ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《教導書》 二章 十五節
『空いた席は小さな墓であり、名のない朝を抱いている。』
2373- 第二王城食堂 桐谷幸視点
朝食の皿に、薄く焼いた卵が乗っていた。桐谷幸は、フォークの先でその端を少し押した。黄身はきれいに固まっている。端だけが皿に貼りつき、力を入れると白身が薄く裂けた。
味付けは悪くない。けれど、城の食堂はいつも匂いが濃い。焼いた油、硬いパン、湯気の立つ豆。学校の食堂なら混ざらなかった匂いが、同じ天井の下に沈んでいる。
ただ、今日は食べ始めるまでに少し時間がかかった。
「羽黒、外に出たって本当か?」
隣の席で、山崎才我がパンを千切りながら言った。いつもの軽さは残っていた。パンを千切る指だけが、少し細かく動いている。
「外って、城外任務だろ。冒険者協会の方に回されたって聞いた」
三郷弦が答えた。三郷は椅子に浅く腰掛け、片肘をついていた。誰かが不安そうな顔をすると、いつもの速さで笑ってみせる。
その笑いが、今日は少し早い。言葉より先に置かれた笑いだった。
「回されたって言い方、よくないだろ」
佐々木宗助が皿から顔を上げた。
「本人が選んだんじゃないのか。森田さんもアンテラル騎士長も止めなかったなら、そういうことだろ」
「そういうことって、どういうことだよ」
「こっちに残るより、外で積むものがあるってことだ」
佐々木はそう言って、水を飲んだ。桐谷は、その言葉を聞きながら、皿の上の卵を小さく切った。
外で積むもの。
佐々木くんらしい言い方だった。余計な飾りをつけず、言葉だけをまっすぐ置く。
けれど、そのまっすぐさの横で、羽黒くんの椅子だけが少し遠くなった。そこに座っていたわけでもないのに、勝手にそう見えるのだから、自分でも少し困る。
羽黒くんの席は、もともと決まっていたわけではない。訓練の日は三郷くんの近く。資料を持っている日は端の席。食堂に来ない日もあった。工房や兵站で何かをしていると、誰かが言っていた。
だから、今日だけ特別に空いている椅子があるわけではない。それでも、皿と皿の間に、いつもより広い場所が残っていた。
「あいつさ、ちゃんと飯食えてんのかな」
三郷が言った。
「そこ?」
山崎が笑う。
「いや、そこ大事だろ。外って、城みたいに時間になったら飯が出るわけじゃないんだろ」
「冒険者協会なら宿くらいあるだろ」
「でも、羽黒だぞ」
その一言で、何人かが少し笑った。桐谷も、少し笑った。
そこは、分かる。笑い声は小さかった。
地図を読んでいる時の横顔。道具を直す時の指先。誰かの皿に足りないものがあると、先にそちらへ手を伸ばすところ。
そういうものは、すぐ思い出せる。なのに、自分の皿だけ冷めていることには、最後まで気づかない。
そういうところ、ほんとうに困る。
三郷は笑わなかった。端へ寄せていたパンを自分の皿へ戻し、二つに割った。
「俺、止めたんだよ」
山崎の手が止まった。
「何を」
「出るって聞いて。止めた。ちゃんと聞く前に」
「それで?」
「出てった」
三郷はパンをスープへ沈めた。力を入れすぎて、指先まで濡れた。
「俺のせいって話じゃない。そういう顔すんな」
誰もそんな顔だとは言わなかった。三郷が先に決めた。
✶
訓練棟へ向かう廊下で、別のクラスメイトたちの声が聞こえた。
「羽黒って、結局冒険者になるんだろ」
「戦闘できるのか?」
「いや、補助じゃない? 荷物とか、報告とか」
「それ、冒険者なのか?」
言葉より先に、足が止まりかけた。
靴底が床を擦る。ほんの少し、列から遅れる。
それを羽黒くんに言ったら、たぶん困った顔で考え込む。考え込んで、結局、相手の言い分まで半分くらい拾ってしまう。
「冒険者だろ」
先に声を出したのは三郷だった。彼は振り返りもせず、廊下の先を見たまま言った。
「外で依頼受けて、戻って報告するなら冒険者だ。剣振るだけが仕事じゃないって、トズメクさんも言ってただろ」
「あ、いや、そういう意味じゃ」
「分かってる」
三郷は笑った。さっき食堂で見た笑いと、同じ早さだった。
「俺も分かってないだけだ。昨日、聞く順番を間違えた」
戻ってきたら。
その言葉だけ、廊下の音から少し浮いた。桐谷の指先には、まだフォークの冷たさが残っていた。
「桐谷?」
佐々木が声をかけた。
「大丈夫か」
「うん」
桐谷は頷いた。大丈夫、という言葉は、短い。短い言葉は、口に出しやすい。
「羽黒くん、地図は持っていったかな」
「知らない」
三郷の返事は硬かった。
「俺、何持ってくかも聞いてない」
三郷が少しこちらを見た。
「そうだな」
短い返事だった。それ以上の言葉は、茶碗の底に沈んだ。
訓練棟の扉が開く。中から、木剣の打ち合う音と、号令と、誰かの笑い声が流れてきた。
今日も訓練は始まる。桐谷は一歩踏み出した。食堂で何度か呼ばれた名前だけが、まだ王城のどこかに引っかかっている。
本人はいない。
話題だけが、食卓の真ん中に置かれたまま残った。何を持って出たのかは、誰も知らない。
地図も、食事も、帰る日も。
気づく側に、いつもいる。羽黒くんの皿が冷めていることも、三郷くんの笑いが早いことも。誰かの代わりに気づいて、誰かの代わりに黙って動く。それだけの自分でいたいわけじゃない、と思う瞬間が、たまにある。狙って、当てる。自分の手で、それだけは誰にも譲りたくない。
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