ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~   作:ハルキーノ

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三章五話 硬貨の重さ

《辺境者の歌》 三章 五節

『硬貨は小さな月であり、施しと報酬の潮を分ける。』

 

 火狼の報告が一段落すると、西詰所の中はさっきまでの張りを少しずつ解いていった。

 

 誰かが濡れた床へ砂を撒き、入口近くでは運び込まれた軽傷者の袖が切られている。

 

 帳簿を閉じる音と、湯を沸かす音と、短いやり取り。

 

 戦闘の直後なのに、現場はもう次の荷を降ろしていた。壊れた荷台の横へ、無傷の箱が積まれていく。

 

「貸し出し品」

 

 リゼルに言われ、僕は丸盾と短槍を机へ置いた。

 

 盾の表には噛み跡が残っている。

 

 革の端は少し焦げ、持ち手の裏には僕の汗がまだ湿っていた。

 

 短槍の方は、泥を拭いたつもりでも穂先の付け根に黒い汚れが残っている。

 

 リゼルは盾を裏返し、傷を一瞥した。

 

「……まあ許容だな」

 

「弁償ですか」

 

「今回はいらん。使って戻したならそれでいい」

 

 思わず、少し肩の力がゆるんだ。

 

「ただし、次に返す時はもう少し綺麗にしろ」

 

「はい」

 

「新人の血と泥は、だいたい見りゃ分かる。分かるが、分かった上で汚いのは別だ」

 

 まったくその通りだった。

 

 リゼルは帳簿へ何行か書き足し、それから受付の女性職員へ紙片を回した。

 

「輸送補助一件、緊急救援一件。仮登録札の記録更新」

 

 女職員は慣れた手つきで札を受け取り、机上の小さな魔術灯へかざした。

 

 淡い光が刻印の上を滑る。

 

 ほんの一瞬だけ、金属片の内側で脈打つような感触が強くなった。

 

「反映しました」

 

 それだけ言って、札を返してくる。

 

 返された札には、朝にはなかった受領印が一つ増えていた。親指で擦っても、乾いたインクは落ちなかった。

 

「報酬」

 

 受付の女職員が、小さな布袋を二つ机に置く。

 

 一つは輸送補助。もう一つは緊急救援の追加分らしい。中を確かめると、銅貨が数枚ずつ鳴った。

 

 大金ではない。リゼルが言っていた通り、安い。初報酬。

 

 その三文字だけなら、胸を張れるイベントみたいに聞こえる。

 

 でも布袋の中身は軽くて、銅貨は乾いた音で鳴った。

 

 でも、その安さがかえって現実だった。

 

 英雄譚みたいな金額じゃない。

 

 今日一日を、なんとか自分の足で終えるための金だ。

 

「確認したら、受領欄に印」

 

 僕は言われた通り、余った欄に記号を書いた。

 

 記号を書いた筆先が、最後のところで少し潰れた。この銅貨は、城の配給でも誰かの厚意でもない。

 

 僕が引き受けて、運んで、止めて、戻ってきた結果として、ここにある。

 

「初日で二件なら悪くねぇ」

 

 リゼルがそう言った。

 

「……そうなんですか」

 

「すぐ大口を回されるほど世の中甘くねぇが、日雇いで消える顔でもねぇってことだ」

 

 ラドはもう次の依頼票を見ていた。褒め直してくれる気はないらしい。

 

 僕が返事に迷っていると、横から弓手の女が口を挟む。

 

「明日、日の出前に監視の交替がある」

 

 彼女はいつの間にか、壁際で濡れた外套を絞っていた。

 

「来る?」

 

 問い方は軽かった。

 

 けれど、軽いからこそ変な遠慮もなかった。

 

「必要なら」

 

「必要だから言ってる」

 

 槍使いの男も腕を組んだまま言う。

 

「今日みたいに、走り回って終わるとは限らん。地味な見張りと、泥運びと、たまに魔物だ」

 

「むしろ、その方が助かります」

 

 僕がそう言うと、槍使いは少し眉を上げた。

 

「戦闘が怖くねぇわけじゃなさそうなのにな」

 

「怖いです」

 

 即答すると、弓手がふっと笑った。

 

「なら正常」

 

 それで話は終わった。

 

 けれど、その短いやり取りだけで、明日の朝に向かう理由は十分にできてしまった。

 

「火、見て止まらなかったんだな」

 

 入口の方から声がした。

 

 ラドだった。

 

 濡れた髪を手で払って、壁にもたれている。

 

「止まりかけました」

 

「止まりかけて動いたなら、十分だろ」

 

 褒めているのか、ただ事実を言っているのか分からない。

 

 ラドはそれ以上近づかず、僕の返した盾の噛み跡だけを見た。

 

「城上がりって聞くと、もっと偉そうに死ぬやつかと思ってた」

 

「偉そうに死ぬ予定はないです」

 

「ならいい」

 

 そう言って、彼は外へ出ていった。

 

 雨の中へ消える背中を見送り、僕は濡れた札を袖で拭いた。嫌味は残ったが、札は返ってきた。

 

 

 詰所を出ると、夕方の雨はだいぶ細くなっていた。

 

 空はまだ重いが、街の灯りは朝より近い。

 

 荷車の音、呼び込みの声、どこかの工房から漏れる金属音。

 

 僕は銅貨の入った布袋を荷袋の内ポケットへしまい、外縁区の裏通りへ入った。

 

 紹介状も、城の肩書きも、今夜の寝床までは決めてくれない。

 

 そこから先は、自分で選ばなければならない。

 

 安宿はすぐに見つかった。

 

 立派とは言い難い。

 

 看板の文字は半分薄れ、入口脇には乾ききらない薪が積まれている。

 

 冒険者の夜、という言葉から想像していたものより、ずっと湿っていて、ずっと安かった。

 

 それでも、灯りがある。

 

 今夜の僕には、それで十分だった。

 

 だが、戸口から漂う湯と布の匂いは、少なくとも人が眠る場所から来ていた。

 

「一泊」

 

 帳場にいた中年の女将が、僕を頭から足先まで見た。

 

「共同部屋、藁寝台、水桶付きで銅貨二枚。食事は別」

 

「お願いします」

 

 銅貨を二枚出す。

 

 手のひらから離れると惜しかったが、代わりに寝台番号の木札が来た。

 

 女将は銅貨を指で弾き、音を確かめてから木札を寄越した。

 

「階段上がって右。喧嘩するな。吐くなら桶にしろ」

 

「分かりました」

 

「分かってない顔だね」

 

「初めてなので」

 

「なら、なおさら桶を近くに置いときな」

 

 言い方は雑だったが、妙な親切さがあった。

 

 

 共同部屋は、すでに何人かが寝息を立てていた。

 

 冒険者風の男、荷運びらしい若者、旅商人らしい老人。

 

 誰も僕に興味を示さない。

 

 木札の番号と同じ寝台を見つけ、荷袋を下ろす。

 

 そこでようやく、身体のあちこちが一斉に自分の存在を主張し始めた。

 

 右腕が重く、肩の内側が鈍く痛み、頬もまだ少し熱い。

 

 戦っている最中には気づかなかった箇所ばかりだ。

 

 荷袋から水袋と布、それに親方にもらった簡易油を出す。

 

 水で汚れを落とし、焦げた頬に濡れ布を当てる。

 

 右腕の痣はもう、じわじわ色を変え始めていた。

 

 盾越しの衝撃が、今になって骨の近くへ戻ってくる。

 

 火狼の牙が盾を噛んだ瞬間の重さを思い出し、喉の奥が急に乾いた。

 

 近かった。本当に、近かった。

 

 もう少し角度が違えば。もう少し踏ん張りが遅ければ。

 

 考え始めると、遅れてきた震えが指先に移る。

 

 僕は濡れ布を頬から外し、深く息を吐いた。

 

 戦っている間は手順だけだった。終わると、熱と匂いと、数拍遅れの想像が戻ってきた。

 

 あれが日常になるのか。

 

 あるいは、慣れたつもりで鈍るのか。

 

 どちらも嫌だった。

 

 城へ戻る道も頭には浮かんだ。簡易身分札を出し、門番へ理由を話すところまで想像して、やめた。

 

 

 手当てを終えたあと、腹の方がようやく空腹を思い出した。

 

 安宿の一階では食事がなかったので、近くの小さな食堂へ入る。

 

 夜の外縁区は朝より騒がしい。

 

 酒の匂い、油の匂い、濡れた革の匂い。

 

 席へ着き、湯気の立つ薄い野菜煮と固い黒パンを受け取る。

 

 派手な味ではない。

 

 でも、温かい。

 

 朝と同じように、自分で銅貨を払って、自分で腹を満たす。

 

 今度はそこへ、もう一つ感覚が増えていた。

 

 今日の代金は、今日受け取った銅貨から払った。皿を持つ前に、残りをもう一度数えた。

 

 城の中にいた頃だって、食うものに困っていたわけじゃない。

 

 むしろ、あちらの方がよほど整っていた。

 

 それでも、今はこの湯気の方へ先に顔が向いた。

 

 パンをちぎりながら、布袋の中の残りを思い出す。

 

 大した額ではない。数日も遊べば消える。

 

 病気になれば数日分などすぐ消える。僕は銅貨を革袋へ戻し、口を二重に結んだ。

 

 

 宿へ戻る前、僕は西詰所の方角を一度だけ振り返った。

 

 暗くなった通りの向こうで、まだ灯りがいくつか残っている。

 

 遅れて戻ったらしい荷車が、詰所の裏へ入っていった。

 

 あそこに僕の席があるわけじゃない。

 

 名前が刻まれた机も、専用の寝台もない。

 

 でも今日一日で、まったく無関係な場所でもなくなった。

 

 明日、日の出前に行けば、掲示板の札が入れ替わるところを見られる。

 

 共同部屋の寝台に横になると、藁の匂いがした。

 

 城の寝台より固い。

 

 天井も低い。

 

 けれど、目を閉じる前に胸の中へ残ったのは、惨めさより少し別の感覚だった。

 

 今日の僕は、城の外で食って、働いて、戻ってきた。

 

 まだ強くはない。

 

 まだ顔も売れていない。

 

 寝台番号の札と、残った銅貨を枕元へ置いた。明日の分は、まだ減っていない。

 

――――――――

 

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