は包み直した剣を抱えたまま、しばらく何も言わなかった。兵の列を避けるため、僕たちは同時に一歩ずつ下がった。さっきより距離が開いた。
「羽黒」
「うん」
「俺は困る。お前がいなくなったら、たぶん困る。何に困るか、今すぐ全部は言えないけど」
「ありがと」
喉に引っかかったが、今度は言えた。
「剣、返してくれてありがとな」
「うん」
「これ、預けた時はさ」
三郷は少し笑った。
「また当たり前に受け取りに来るつもりだったんだけどな」
布の下で、鞘の金具が三郷の胸当てに触れた。
「……そうだね」
それ以上は言えなかった。
✶
三郷と別れた後、しばらく中庭に残った。手の中から剣の重さが消え、空いた右手だけが外套の脇で落ち着かなかった。夕暮れの空は薄く赤く、城の窓に反射していた。
少し遠くで、桜華の笑い声がした。聞き慣れた声を目で追いかけ、途中でやめた。桜華の姿は兵の列に隠れて見えなかった。
工房へ戻ると、親方が炉の前で部材を選り分けていた。
「返してきたか」
顔を上げもせずに言う。
「見てたんですか」
「少しな」
やっぱりこの人は趣味が悪い。
「……どうだった」
「ちゃんと終わった感じです」
言ってから、少し息が抜けた。
「なら結構」
親方はそれ以上聞かなかった。僕は作業台の前に立った。剣は返したが、借りた工具はまだ並んでいる。
一番手前の柄を握ると、親方が修理札をこちらへ投げた。僕は受け損ね、札は作業台の下へ落ちた。
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