ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《辺境者の歌》 三章 六節
『覚えられた顔は門の石となり、通る者の影を測る。』
まだ空が白みきらないうちに、西詰所の前へ立った。
昨日の雨は止んでいる。
けれど石畳はまだ湿っていて、踏むたび靴裏が鈍く鳴る。
眠気はある。右腕の痣も消えていない。
それでも、引き返す理由にはならなかった。扉を押すと、中にはもう灯りが点っていた。
受付の女職員が帳簿を開き、奥では誰かが湯を注いでいる。
昨日と同じ匂いだ。
紙と油と、濡れた外套の匂い。
少し安心する。
「早いな」
リゼルが顔も上げずに言った。
「日の出前って言われたので」
「言われても来ねぇやつは来ねぇ」
そこでようやく、彼は僕を見た。
「よし。消えてなかったな」
挨拶代わりとしては、ずいぶん雑だった。
でも、昨日よりは明らかに扱いが違う。
いないものではなく、来るかもしれない人間として数えられている。
帳場の端で、見知らぬ冒険者二人が小声で話していた。
「王城の転移者、前線へ回された連中はまた派手にやったらしいぞ」
「へえ。こっちに来たのは外れか」
声は小さい。でも、聞こえないほどではなかった。胸の奥が一瞬だけ固くなる。
外れ。たぶん、僕のことだ。
ラドが近くの棚から油布を取って、その二人を横目で見た。
「外れでも、火狼の前で足が動くなら当たりだろ」
二人は肩をすくめ、それ以上は言わなかった。
助け舟、なのだろうか。
分からない。
ただ、礼を言うにはラドの背中がもうこちらを向いていなかった。
「今日も北ですか」
奥の席で、息を飲む気配があった。
「北。だが昨日みてぇな緊急救援じゃねぇ。荷馬車二台の通過に合わせて、灌木帯の見張り」
「戦闘の可能性は」
「ある。なきゃ武装は貸さねぇ」
そう言って、リゼルは棚の下から三つの品を出した。
一つ目は、使い込まれた旧式ライフルだった。
城で訓練に使ったものより少し短く、木のストックには古い傷が何本も走っている。
二つ目は、幅の狭い片手剣。
騎士の儀礼剣みたいな立派さはない。
兵の腰にぶら下がっていそうな、ひどく実務的な剣だった。
三つ目は、親指ほどの太さの金属棒。
握りの部分に簡単な術式が刻まれている。
「ライフルは分かるな」
「たぶん」
「たぶんで撃つな。分かる範囲だけやれ」
それから彼は金属棒を指で叩いた。
「こっちは使い捨て結界の魔法具だ。術式は
「僕でも使えますか」
「お前の方が向いてる。自前で魔法を叩き込むやつより、一定量を雑にせず流せるやつ向きだ」
工房で聞いた話を思い出す。
魔法そのものは苦手でも、外部の装置へ決まった量を流し込む方なら、僕でも扱える。
「剣は」
「最後の最後だ。ライフルで距離を作れ。結界で一手稼げ。近づかれたら、それで死ぬ気で受けろ」
「全部、最低限ですね」
「最低限を途切れさせねぇ方が、半端に得意ぶるよりましだ」
そう言い切られると、妙に納得してしまう。
僕が剣を手に取ると、リゼルは鼻を鳴らした。
「似合わねぇな」
「自覚はあります」
「だが、似合う頃にはだいたい一回死にかけてる」
笑えない冗談だった。
でも、たぶん現場では本当にそうなのだろう。
✶
詰所の外には、昨日と同じ槍使いと弓手がいた。
弓手は僕の装備を見るなり、少し口の端を上げた。
「増えたね」
「重くなりました」
「全部使うことになると面倒だよ」
モルさんは革袋の口を一度押さえ、重さを確かめるように持ち替えた。
「なら、ならない方がいいですね」
「そうとも限らない」
槍使いはライフルを一度見てから、僕の肩へ視線を落とした。
「反動で泣くなよ」
「昨日より痛い場所が増えるだけです」
「それがもう新人の返しじゃねぇな」
そう言って、彼は先に歩き出した。
北側街道の監視路は、昨日より乾いているように見えて、土の下にはまだ水が残っていた。
踏みしめるたび、薄い皮の下から泥が遅れて返ってくる。
監視位置は、街道から少し上がった低い土塁の上だった。
土塁というより、古い盛り土だ。
灌木帯と街道を両方見下ろせる代わりに、身を晒せば向こうからも見えやすい。
「荷馬車が通るまで一刻弱」
弓手が灌木の切れ目を確かめながら言う。
「今日は、まず見張り。撃つのは最後」
「はい」
「剣は抜かないに越したことはない」
「それも、はい」
「魔法具はもっと最後。慌てて切るな」
ライフル、剣、魔法具。
全部を一度に意識すると、かえって身体が固くなる。
だから僕は、頭の中で順番だけを置いた。遠いならライフル。近づかれたら剣。
間に合わない時だけ、結界。まだ流れるようにはいかない。でも、順番があるだけ昨日よりましだった。
✶
最初に異変を見つけたのは、街道ではなく灌木帯の揺れだった。
風はほとんどない。
なのに、低い枝が一つだけ逆へ返る。
枝の奥に、数字が一つ浮いた。
「6」。
低い。
だが次の瞬間、その横にもう一つ、薄く「14」が重なって見えた。
え。見間違いかと、目を細める。
でも枝は一つしか揺れていない。数字だけが二つある。
「右、灌木」
僕が小さく言うと、槍使いもすぐに目を細めた。
「数は」
息を吐く音が、少し長かった。
「まだ見えません」
「見えるまで撃つな」
ライフルの木部を肩へ当てる。照準越しの枝の隙間は、予想より狭い。
城の訓練と違って、相手は標的板じゃない。立って止まってもくれない。
次の瞬間、灌木の間から灰緑色の影が走った。
小さい。二足で走る魔物だ。
森猿人《ゴブリン》。それも三。
うち一体は短槍、もう一体は粗末な弓、最後の一体は片手に細い杖を持っている。
さっきの二つの数字が、ようやく意味を持った。
「6」は先に見えた短槍持ち。
薄い「14」は、その後ろに重なっていた杖持ち。
数字は嘘をついたわけじゃない。
僕が一つに見える場所へ、勝手に一つ分の意味を押し込めただけだ。
まずい。
弓より杖の方が。
昨日の火狼ほどではなくても、術を使う相手がいるなら、荷馬車が来た時に面倒が増える。
「杖持ち」
「見えてる」
弓手がもう矢を番えていた。僕も狙う。
弓手の矢が先に杖持ちの手元を掠めた。杖先が上がり、灌木から脚が出る。
そこへ僕のライフルが吠えた。反動で照準が跳ねる。枝の向こうで短い悲鳴が上がり、杖持ちのゴブリンが片膝をついた。
「当たった」
思わず口に出すと、槍使いが前を見たまま返した。
「喜ぶのは後だ」
残り二体がすぐに散る。弓持ちは低く伏せ、短槍持ちは斜めに回る。
単純に突っ込んでこない。ちゃんと嫌な動きを知っている。
その時、倒れかけた杖持ちが無理やり腕を上げた。
「魔法!」
声と同時に、淡い光弾が灌木の隙間から飛ぶ。
弓手は横へ落ちるように伏せ、槍使いは土塁の陰へ滑る。
僕はワンテンポ遅れた。避けきれない。だから、金属棒へ魔力を流した。
蛇口をひねるみたいに、じわっと。術式が冷たく震え、目の前に薄い膜が立つ。
光弾が膜へぶつかり、白い面の上で横へ散った。結界は一度きしんで砕けたが、光弾の向きは弓手の頭から外れていた。
「助かった!」
弓手が叫びざまに矢を返す。
今度は弓持ちの肩に刺さった。
槍使いが土塁を蹴って前へ出る。
残った短槍持ちも、そこで一気に距離を詰めてきた。
早い。
想像よりもずっと。
ライフルをもう一発。そう考えた時には遅い。
装填の間がある。僕は反射的に銃を引き、片手剣を抜いた。鞘走りの音が、妙に軽かった。
構えは綺麗じゃない。足も開きすぎている気がする。
でも、振らなければ刺される。ゴブリンの短槍が胸へ来る。
僕は剣で叩き上げようとして、半分失敗した。
真正面から弾くには力が足りない。
だから刃を滑らせるように角度だけ変える。
穂先が胸を外れ、肩口を掠めた。
「っ……!」
痛い。
でも浅い。
浅いなら、まだ動ける。
そのまま一歩だけ踏み込み、ほとんど押しつけるみたいに剣の鍔元を相手の顔へぶつけた。
綺麗な剣技ではない。
訓練で見たようなものとも違う。
ただ近い相手を止めるための、乱暴な動きだった。
ゴブリンがよろめく。僕の肩を掠めた短槍が下がり切る前に、槍使いの穂先が横から入った。灰緑の体が、その場へ崩れる。
弓手はすでに最後の一体へ照準を移していた。
足を撃ち抜かれた杖持ちが、這って灌木へ戻ろうとする。
「逃がす?」
彼女の問いに、槍使いは一瞬だけ考えた。
「いや、今回は切る」
次の矢で、杖持ちも動かなくなった。
静かになってから、僕はようやく自分がまだ片手剣を握ったままだと気づく。
右手の感覚が熱い。
左の肩口もじくじく痛む。
「肩、見せて」
弓手が近づき、僕の外套をずらした。
「浅い。縫うほどじゃない」
「よかった」
「よくないよ。よかったのは首じゃなかったこと」
その通りすぎて、何も言えなかった。
槍使いが倒れたゴブリンを足先で転がす。
「ライフル一、結界一、剣一」
ぼそりとそう言って、僕を見る。
「ひでぇ使い方だが、途切れはしなかったな」
褒められているのかどうか、少し迷う。
でも昨日よりは分かりやすい。
たぶんこれは、現場流の合格なのだ。
✶
荷馬車が来た頃には、灌木帯の確認も終わっていた。
若い御者は、街道脇の死骸を見て顔を引きつらせたが、槍使いが「もう大丈夫だ」とだけ言うと、それ以上は聞かなかった。
荷馬車二台を通し終え、死骸に簡単な目印を付けて戻る。
朝日がようやく土塁の上まで届いていた。
濡れていた地面が少しずつ色を変えていく。
帰り道、僕はライフルの重さと、腰の剣の空っぽの鞘を何度も意識した。
昨日より荷が増えたわけじゃない。
でも、持てる役目は増えている。
まだ上手くはない。
ライフルは一発ずつだし、剣は危なっかしいし、魔法は自分の才覚というより補助具の力だ。
それでも、三つが切れずにつながった。
昨日の僕なら、たぶんどこかで止まっていた。
銃を撃った後に固まるか、結界を出す前に迷うか、剣を抜いたまま足を止めるか。
今日は全部、きれいではなかった。
でも、止まりきる前に次へ移れた。
勝てるようになった、とはまだ思えない。
ただ、死なないために道具を順番に渡していく手つきだけは、少し分かった気がした。
西詰所へ戻ると、リゼルは肩口の裂け目を見て、最初に眉をひそめた。
「さっそく増やしたか」
「浅いです」
「見りゃ分かる」
報告を受けると、彼は記録帳へ短く書きつけた。
「監視任務中、小規模接敵。森猿人三。排除」
それから、少し手を止める。
「お前、銃は忘れてなかったらしいな」
「装填の遅さも思い出しました」
「結構。剣は」
「向いてないです」
「それも見りゃ分かる」
そこで、彼は机を指先で二度叩いた。
「だが、結界を落とすタイミングは合ってた。ああいう補助具は、出力の多さより雑にしねぇ方が大事だ」
工房で聞いた話と、ほとんど同じだった。
魔法の才能がない代わりに、制御の方で使い道がある。
それは少し、昔の自分を助ける言葉みたいに聞こえた。
「明日も来ます」
気づけば、自分からそう言っていた。
リゼルは顔を上げもせず、短く返す。
「なら、明日も使う」
残ったのは、その一点だけだった。
でも、その一言で十分だった。
西詰所の中を見回す。
濡れた床と帳簿、貸し出し棚、壁際の椅子。どれも昨日と同じなのに、置かれている距離だけ少し変わった気がした。
まだ僕の場所ではない。けれど、もう完全な他所でもない。ライフルも、剣も、魔法具も。
まだどれ一つとして格好よくは使えない。でも、格好よくなくても回る現場がある。
そして今の僕には、その方がたぶん合っていた。
ただ、一つだけ引っかかっている。
灌木で「6」に重なっていた、薄い「14」。数字は嘘をつかない。でも、重なったら僕が読み違える。次にあれを見落とすのが、肩の浅い傷で済む場所だとは限らなかった。
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