ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《教導書》 二章 十四節
『明け方の門は、出る者と残る者を同じ薄明で裁く。』
二日目の夜、荷造りを始めた時点で答えは出ていた。口にするのだけが遅れ、三日目の朝、僕はアンテラル騎士長の机へ封書を置いた。
「受けます」
騎士長は封書には触れず、僕の顔だけを見た。
「そうか」
騎士長は受諾欄へ日付を書き、すぐ次の書類を重ねた。引き留めも祝福もなかった。
「表向きの処理は済ませる。今日から三日以内に動け」
「早いですね」
「遅い」
いつもの調子に戻ったことで、肩から力が抜けた。
「貴様は本日付で城内常駐の任を外れる。名目は外部研修、実際は城外実地任務だ。細かい連絡先と初動の指示は中に入れてある」
騎士長はそこで一度言葉を切った。
「誤解するな。自由行動ではない」
「分かってます」
「だが、鎖でもない」
その一言だけ、少し低かった。僕は何も返せなかった。返せなかったけれど、その言葉は思っていた以上に心に残った。
✶
荷袋の口は、三度目でようやく閉じた。作業着を底へ押し込み、その隙間へ食器を入れる。工具は一度全部並べたが、工房の刻印があるものを戻すと半分になった。細い
代わりに、カルマン曹長にもらった古びたコンパスを側袋へ入れた。最後まで迷ったのは、引き出しの奥にしまっていた銀色の記章だった。
兵站整備補助功労。
軽くて、小さくて、あの広間ではほとんど意味を持たなかったもの。記章を外したまま蓋を閉めかけ、もう一度開けた。布に包んで、記録帳の間へ挟んだ。
「終わったか」
工房の入り口から、ガント親方が覗き込んだ。
「だいたい」
「ずいぶん荷物少ねぇな」
「必要そうなものだけにしたら、こうなりました」
親方は鼻を鳴らして、作業台の端に小さな革袋を置いた。
「予備の砥石、簡易油、細い針金、火打ち石。余りもんだ」
「余りものに見えないですけど」
「余りもんだ」
それ以上は聞くな、とでもいうように、彼は袋の口を結び直した。
「……ありがとうございます」
「礼は要らん。外でへし折れた時に、『あの親方が何も寄越さなかった』とか思われると寝覚めが悪ぃ」
相変わらず、素直じゃない。でも、この人なりの送り方なのだろう。親方は少し黙ってから、僕の荷袋を見た。
「北倉庫の軸受け、説明が足りん。三番棚のやつは寸法が違うだろ」
「札の裏に書きました」
「裏に書くな。次のやつが見落とす」
送り出す朝まで、親方は親方だった。僕は荷袋を床へ置き、修理札を書き直した。
「これで」
「読めん」
「字までは直りません」
親方は鼻を鳴らし、革袋を荷物の上へ押し戻した。
「壊したら、直しに来い」
「何をですか」
「知らん。壊したものだ」
✶
兵站区画では、カルマン曹長が既に起きていた。夜明け前だというのに、書類箱を前に腕を組んでいる。
「時間通りだな」
「遅れたら怒るでしょう」
「当然だ」
曹長は机の上の小包を顎で示した。
「携行食三日分、水袋二つ、簡易浄水布、予備の薬包。持っていけ」
指先が、書類を机の縁に合わせた。
「多くないですか」
「最小限だ」
この人の最小限は、たぶん世間一般より重い。
「それと」
曹長は小包を荷袋へ載せ、帳簿を開いた。
「受領印」
「今ですか」
「今だ。死んだ後に取り立てられん」
印を押す場所が四つあった。携行食、水袋、浄水布、薬包。最後の欄は、貸与品なし。僕が荷物を受け取ると、曹長は少し目を細めた。
「三人に引き継いで、まだ一枚残った」
曹長は未処理票を僕の胸へ当てた。北倉庫、浄水布、月末棚卸し。
「帰った時にやれ」
「任務の期限、決まってませんよ」
「だから残すんだ」
✶
出発前、森田ロハンとも短く会った。相変わらず整った服装で、相変わらず何を考えているのか分かりづらい顔をしていた。
「聞いています。外へ出るそうですね」
「はい」
「あなたにとって、それは悪くない選択かもしれません」
賛成とも反対とも取れる言い方だった。森田さんは封書の控えを開き、表題を指で隠した。
「この任務について、クラスにはどこまで話しましたか」
「城外研修に出る、とだけ」
「それで結構です。私も、それ以上は説明できません」
「三郷たちにも?」
森田さんはすぐには答えず、控えを二つ折りにした。
「聞かれれば、別任務だと答えます。あなたが自分で話す分まで止めません」
止めない。勧めるとも言わなかった。
「気をつけて」
最後のその一言だけは、少し人間らしかった。
✶
門が開く頃、空はようやく白み始めていた。
第二王城の正門。昼間は人と物資の出入りで騒がしいこの場所も、早朝はまだ静かだ。石畳には夜露が残り、吐く息はまだ少し白い。
僕は荷袋の紐を締め直し、門の前に立った。振り返れば、城壁は高く、無骨で、頼もしく見える。
工房の煙突から、最初の煙が上がっていた。兵站区画では荷車の車輪が鳴り、いつもの朝が僕を待たずに始まっている。
「立ち止まるな」
少し離れた場所から、アンテラル騎士長の声が飛んだ。見れば、城門脇の影に立っている。最後まで、見送りらしい見送りはしないらしい。
「はい」
短く返す。
そして、一歩踏み出した。
門番が簡易身分札と封書の印を確かめた。札は返されたが、荷袋へ戻すのに手間取り、後ろの荷車から鈴で急かされた。
門の外の空気は、城の中と少し匂いが違った。土と朝露と、まだ起き切っていない街の気配。
そこへ馬糞の匂いが混じった。外側は、思っていたより格好よくなかった。
荷袋は右だけが重い。詰め直す場所を探しながら歩くうち、石畳の継ぎ目へ泥が増えていった。
朝日が、城壁の上からゆっくりと差し込んでくる。その光は、黄金の広間の拍手よりもずっと静かで、僕には少し優しかった。僕は荷袋の重みを背に受けて、王都外縁へ続く道を歩き出した。
荷袋の底に、まだ何も書かれていない紙が一枚ある。どこかの詰所に着いたとき、それが最初の仕事になる。
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