ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《辺境者の歌》 三章 四節
『曲がる火は蛇のごとく、恐れの向きをも曲げて進む。』
西詰所へ戻った頃には、雨はさっきより少し強くなっていた。
屋根先から落ちる水が石畳を叩き、朝より薄くなっていた人の列をまだらに濡らしている。
僕は仮登録札と依頼票を机に出し、商人の確認印が入った欄をリゼルへ向けた。
彼は票を受け取ると、荷傷み無しの欄だけではなく、その下まで目を通した。
「路肩崩れ一箇所、再積載あり、荷受け時確認済み……」
そこで一度だけ、僕を見る。
「よく書いたな」
「言われたので」
「言われても書かねぇやつは多い」
その言葉には、前より少し棘がなかった。
商人が横から何度も頷く。
「本当に助かりました。荷も濡れなかったし、窯も止めずに済みました」
「分かった、もういい。次からは積む前に運転手と荷を見ろ」
「はい……」
小言を受けながらも、商人の顔は明るかった。
リゼルは依頼票の端に印を押し、別の紙へ何かを書き移す。
それだけで終わるはずだった。
だが、その時だった。
詰所の入口が勢いよく開き、雨と一緒に泥まみれの男が転がり込むように入ってきた。
「北の排水渠だ! 荷車が一台止まってる! 火狼が三、いや二匹か、まだうろついてる!」
室内の空気が一段だけ張る。
掲示板の前にいた何人かが顔を上げ、受付の女職員がすぐに帳簿を閉じた。
「監視組は?」
リゼルの声は短かった。
「一人火傷で下がった! もう一人だけじゃ足りねぇ! 御者が二人、荷の陰に張りついてる!」
火狼。
聞いたことはある。
火の弾を吐く狼型魔物。
名前だけなら、初級魔物図鑑の一ページ目に載っていそうだった。
火を吐く狼。
言葉にすると分かりやすいのに、入口に飛び込んできた男の泥と息は、全然分かりやすくなかった。
名前の分かりやすさに反して、たぶん実際はまったく分かりやすくない相手だ。
リゼルは数秒だけ考え、それから僕の依頼票を指で叩いた。
「お前、さっきその道を通ってきたな」
「通りました」
「崩れた場所も知ってる」
「だいたいは」
「戦闘想定ありの救援だ。嫌なら断れ」
言葉は淡々としていた。
だが、断ってもいいと言われたことで、逆に胸の奥が静かになった。
ここで受けるかどうかは、自分で決める。
城の中なら、命令で終わった話だ。
でも今は違う。
「受けます」
「即答か」
「さっき通った道なら、少なくとも無駄足は減らせます」
リゼルは僕を数秒見てから、棚の下へ手を伸ばした。
出てきたのは、使い込まれた短槍と丸い革盾だった。
「貸し出しだ。失くすな」
返事より先に、椅子がわずかに引かれた。
「僕が前に出るんですか」
「出なくて済むなら出るな。だが近づかれた時、素手で死ぬよりはましだ」
ごもっともだった。
「覚えとけ。火狼の火は、見た目より先に圧で来る。光の玉だと思うな。熱と泥と破片をまとめてぶつけられると思え」
その言い方で、少し喉が鳴る。
リゼルはもう次の書類へ視線を落としながら続けた。
「監視組が二人待ってる。お前は道案内と荷の回収、ついでに生き残れ」
「最後のは努力します」
それは励ましではなかった。
たぶん、現場ではそのくらいでちょうどいい。
入口の脇で、ラドがこちらを見ていた。
「紹介状持ちは、初日から忙しいな」
ラドは軽く言った。
ただ、腰の革紐を締め直す手は止まっていない。
冗談だけで人を見る人ではなさそうだった。
「道を見てきただけです」
「なら、道だけ見てろ。火を見ると足が止まるぞ」
言い返す前に、リゼルが短く舌打ちした。
「ラド、暇なら北門まで走れ。邪魔なら外で濡れてろ」
「へいへい」
ラドは肩をすくめて離れた。
嫌なやつだ、と思いきれないのが少し面倒だった。
たぶん、あれも現場の警告なのだ。
✶
北へ出る門の脇で待っていたのは、槍を持った痩せた男と、短弓を背負った小柄な女だった。
どちらも外套の裾が濡れている。
すでに一度現場を見てきたのかもしれない。
「補充って、そいつか?」
槍使いが僕を見て言う。
「仮登録の新人だが、道は見てる」
リゼルが代わりに答えた。
「荷を拾う手くらいにはなる」
女の方は短弓の弦を指で弾き、僕の靴の泥を見た。
期待より先に、足手まといかどうかを測っている。
「前出て倒れるのだけはやめてよ」
「そのつもりです」
「ならいい」
本当に、それで終わりだった。
雑なようでいて、必要なことだけは全部言っている。
僕たちはすぐに出た。
街道へ戻ると、雨は土の匂いを濃くしていた。
さっき通ったばかりの道なのに、数時間前よりずっと暗く見える。
短槍は見た目より軽かった。
でも慣れている重さではない。
丸盾も同じだ。
装備を渡される場面だけなら、少し冒険者らしい。
問題は、僕の手がその場面に追いついていないことだった。
持てることと、使えることは違う。
その当たり前さが、妙に嫌だった。
「崩れたのはどこ」
槍使いに聞かれ、僕は前方を指した。
「少し先です。右の端が抜けてます」
「本当か?」
「枝が深く入りました」
兵士の視線が、濡れた袖口の裂け目で止まった。
「……分かった。先導しろ」
言われた通り前へ出る。
さっきの場所に差しかかると、崩れかけた縁は雨でさらに柔らかくなっていた。
槍使いが足元を見て、小さく舌を鳴らす。
「なるほどな」
「回るなら左です。少し遠いですけど、そっちの方が固いです」
「新人にしちゃ、ちゃんと地面見てる」
褒め言葉かどうかは分からなかったが、少なくとも否定ではなかった。
そこから先は、三人とも口数が減った。
風向きと轍の深さ、雨脚、それから音。
ひとつずつ名前を置かなくても、目だけは勝手にそちらへ動いた。
戦闘へ向かっているはずなのに、気にしていることは結局、実務とあまり変わらない。
違うのは、その先に牙と火があることだけだった。
✶
排水渠の近くまで来ると、最初に匂いが変わった。
濡れた土と草の匂いに、焦げた毛の臭いが混じる。
次に聞こえたのは、低い唸り声だった。
石で組んだ排水渠の脇に、小さな荷車が斜めに止まっている。
左輪がぬかるみに沈み、荷台の布覆いの端が黒く焦げていた。
その陰に、御者らしい男が二人、身を縮めている。
そして、その荷車を囲むように二匹の狼型魔物がいた。
普通の狼より一回り大きい。
濡れた毛の隙間に赤い光が走り、口元からは熱い息が白くではなく、薄い煙みたいに漏れている。
ファイヤウルフだ。
一匹は荷車の前をうろつき、もう一匹は少し離れて様子を見ていた。
待っている。
焦って飛び込んでくる獲物を。
頭上の数字は、どちらも「8」に見えた。
だが、前にいる一匹だけ、輪郭が滲んでいる。
雨のせいか。
それとも、口元の熱で空気が揺れているせいか。
分からない。
分からないなら、数字だけで決めない方がいい。
「二匹か」
弓手が低く言う。
「痩せてるが、火は吐ける顔だな」
槍使いが答えた。その言葉の意味は、直後に分かった。
前にいた一匹が、ふっと口を開く。喉の奥が赤く灯る。
「来る」
思わず声が出た。
次の瞬間、火の塊が飛んだ。
綺麗な光球なんかじゃなかった。
熱の塊が唸りながら空気を押し、荷車の手前へ叩きつけられる。
泥が爆ぜ、火花と熱気が横へ散る。
雨に濡れた地面なのに、着弾したところだけが一瞬で白く湯気を上げた。
リゼルの言葉通りだった。
光ではない。
圧力ごと飛んでくる。
「正面から行くと焼かれる」
僕が言うと、槍使いが短く返した。
「だから?」
「右の溝にまだ水が残ってます。あそこを跨がせれば、踏ん張りが鈍るはずです。あと、吐く前に喉が光る」
「見えたのか」
「はい」
弓手が荷車と風向きを見比べる。
「風は左から右。なら、こっちから回る」
槍使いもすぐに頷いた。
「新人、お前は溝際で御者を引け。近づかれたら槍は腹じゃなく脚へ入れろ」
「はい」
「あたしが右から射る。吐いた直後は止まる。そこ叩くよ」
話はそれで終わった。立派な作戦会議ではない。でも、十分だった。
僕たちは低く姿勢を落として動き出す。雨音があるおかげで、足音は多少消える。けれど完全には消えない。
荷車の陰にいた御者の一人がこちらに気づき、顔を上げかける。
僕は口の前に指を立てた。
その瞬間、離れていた方の火狼がこちらを振り向く。
黄色い目が、まっすぐ合った。
見つかった。
「走るな!」
槍使いの声が飛ぶ。
ほとんど同時に、弓弦が鳴った。
矢が一匹の肩口へ刺さる。
火狼が短く吠え、怒りに任せてこちらへ向きを変える。
前にいたもう一匹も口を開いた。
喉が赤く膨らむ。
「来る!」
今度は僕が先に叫んだ。
槍使いが横へ飛ぶ。
火の弾が彼のいた場所を抉り、土と湯気を噴き上げる。
その熱が、数歩離れた僕の頬まで叩いた。熱い、というより痛い。
空気そのものに殴られたみたいだった。怖さは、そこで一気に現実になった。
城の訓練でも、列車護衛でも、誰か大きな背中が前にいた。
でも今は、目の前の距離に牙がある。
それでも足が止まらなかったのは、たぶんやることが残っていたからだ。
「こっちだ! 伏せたまま出てください!」
荷車の陰へ駆け寄り、御者の片腕を掴む。
男の顔は煤で汚れ、外套の袖が焦げていた。
「立てません……!」
「立たなくていいです。引きます」
丸盾を前へ出し、その陰へ男を押し込む。
もう一人にも手を伸ばしかけた、その時だった。
横から灰色の影が飛んだ。早い。想像していたよりずっと低く、ずっと近い。
僕は反射みたいに盾を上げた。直後、重い衝撃が腕ごと来る。
「っ……!」
牙が革を噛み、焦げたような熱が盾越しに伝わる。
近い。
息が熱い。
獣臭さより、焼けた肉の匂いの方が先に鼻へ刺さる。
押し返せない。でも、離されもしない。
リゼルの声が頭をよぎる。腹じゃなく脚を止めろ。
僕は盾を支えたまま、ほとんど突き上げるみたいに短槍を下から出した。
狙いなんて綺麗なものじゃない。
ただ前脚の付け根あたりへ、届く位置に押し込む。
手応えがあった。
火狼が短く悲鳴を上げ、体勢を崩す。
そのままぬかるんだ溝へ片脚を落とした。
「今!」
弓手の二射目が、火狼の首筋へ深く入った。
さらに槍使いが横から踏み込み、穂先を脇腹へ叩き込む。
火狼は泥を跳ね上げながら暴れ、二度、三度と痙攣したあと、動かなくなった。
息を吐く暇はない。
もう一匹が残っていた。
そいつは仲間が倒れたのを見ても逃げず、荷車の上へ前脚を掛けていた。
焦げた布覆いの向こうで、まだ動けない御者が一人縮こまっている。
喉が、また赤く光る。
「吐く!」
声に反応したのは、槍使いではなく弓手の方だった。
矢が飛ぶ。
だが雨でわずかに逸れ、火狼の耳を掠めるだけに終わる。
火の弾が放たれた。
今度は荷車へ直撃する。
布覆いの一部が燃え上がり、御者が悲鳴を上げた。
「くそっ」
槍使いが踏み出しかける。
でも正面から行けば、次を食う。
僕は盾を捨てかけて、寸前でやめた。
代わりに足元の泥を両手で掬い、燃えた布へ叩きつける。
一回では足りない。
もう一回。
さらに荷台脇にあった濡れた荷布を引き寄せ、燃えた箇所へ被せる。
火は小さくなる。でも、そのせいで僕の位置が完全に見えた。
残った火狼が、僕へ向き直る。黄色い目が細くなった。
まずい。そう気づいた時には、もう走り出していた。
「下がれ!」
槍使いの声。
無理だ。
間に合わない。
逃げ切れる距離でも、盾で受けられる角度でもないと分かっていて、それでも足を止めれば確実に牙が届くという計算だけが頭の中を勝手に埋めていき、結局その計算のどこにも「大丈夫だ」という答えは出てこなかった。
だから僕は、今度は下がらず、半歩だけ横へずれた。
直線で受けないために。
火狼が飛ぶ。
その瞬間、ぬかるんだ車輪の脇で後脚がわずかに滑った。
さっき見た通り、火狼も泥では踏ん張りきれない。
その一瞬のずれへ、槍使いの突きが入った。
正面からではなく、横腹を裂くような角度だった。
火狼が吠え、槍を噛み切ろうと身を捩る。
だがその首が上がったところへ、今度こそ弓手の矢が喉へ刺さる。
赤く光っていた奥が、一瞬だけ消えた。
槍使いは穂先を引き抜かず、そのまま押し込む。
ずるりと泥へ膝をつく火狼。
それでもまだ前へ出ようとした頭を、僕は反射的に短槍の石突で殴っていた。
意味があったのかは分からない。でも、そのわずかな遅れで十分だった。
弓手が最後の矢を射る。火狼はその場で崩れ、二度と立たなかった。
✶
戦闘が終わると、急に雨音が大きくなった。
さっきまでずっと耳の奥で鳴っていた血の音が、少しずつ引いていく。
短槍を持つ手が震えている。
気づかなかった。
御者の二人は生きていた。
一人は足を打っていたが歩ける。もう一人は袖の火傷だけで済んだらしい。
弓手が燃え残りを足で崩しながら、僕の方を見た。
「泥をかけたのは正解」
「とっさでした」
「そのとっさができりゃ充分」
槍使いは火狼の死骸から槍を引き抜き、泥を払う。
「前に出る足じゃねぇが、場を崩さないな」
それは、前の査定と少し似ていた。
強いとは言われない。
でも、崩れないとは言われる。
たぶん今の僕に必要なのは、そっちなのだろう。
「すみません。最後、余計なことをしたかもしれません」
石突で殴ったことを言うと、槍使いは鼻を鳴らした。
「余計なら死んでる側が文句を言う」
「死んでますけど」
「じゃあ問題ねぇ」
少し、弓手が笑った。
僕もつられて息を吐く。
その時になって初めて、膝の力が抜けそうになった。
遅れて、膝から何かが抜けていった。火の弾が飛んできた時。
盾に牙が掛かった時。あの目と近さを見た時。
ひとつひとつが、今になって体へ戻ってくる。どれも、訓練とは違った。
でも同時に、戦闘の中でもやることは確かにあった。
見ること、止めること、運ぶこと。燃えれば消し、立てなければ引く。
今はまだ、そうやって一つずつ言葉にしないと動けない。
でも、たぶんいつかは違う。
考えるより先に足が位置を選び、手が止めるべきものへ伸びるようになるのだと思う。
剣を振るうだけが仕事ではない。
それは戦闘の場でも変わらなかった。
✶
荷車の車輪は完全には抜けなかったが、三人で押せば排水渠の手前までは戻せた。
御者たちを街道中央寄りへ移し、火狼の死骸には簡単な目印を付ける。
あとで回収班が来れば、素材として持ち帰るのだろう。
帰り道、槍使いがぼそりと言った。
「火狼二匹。荷車一台。御者二名生還。荷損軽微。今日はそんなとこだな」
数字にすれば、たぶんそれだけだ。
でも、その「それだけ」に届くまでの距離が、さっきまでとは違って見えた。
西詰所へ戻ると、リゼルは僕たちの顔を見るなり、だいたいを察したらしかった。
「生きてるな」
「ぎりぎり」
槍使いが答える。
「火狼二。仕留めた。御者二人生還。荷は焦げたが積み替えれば使える」
「負傷は?」
「軽傷一、火傷一。死人なし」
リゼルは記録帳を開き、今度は僕の方を見る。
「お前は」
「排水渠手前のぬかるみ利用。御者引き出し。火勢抑制。あと……」
そこで少し迷う。
自分が何をしたと呼ぶべきなのか、うまくまとまらない。
「一匹、脚を止めました」
リゼルは何も言わず、数行だけ書きつけた。
それから依頼票へ印を押し、僕へ突き返す。
「仮登録のままでいい」
「はい」
「だが、戦闘の場で手順を捨てないやつは使える」
その評価も、やっぱり地味だった。
でも、今日の僕には、そこから先を欲しがる余裕がなかった。
派手に勝ったわけじゃない。
火狼を一人で倒したわけでもない。
今でも手は少し震えているし、頬はまだ熱い。
それでも、あの場で止まらなかった。
荷も、人も、流れも、止めずに済んだ。
たぶん冒険者の戦闘っていうのは、英雄みたいに格好よく斬り結ぶものばかりじゃない。
むしろ、こういう泥と雨と焦げ臭さの中で、止まるはずのものを止めないためにやるのだ。
僕は貸し出しの短槍を返しながら、柄に残った泥を親指でこすった。
まだ慣れない重さだった。
でも、完全に無関係な重さでもなくなっていた。
ただ、ひとつだけ引っかかったままだ。
あの滲んだ輪郭。雨のせいか、熱のせいか、倒した後もとうとう分からなかった。
次も「8」をそのまま信じていいのか、まだ決められない。
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