ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《教導書》 二章 十六節
『王城に残った名は、呼ばれぬほど強く皿の縁に宿る。』
2373- 第二王城食堂 桐谷幸視点
朝の掲示板の前で、足が止まった。いつもの位置に、いつもの濃さの字がない。羽黒承の名前は、朝食の席より先に訓練予定表から薄くなった。
完全に消されたわけではない。薄い墨で、別任務、と書かれている。
桐谷幸は、その二文字をしばらく見ていた。掲示板の前は人が通る場所で、長く立っていると邪魔になる。けれど、誰かに呼ばれるまで動けなかった。
「桐谷、そこ見るとこある?」
山崎才我が、後ろから顔を出した。寝癖が一房だけ残っている。制服の襟も少し曲がっていた。朝に弱いのか、単に気にしていないのか、どちらかだと思う。
「ある」
「マジか。俺、今日の走り込みが何周かしか見てなかった」
「それも大事」
「大事だけど見たくない」
山崎は予定表を覗き込み、そこで言葉を止めた。
別任務。
山崎は予定表の端に貼られた当番表を見た。浄水器点検の欄だけ、担当者名が三つに増えている。
「あいつ、別任務なんだな。当番、三人に増えたってさ」
「うん」
「冒険者協会だっけ」
「そう聞いてる」
山崎は自分の訓練札と当番表を見比べた。
「これ、朝の走り込みと重なってる」
「誰の?」
「俺の。昨日、曹長に手伝えって言われた」
「行ったの」
「寝過ごした」
軽口ではなかった。桐谷は予定表から目を離した。
食堂では、三郷弦が先に席を取っていた。いつもより広い場所に座っている。羽黒くんがいた時も、いない時も、三郷くんは人が集まりやすい場所を選ぶ。たぶん本人は何も考えていないと言う。でも、考えていない人はあんな位置に座らない。
三郷くんの皿には、パンが二つ乗っていた。ひとつは自分用で、もうひとつは、誰かが遅れて来た時に投げるためのものみたいに端へ寄せてある。
学校でも、三郷くんは購買で余ったパンをよく机の真ん中に置いていた。食べたいなら食え、という置き方だった。誰に向けた親切なのか、本人も決めていないような雑さがあった。
「おはよう」
三郷くんが手を上げた。
「おはよう」
「パン、硬いぞ」
「昨日も硬かった」
「じゃあ世界が安定してる」
山崎が笑った。桐谷も少し笑った。
食堂の匂いは濃い。焼いた肉、煮込んだ豆、古い木の机、洗いきれなかった油。日本の朝食にはなかった匂いばかりで、最初はそれだけで疲れた。今は、少し慣れた。
慣れたことが、少し怖い。
「羽黒なら、パンをスープに浸せって言うかな」
山崎が言った。
「言うだろ」
三郷くんがすぐ答えた。
「それで自分のパンはそのまま食べる」
「それも言う」
佐々木宗助が、水の杯を置きながら加わった。
「あいつは、自分に適用するのを忘れる」
「ひどい言われよう」
「事実だ」
笑いが広がりかけたところで、山崎が椅子を引いた。
「悪い。俺、倉庫行く」
「訓練は」
「遅れるって言う。昨日の分もあるし」
山崎は硬いパンを一つ掴み、口にくわえたまま走っていった。
「桐谷」
三郷くんが、こちらを見た。
「無理に食べなくてもいいぞ」
「食べる」
「そうか」
「食べないと、羽黒くんに怒られそうだから」
言ってから、少し自分で驚いた。羽黒くんは、たぶん怒らない。だから今は、怒る人がいない。三郷くんは、パンの端を少し折った。
「じゃあ食べようぜ。怒られるから」
「うん」
桐谷はパンをスープに浸した。ふやけたパンは、案外すんなり喉を通った。訓練棟へ向かう途中、予定表の前をもう一度通った。
別任務。
その字はまだそこにある。消されていない。
桐谷は、掲示板の釘が少し錆びていることに気づいた。昨日までは見ていなかった。
羽黒くんなら、たぶん見ていた。そう思って、少し嫌になった。
桐谷は錆びた釘を指で押した。予定表の右端が浮き、紙が廊下の風で鳴った。
「これ、替えた方がいい」
「釘?」
「うん。あとで工房に聞く」
「行こう」
山崎が言う。
「うん」
訓練棟の扉の向こうから、木剣の打ち合う音が聞こえた。油の匂いは薄れ、乾いた木と汗の匂いに変わる。
別任務、という二文字は、まだ掲示板に残っている。桐谷はそれを背中に置いて、訓練棟へ入った。
釘は、今日中に替える。
あの紙が、落ちる前に。
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