ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《辺境者の歌》 三章 三節
『荷を崩さぬ手は、神殿の柱より静かに重さを受ける。』
樽の位置を一つずらし、布束をその反対側へ寄せる。
それだけで、荷台の見え方が少し変わった。
さっきまで片側へ寄っていた重みが、ようやく車体の真ん中に戻ってくる。
「あ、あの、大丈夫なんですか?」
商人は不安そうに荷台と僕の手元を見比べていた。
「このまま出す方が危ないです」
縄をいったん緩め、通し方を変える。
城の補給庫でも何度か似たことはやった。
違うのは、あちらでは失敗しても怒鳴られるだけで済むことが多かったのに、こっちではそのまま相手の損になることだ。
だからこそ、手順を飛ばさない。
布束を緩衝材代わりに入れ直し、染料樽同士が直接ぶつからないよう間を空ける。
甘くなっていた右側の留め具には、いま掛けている縄だけでは足りない。
「予備の縄、ありますか」
返事が遅れた。
「え、ありますけど」
「一本ください」
商人が慌てて荷台脇の箱を開けようとした、その時だった。
「おい、勝手に荷をほどくな」
低い声が飛んできた。
振り返ると、装甲車の運転席側から大柄な男が歩いてくるところだった。
四十前後だろうか。雨除けの革外套を片腕に引っかけ、片手に工具袋を持っている。
さっきまで姿が見えなかったのは、車体の点検でもしていたのかもしれない。
「こっちは出立前だ。崩したら積み直しの時間まで食う」
商人が慌てて口を挟む。
「いや、その、新しい護衛補助の人で……」
「仮登録です」
僕がそう言うと、運転手の視線が胸元の金属片に落ちた。
協会の刻印入りの仮登録札。
それを確認してから、彼は面倒そうに鼻を鳴らす。
「なるほど。初仕事で荷台をいじる度胸だけはあるわけだ」
「右側の留め具が甘いです。樽も片寄っています。このままだと、ぬかるみで車体が振れた時に右へ負担が寄ります」
言い切ると、運転手は少し目を細めた。
「どこが甘い」
僕は問題の金具を指さした。
「ここです。噛みが浅い。掛けた時に止まって見えても、揺れを食うと戻ると思います」
彼は荷台に片足を掛け、金具を指で押した。
かち、と小さく音がした。
止まっていたはずの留め具が、わずかに戻る。
「……ちっ」
男は僕ではなく、荷台の傾いた車輪を睨んでいた。
「朝っぱらからよく気づくな」
「見えたので」
「見えても言わねぇやつは多い」
そう言ってから、運転手は工具袋を開け、細い補助金具を一本取り出した。
その背後、詰所の入口にラドが立っているのが見えた。
こちらと目が合うと、彼はすぐに視線を逸らす。
見ていたのか。
だったら何か言えばいいのに、と思う。
僕も同じ立場なら、手を出さずに見ていたと思う。
初仕事から見られている。
剣を抜くところではなく、荷縄を直しているところを。
そう考えると少し喉の奥が詰まったが、手は止めなかった。ラドが入口を離れないなら、まだ判断の途中だと思う。
「商人。予備縄」
「は、はいっ」
「坊主、お前はそっちを通せ。アタマ側からじゃなく、後ろで一回返せ。樽の首を殺すなよ」
「分かりました」
それからは早かった。
僕が縄を通し、運転手が金具を替え、商人が布束を押さえる。
三人でやると、さっき一人で整えていた時よりずっと速い。
留め直したあとで荷台を揺すってみる。
樽は鳴ったが、嫌なずれ方はしなかった。
運転手が荷台から降り、車体の横を一周する。
「まあいい。出せる」
その一言で、商人が目に見えて息をついた。
「よ、よかった……」
「よくねぇよ。本来は出る前に済んでる話だ」
そう返しながらも、運転手はもう怒っていなかった。
代わりに、僕の方を見て顎をしゃくる。
「乗れ。後ろ見ろ。今日の仕事は剣振るより、たぶんそっちだ」
「はい」
歓迎というより、空いた手へ仕事を置いただけだった。
でも少なくとも、邪魔者扱いではなくなった。
初仕事としては、そこまで戻せればいい。
✶
装甲車が動き出すと、低い駆動音が腹の底に響いた。
音は一つではない。前の機関部で大きな輪が回っているような唸りと、その下で細かい歯車が噛み合う音が重なる。荷台の床板は予想より熱く、靴底越しにじわりと伝わってきた。
僕は荷台の後方寄りに腰を下ろし、縄の張りと樽の位置を見ながら揺れを受ける。
商人は前寄りで落ち着かなさそうに指を組み、運転手は前方から短い指示だけを飛ばしてきた。
「揺れるぞ」
「はい」
「布、濡らすなよ!」
「分かってます」
「初仕事で荷台番か」
運転手の声が、前から飛んできた。
「不満か?」
「いえ。思っていた冒険者とは、少し違います」
「だろうな。絵本だと荷台の揺れは描かねぇ」
商人が小さく笑った。僕も、少し息を抜いた。揺れが収まったわけではないのに、荷台の空気がさっきより柔らかくなる。
西詰所を離れると、街道はすぐに石畳から土混じりへ変わった。
昨夜の雨が残っているのだろう。
轍の底には鈍い色の水がたまり、踏み固められていない端の土は黒く沈んでいる。
詰所の掲示板にあった「雨で路面が悪い」という一文を思い出す。
依頼票の中では短い注意書きだった。
でも実際に走り始めると、それがこの仕事の中心なのだと分かった。
敵が出るかどうかより先に、道が荷を揺らし、車体を傾け、到着を遅らせる。
護衛は物流と人の往来を支える仕事。
シュメーダさんの言葉が、ようやく手触りを持ってつながった。
「兄ちゃん」
商人が遠慮がちに声をかけてくる。
「はい」
「その、さっきは助かりました。実を言うと、昨日のうちに積み終えるつもりだったんですが、北側の窯が一つ止まりかけてて、今朝になって積み直しになって」
「急いでいたんですね」
「急ぎますよ。染料ってのは、届けばそれで終わりじゃないんです。向こうも人を並べて待ってる。遅れたら布を浸ける順番がずれるし、窯の火も無駄になる」
戦場の補給線ほど大きな話ではない。
でも、規模が小さいだけで、止まる困り方は同じだった。
一つ遅れれば、その先で別の誰かの作業が止まる。
荷はただの物ではない。
人の時間まで積んでいる。
「それなら、なおさら崩せませんね」
僕がそう言うと、商人は少し驚いたように目を丸くした。
「……ええ。そうなんです」
男は返事を待たずに次の荷紐へ手を伸ばしかけていた。
僕だって、ついこの前まで分かっていたわけではない。
城の中では、物は倉庫の数字や在庫表として先に見えることが多かった。
でも今は違う。
目の前にいる商人の焦りと、街道の揺れと、樽の重さが、全部一つの現実になっている。
✶
外縁北の街道へ折れてしばらくした頃、装甲車の揺れ方が変わった。
前と同じ轍を踏んでいるのに、右後ろだけ沈み込みが長い。
僕は荷台の縁から道を見る。
轍の脇にたまった水の色が、少し違っていた。
表面だけが濁っているのではなく、底から黒くにじんで見える。
しかも、道端の草が斜めに寝ている。
そこだけ、土の縁が崩れている。
「止めてください!」
声を張ると、商人がびくりと肩を震わせた。
「な、何です?」
前方から運転手の声が返る。
「理由」
「右の端が空洞みたいです。このまま寄せると後輪が落ちます!」
短い間のあと、駆動音が弱まり、装甲車が止まった。
運転手が前から降りてくる。
「空洞?」
「たぶんです。でも、試した方が早い」
道端に転がっていた折れ枝を拾い、問題の場所へ差し込む。
最初は泥を押した感触だけだったが、少し力を入れた瞬間、枝先がずぶりと深く入った。
表面の下が抜けている。
商人が青い顔になる。
「うわ……」
「今のまま右へ寄せたら、荷重で崩れるな」
運転手はそう言うと、僕を一度だけ見た。
「よく止めた」
短い言葉だった。
でも、その四文字は意外なくらい胸に残った。
「どうしますか」
「荷を少し軽くする。右後ろだけ一度抜く。布二束下ろせ」
「はい」
僕と商人で布束を二つ下ろす。
濡らさないよう、街道脇の比較的乾いた場所に並べ、その下へ荷布を敷く。
運転手は車体横の収納から薄い板を二枚引き出した。
「こういう日のための予備だ。右輪をここへ乗せる。坊主、後ろ見ろ。商人、お前は騒ぐな」
「さ、騒いでません!」
「声がうるせぇ」
やり取りのわりに、動きは無駄がなかった。
僕は荷台後方へ回り、樽が傾いた瞬間に押さえられる位置を取る。
頭のどこかで、数字を見る力を使うべきかと一瞬だけ考えた。
でも、使うまでもなかった。
危ない場所は、泥の色と沈み方だけで十分に読める。
少なくとも今は、それで足りる。
その瞬間、樽の縁に薄い影が浮いた気がした。
数字、に見えた。けれど、まばたきをすると消えている。……荷物に数字?
いや、そんなはずはない。この能力は人の頭上に出るものだ。気のせいだ。たぶん。
「出すぞ」
駆動音が一段高くなり、装甲車がゆっくり前に出る。
右輪が板へ乗り、車体が大きく傾きかける。
「止めないでください、そのまま真っすぐ!」
自分でも驚くくらい自然に声が出た。
運転手は返事をしなかった。
ただ、そのままわずかに角度を保ち、車体を抜く。
ごり、と板が泥を削る音。樽が一つ鳴る。布束が沈む気配はない。
次の瞬間、後輪が浅い轍へ戻った。車体の傾きが解ける。
「……抜けた」
商人の声には、本気の安堵が混じっていた。僕もそこでようやく息を吐いた。
派手なことは何もしていない。魔法も剣も使っていない。
あのまま進めば、次の坂で荷台を一度空にするところだった。
布束を積み直しながら、運転手がぼそりと言う。
「護衛ってのは、こういう止め方ができるやつの方が長持ちする」
「止めただけですけど」
「まだ褒めてねぇぞ」
荷紐の擦れる音が、二人の間に残った。
「今のは、分かってました」
それでも少し、口元が緩みそうになった。
✶
その後の道は、最初より静かだった。
商人が無理に話しかけてこなくなったせいもあるし、運転手が時々こちらを振り返るようになったせいもある。
監視されている、というより、荷台ごと任せられている感じに近かった。
だから僕も、ただ座っているだけではいなかった。
縄の張りが弱まっていないかを確かめる。
樽の木口ににじみがないかを見る。
布束の端が風でめくれていれば押し込む。
道が荒れそうなら、前方の轍の深さを先に読む。
一つ一つは小さい。
その小ささを面倒がれば、荷は次の坂で崩れる。
やがて空気に、わずかに酸い匂いが混じり始めた。
染料と薬液と、煮えた布の湿った匂い。
「着きます」
商人がほっとした声で言う。
街道の先に、背の低い石壁と長い屋根が見えた。
壁際には色水を流すための溝が走り、屋外には布を掛ける横木がいくつも並んでいる。
まだ乾ききっていない布が風に揺れ、その色が曇り空の下でも妙に濃く見えた。
装甲車が門前で止まると、待っていたらしい男が一人、足早に近づいてきた。
「遅いかと見てたが、まだ間に合うな」
荷受け係だろう。
商人が慌てて荷台へ向かおうとする。
「すぐ下ろします!」
「その前に」
気づけば、口が先に動いていた。
三人の視線がこちらに集まる。
「到着時確認を先にします。途中で留め具を一つ替えてます。荷傷みがないか、下ろす前に一緒に見てください」
商人が目を瞬く。
「え、今ですか?」
「今です。下ろしてからだと、どこでずれたか分からなくなるので」
運転手が短く頷いた。
「その通りだ」
荷受け係は眉を寄せたが、荷台を一瞥すると、持っていた札をすぐ別の箱へ入れた。
「……珍しいな。今日は先にそれを言うやつがいるのか」
「問題ありますか」
「いや、ない。むしろ助かる」
そこで初めて、僕は依頼票を取り出した。仮登録札と一緒に渡された薄い紙だ。まだ真新しく、折り目も少ない。
樽は三つ。布束は五つ。
染み出しなし。右側留め具一件、出発前に交換。
街道一箇所ぬかるみ回避のため荷下ろしあり。再積載済み。
口に出して確認しながら、商人と荷受け係、それに運転手の視線を受ける。
城にいた頃なら、こういう報告は誰か上の役目だった。
でもここでは、現場で見た者が言わなければならない。
自由だが、制度は固い。
たしかに、その通りだった。
「樽、開けるぞ」
荷受け係が封の状態を見て、木蓋を軽く叩く。
乾いた音が返る。
一本ずつ、異常がないか確かめる。
「漏れなし」
次に布束。
水気は少しも入っていない。
角も潰れていない。
「……こりゃ珍しい」
荷受け係がそう呟いた。
「何がですか」
商人が聞き返すと、彼は肩をすくめる。
「雨上がりの日は、だいたいどこか潰れて来る。紐が甘いか、角が濡れるか、荷台で擦れるか。そのどれかだ」
そこで彼は、僕の方へ目を向けた。
「今日はまともだ」
その評価は飾り気がなかった。
でも、妙にうれしかった。
荷下ろしが始まる。
樽が運ばれ、布束が受け取られ、染色場の奥ではすでに次の作業の声が上がっている。
遅れなかった。
窯も止まらないだろう。
たったそれだけのことで、こんなにも空気が変わるのかと思う。
誰かを打ち倒したわけではない。
何か大きな功績を立てたわけでもない。
それでも、人の手が予定通り動き続ける。
荷台の端に残った縄の跡を見て、剣を抜かない護衛もあるのだと、ようやく少し飲み込めた。
✶
荷下ろしが終わる頃には、空から細かい雨が落ち始めていた。
屋根の端から落ちる雫を避けながら、僕は依頼票を仕舞う。
荷受け係の確認印と、商人の署名代わりの簡単な記号が入っていた。
そこへ、運転手が工具袋を肩に掛けたまま近づいてくる。
「坊主」
「はい」
「戻ったら、街道の崩れかけた場所も報告しろ。荷傷み無しだけじゃ半分だ」
「道の状態も、ですか」
「次に通るやつが同じ穴に落ちりゃ、結局仕事が増える。協会はそういう報告も拾う」
それから彼は、少し間を置いた。
「剣がどれだけ使えるかは知らん」
「はい」
「だが、お前は荷を死なせない方に頭が回るらしい」
商人が横で何度も頷く。
「本当に助かりました。あのまま出てたら、たぶん半分は駄目にしてました」
「そこまでじゃなかったと思います」
「いや、駄目になってましたよ。私はそういう勘定だけは分かるんです」
その言い方が妙に真剣で、少し笑いそうになる。
運転手は鼻で笑った。
「なら、初仕事としては上等だ」
褒め言葉としては、やっぱり地味だった。助かった。
止まらなかった。無駄に壊さなかった。
口に出すとただの確認みたいなのに、依頼票の紙はさっきより少し厚く感じた。
染色場の屋根を打つ雨音を聞きながら、僕は自分の手を一度だけ見た。
剣だこより、縄の跡の方がくっきり残っていた。
それを見ても、今日はあまり目を逸らしたくならなかった。
詰所に戻れば、ラドは細けぇ新人か荷台の番人と呼ぶだろう。三郷なら、大げさに肩を叩いて初依頼成功じゃん、と笑う。
そんな想像をしてから、少し足元を見た。
ここには三郷はいない。けれど、誰かに報告したくなるくらいには、この仕事は僕の中でちゃんと残った。
詰所で名前を出したあとに待っていたのは、名前を残すための仕事だった。
派手ではない。
でも、誰かの一日を止めずに済ませるための仕事だ。
それなら、きっと悪くない。
ただ、樽の縁に浮いて消えたあの数字だけが、まだ頭の隅に残っている。
人の頭上にしか出ないはずなんだけどな。
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