ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《辺境者の歌》 三章 七節
『雨の見張りは水滴を数えず、雲の裏の足音を聞く。』
夜明け前、安宿の屋根を叩く雨音で目が覚めた。
強い雨ではない。
細かくて、途切れなくて、起きている間じゅうずっと耳の端に残りそうな降り方だった。
前にいた場所で聞いた雨は、もっと騒がしかった気がする。
怒鳴り声や砲声や、何かが壊れる音に混じっていた。
今の雨は静かだ。
静かなまま、人の気を削る。
顔を洗って外へ出ると、空はまだ低かった。
石畳は黒く濡れ、軒下の水溜まりに細い輪がいくつも重なっている。
右腕の痣はまだ残っている。
肩口の浅い傷も、服が擦れるたび少し熱い。
それでも足は西詰所へ向かった。
途中、軒下でラドが雨宿りしているのを見かけた。
僕を見ると、彼は片手を上げるでもなく、顎だけ少し動かした。
「雨の日に初見張りか。ついてねぇな」
「そうなんですか」
「数字が見えるなら、雨粒にも番号振ってくれ。俺は遠慮する」
冗談なのか嫌味なのか分からない。
でも、少し笑ってしまった。
「たぶん、僕も遠慮します」
「なら目で見ろ」
それだけ言って、ラドは外套の襟を立てて先に歩いていった。
✶
朝の詰所は、いつもより声が低かった。
雨の日は、誰も無駄に大きな声を出さないらしい。
濡れた外套と紙と油の匂いの中で、リゼルが帳簿から目を上げる。
「来たか」
「来ました」
「今日は濡れるぞ」
それは確認みたいな言い方だった。
彼は棚から昨日と同じ旧式ライフルと片手剣、それに細い金属棒を一本出した。
結界の魔法具だ。
「使い捨て結界、一本。昨日と同じだ。無駄に切るな」
「はい」
「それと、銃身はこれで巻け」
投げて寄越されたのは、油を引いた布だった。
僕が受け取ると、リゼルは机を指先で叩く。
「雨の日は、人より先に道が崩れる。次に、気が崩れる」
「気が、ですか」
「見てるつもりになるってことだ」
その一言の方が、戦闘の注意よりよほど嫌だった。
前に出て殴られる怖さは分かりやすい。
でも、見ていたはずなのに見落とす怖さは、あとからしか形にならない。
✶
詰所の前には、もう監視組の二人がいた。
槍使いは外套の上からでも分かるくらい肩をすぼめ、弓手は弦へ薄く蝋を引いている。
「本当に来た」
弓手がこちらを見て言った。
「昨日の傷なら寝込んでもおかしくないよ」
「寝てても雨は止まなさそうだったので」
「そういう日ほど外は長い」
槍使いが先に歩き出す。
「北の雨除け小屋だ。街道そのものより、脇のぬかるみと水路を見る。荷馬車が止まると寄ってくるのがいる」
「魔物ですか」
「人も獣も、止まった荷は好きだ」
答えとしては十分だった。
北側街道へ出ると、雨は視界の輪郭を全部少しずつ薄くしていた。
遠くは白く霞み、近くの泥は黒く光り、草も石も轍も濡れると似た色になる。
見張りに向かっているのに、見えにくくなる。
それだけで仕事の質が落ちる気がした。
頭上の数字も同じだった。
槍使いの「17」も、弓手の「16」も、雨粒の向こうで少し輪郭が滲む。
消えてはいない。
でも、はっきり見えているとも言い切れない。
ラドの冗談を思い出す。
雨粒に番号。
そんなものまで見えたら、たぶん僕は何も見えなくなる。
✶
雨除け小屋は、土塁の脇に板と屋根だけを継ぎ足した簡素な作りだった。
三人立てば狭い。
火を焚けば煙で位置がばれるから、暖を取るものもない。
そこから見えるのは、街道の曲がりと低い排水路。あとは灌木の帯くらいのものだった。
「基本は交代で立つ」
弓手が指で視界を区切る。
「遠くの街道ばかり追わない。近い排水路、路肩、止まった荷、全部見る」
「遠くを見たくなるけどね」
僕が言うと、槍使いが鼻を鳴らした。
「遠くは、だいたい見えてから間に合う。近くは、見落としたら終わる」
それから、三人でざっと役割を決める。
弓手が一番遠くを拾う。
槍使いは小屋の外寄りに立ち、近い距離の押し返しを受ける。
僕はその間で、街道と排水路の両方を見ながら、荷馬車が止まった時の補助に回る。
昨日までなら、その並びを頭の中で何度か言い直していたと思う。
見る、止める、運ぶ。燃えれば消して、立てなければ引く。
頭の中でそこまで並べると、ようやく足が動く。
でも雨の中では、その言葉を一つずつ置いていると、たぶん少し遅い。
今日は、順番だけ覚えて、あとは視線を切らさないことにした。
✶
見張りは、時計で測るより長かった。
何も起きない時間が長い、という意味ではない。
起きないことを、ずっと確かめ続ける時間が長い。
荷馬車が一台通るたび、荷の覆いと轍の深さ、排水路の水量を順に追う。灌木の根元に変な揺れがないか見ているうちに、まばたきの回数が減っていた。
それを何度も繰り返す。
雨が一定だからこそ、途中から感覚が鈍る。
どの音も同じに聞こえ始めるし、どの濡れ方も同じに見えてくる。
一度、僕は同じ場所を長く見すぎていたらしい。
「固まるな」
槍使いに小さく言われ、はっとした。
「すみません」
「謝るより、目を動かせ」
弓手は街道の向こうから視線を外さないまま言う。
「雨の日は、何かが見えるんじゃなくて、見えなくなるのを拾うんだよ」
その言い方は、少し分かる気がした。鳥が急に鳴かなくなるとか。草の揺れが一箇所だけ変わるとか。
水の流れに、違う向きの乱れが混じるとか。派手ではない。でも、そういうものの方が先に来る。
✶
中頃になって、小さな荷馬車隊が一度止まった。
車輪の留め具が緩み、若い御者が泥の中へ膝をついて締め直している。
もう一人は馬の頭を押さえ、こちらへ落ち着かなさそうな視線を投げてきた。
「すぐ済みます!」
雨の向こうから声が飛ぶ。
槍使いは片手を上げるだけで返し、僕たちは持ち場を少し前へずらした。
こういう時が一番嫌なのだと、すぐに分かった。
人の目が車輪へ集まる。荷も止まる。足元は悪い。
待っている側にとって、都合がいい。僕は排水路へ目を落とした。
雨水が細く流れ込み、泥水の表面に無数の輪を作っている。
その中で、一箇所だけ輪の崩れ方が違った。
雨粒ではなく、下から押されたみたいな揺れ。
もう一度見る。
今度は、輪の外へ泥が細く逃げた。
何かがいる。
「右の水路」
声を張らずに言うと、弓手の視線がすぐそちらへ滑った。
槍使いは無言のまま半歩前に出る。
その動きだけで十分だった。
次の瞬間、水路脇の草が割れ、小柄な人型の魔物が二体、泥を跳ね上げて飛び出した。
一体は短い槍を、もう一体は石片でも刃物でもない、尖った金具みたいなものを握っている。
狙いは僕たちじゃない。
膝をついた御者だった。
考えるより先に、左手が金属棒を握っていた。
魔力を流す。
昨日より雑音が少ない。
術式が薄く震え、御者の斜め前へ膜が立つ。
投げられた金具がそれへ当たり、甲高い音を立てて弾かれた。
結界はその一撃で白くひび割れる。
でも、わずかな間は稼げた。
「伏せろ!」
自分でも、どの順番でそうなったのか分からないまま、ライフルを肩へ上げていた。
照準の先で、槍持ちの方が泥を蹴る。雨で輪郭がぶれる。それでも引き金を引く。
銃声が雨音を割った。弾は肩口を浅く削っただけだったが、短槍の穂先が御者から外れる。
倒せなくても、今はそれでいい。次の一手が間に合う。
その時にはもう遅く、装填より先に距離が詰まっていた。
ライフルを落とさない程度に引き、剣を抜く。
大きく振る余裕はない。
相手は崩れた肩のまま、短槍を車輪の陰の御者へ伸ばす。
僕は横から刃を差し込み、斬るのではなく、穂先を上へ押し上げた。
穂先が逸れる。そのまま一歩踏み込み、肩で体当たりする。
泥で足が滑る。でも相手も同じだった。
小柄な身体が車輪へぶつかり、脇腹をこちらへ向ける。そこへ槍使いの一撃が真横から入った。
残った一体は逃げようとしたが、弓手の矢が脚を抜いた。
二射目は、もう外さなかった。
動きが止まる。
雨だけが同じ調子で落ち続ける。
✶
「……助かった」
泥だらけの御者がへたり込んだまま言った。
僕は頷こうとして、結界棒が砕けたまま手の中に残っているのに気づいた。
使い捨てとは聞いていたが、本当に一度で終わるらしい。
「怪我は」
答えるまでに、靴底が板目をかすめた。
「ない、です。今の、魔法か」
「借り物です」
それ以上はうまく説明できなかった。
槍使いが倒れた魔物を確認し、短く息を吐く。
「二。荷狙いだな」
「雨で近くまで寄れたんだろうね」
弓手が矢羽を拭きながら、こちらを見る。
「今の、最初に結界を落としたのは合ってた」
「昨日なら、自分に使ってたかも」
本音だった。
昨日の僕なら、まず自分が死なないことしか考えられなかったと思う。
それは間違いではない。
でも、今日は車輪の陰にいる相手の方が先に見えた。
槍使いが僕の剣先についた泥を見て、ぼそりと言う。
「斬れてはねぇが、止めはしたな」
「切る前に近すぎました」
「雨の日は、だいたいそうなる」
褒められているのかどうか分からない。
ただ、否定ではなかった。
剣を鞘へ戻し、濡れたライフルを拭く。
指先は冷えているのに、動きそのものはさっきのまま少し熱かった。
見る。
止める。
運ぶ。
昨日までは、その順番を頭の中で言い直していた。
でも今は、言葉にする前に半歩だけ足が出ていた気がする。
まだ綺麗じゃない。
考えなくても動ける、というほどでもない。
それでも、少し繋がってきている。
✶
雨の見張りは、その後も続いた。
一度接敵が終わったからといって、すぐ気が緩むわけにはいかない。
むしろその後の方が危ないと、身体で分かる。
濡れたまま立ち続けると、寒さで判断が遅れる。
安心しかけたところで、視線の戻りが鈍る。
見張りは、敵を見つけた瞬間だけの仕事じゃない。
見つからない時間に崩れない仕事なのだ。
荷馬車隊を通し終えて詰所へ戻る頃には、昼前の空もまだ灰色のままだった。
報告を受けたリゼルは、帳簿へいつもの短い字を並べる。
「雨天監視。街道通行継続。小規模接敵二。負傷なし」
それから、ペン先を止めずに言った。
「見張りが立ってるだけの仕事じゃねぇって顔になったな」
「立ってるだけだと、たぶん見落とします」
「そうだ」
彼はそこでようやく顔を上げた。
「雨の日は、派手に勝つより、鈍らねぇ方が価値がある」
その評価は、少し地味すぎる気もした。
でも今の僕には、その方がむしろ正確だった。
火を吐く魔物でも、槍を持った小さな魔物でも、あるいはただの路肩崩れでも。
まず崩れるのは、道か、人の気だ。
そこを見続けられるなら、たぶんまだ先へ進める。
雨の向こうの街道を思い出す。
何も起きていないように見える時間の方が長かった。
けれど、本当に何もなかったわけではない。
戦いは、刃がぶつかった瞬間から始まるんじゃない。
たぶんその前から、ずっと始まっている。
ただ、一つだけ引っかかっている。
あの魔物が投げてきた、尖った金具みたいなもの。石でも爪でもなかった。
あれが何だったのか、結局、誰にも聞きそびれた。
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