ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《辺境者の歌》 三章 九節
『最後尾の息が乱れぬ時、列はまだ折れていない。』
翌朝、雨は上がっていた。
けれど空はまだ薄曇りで、石畳にも土塁にも水気が残っている。
晴れた、というより、濡れたまま明るくなっただけの朝だった。
西詰所の前へ立つと、湿った木と油の匂いが昨日より少し軽い。
その代わり、乾ききらない外套を肩にかけた人間が何人も出入りしていて、今日は内側より外へ向く日なのだと分かった。
「今日は半日、外だ」
中へ入るなり、リゼルがそう言った。
「北外れの路標が二本倒れてる。街道保守の二人をそこまで通し、打ち直しの間は周囲を見る。昼をまたぐが、日が傾く前には戻る」
「どのくらい外ですか」
「詰所の見張りからは外れる。王都の気配が薄くなるくらいだ」
それは、近いとも遠いとも言いにくい答えだった。
彼は机の上へ、旧式ライフルと片手剣、使い捨て結界の魔法具を順に並べた。水袋ひとつ、固い黒パンと薄い干し肉を包んだ布、折り畳んだ油布と短い縄も続く。
半日の依頼にしては、机の上がすぐ狭くなった。
「半日なのに多いですね」
「半日だからだ」
リゼルは即答した。
「日帰りのつもりが一番事故を呼ぶ。水は余らせて戻るくらいでいい。油布は休止にも荷覆いにも使える。帰りが遅れりゃ、そのまま雨避けにもなる」
言われてみれば、その通りだった。
半日で終わる保証なんて、街道の方はしてくれない。
リゼルは簡単な地図を指でなぞる。
「退路は三つ覚えろ。ここを出て、折れた柳、浅い石橋、白い地肌の出た斜面。迷ったら橋まで戻れ。橋より向こうで止まるな」
「はい」
「出来なくても路標はまた立てられる。人間はそうじゃねぇ」
その言葉が、荷より重く残った。
机の横で依頼票を整理していたラドが、こちらをちらりと見た。
「橋まで戻れ、は覚えとけよ。前にそれを無視した新人が、半日仕事を一泊二日にした」
「生きて戻ったんですか」
「戻った。だから笑い話になってる」
笑い話。
つまり、戻らなければ別の話になる。
喉の奥が少し乾いた。
✶
詰所の外では、監視組の二人に加えて、街道保守の男が二人待っていた。
一人は痩せた中年で、肩に杭を担いでいる。
もう一人は若く、釘と木槌の入った箱を抱えていた。
「新人も来るのか」
若い方が僕を見て言う。
槍使いが答える前に、弓手が肩をすくめた。
「荷を崩さないし、雨でも起きてくる」
「褒めてる?」
「現場ではだいぶ」
それで話は終わった。
大仰な紹介より、今はそっちの方がありがたい。
北外れ街道へ出る。
最初のうちは、まだ王都の背中が近い。
屋根の列も、遠くの鐘の音も、振り返れば見える。
けれど一刻も歩かないうちに、それは少しずつ薄れていった。
人の往来が減る。
轍が古くなる。
街道の両脇に伸びる草が、道へ近づいてくる。
たったそれだけの違いなのに、空気が変わる。
王都の近くにいるはずなのに、王都が前提ではなくなる。
「昨日の雨除け小屋が境目みたいなもんだ」
前を歩く槍使いが言った。
「あそこより先は、何かあっても声じゃ届かねぇ」
僕は頷き、水袋の位置を腰で確かめた。喉が渇いてから探すものじゃない。
戻る時も同じだ。疲れてから退路を思い出すんじゃ遅い。
✶
折れた柳を過ぎたあたりで、一度だけ短い休止を取った。
街道脇の低い石と荷車の間へ油布を渡し、風除けだけ作る。
天幕を張るほどではない。
でも、立ったまま食うよりずっとましだった。
黒パンは固い。
干し肉は薄いのに塩気だけは強い。
水を一口ずつ飲みながら、僕は無意識に残量を見ていた。
若い保守の男がそれに気づくらしい。
「まだ半分も来てないのに、そんなに気にするか?」
「帰りの分もあるので」
「半日だぞ」
荷台の隅で、水筒の金具が小さく鳴った。
「半日なら、なおさらです」
言うと、隣で槍使いが短く笑った。
「そいつ、そういうとこは信用していい」
弓手は黒パンをちぎりながら、前方を見たまま呟く。
「外で余る備えは荷で済む。足りない備えは死ぬ」
それ以上の会話はなかった。
ただ、その短い休止だけで身体の熱が少し戻る。
立ちっぱなしで気づかなかった疲れも、座ると少し輪郭を持つ。
そして同時に、ここで長居はしたくないとも分かる。
休む場所を自分で作れても、守ってくれる壁までは生えない。
✶
倒れた路標は、白い地肌の出た斜面の手前にあった。
街道脇の土がえぐれ、杭が一本完全に抜け、もう一本は斜めに倒れている。
昨日までの雨が路肩ごと持っていったのだろう。
「昼までに終わる」
年上の保守の男がそう言って、肩の杭を下ろした。
若い方も工具箱を開き、土を踏み固める場所を探し始める。
僕たちは三方向へ視線を割った。街道。
斜面。低い灌木の帯。
王都外縁の見張りと違って、ここでは何もかもが少し遅い。
人の通りも、音の返りも、助けが来る速さも。
だからこそ、変化の方がよく見えた。静かすぎた。風はある。
草も動く。でも、鳥の気配が薄い。それに、土の上へ残った跡が妙だった。
路標を直しに来た人間の靴跡とは別に、小さな裸足みたいな跡が斜面の裏へ散っている。
数は二つや三つじゃない。
しかも、行きより戻りが少ない。
頭上の数字は見えない。
でも、足跡の数だけが妙に頭の中で並んでいく。
能力の数字なら見間違えたと笑って済ませられるのに、これはただの足跡で、自分の目と記憶だけを頼りに数えているという事実の方が、なぜか数字そのものより信用できてしまうことが、少し怖かった。
見えない数字。
いや、ただ数えているだけだ。
能力じゃない。
なのに、いつもの数字よりそちらの方が信用できる気がした。
誰かが隠れて見ている時の足跡だった。
「待ってください」
僕は保守の男へ声をかけた。
「一度、荷をまとめた方がいいです」
誰かの呼吸が、会話の端に残った。
「は?」
「見られてる」
若い方が顔をしかめる。
「何もいねぇだろ」
「見えないのが嫌です」
その言い方は、少し弱かったかもしれない。
だが弓手はすぐに視線を細め、槍使いは僕の立っている方へ寄った。
「どこ」
「斜面の裏。小さい跡が多いです。戻りが少ない」
槍使いが一度だけ地面へ目を落とし、それだけで顔つきを変えた。
「保守、手を止めろ」
「まだ打ち込み始めたばっかだぞ」
「だから止めろ」
低い声に、さすがに若い方も黙る。
道具を慌てて寄せ集める。
僕は無意識に、先に工具箱、次に水袋、最後に抜いた杭の順で荷車へ戻していた。
すぐ使うもの。重いもの。途中で捨てても死なないもの。
考えなくても、手がそっちへ動いた。その時だった。斜面の裏から石が飛んだ。
まっすぐ人を狙ったというより、まず荷車を止めるための投げ方だった。
木箱の角へ当たれば、それだけで手が止まる。
僕は結界棒へ魔力を流し、荷車の横へ薄い膜を立てた。
石が当たり、乾いた音を立てる。
結界は一撃でひび割れたが、その間に保守の男たちは荷車の取っ手を掴んでいた。
「橋まで下がる!」
槍使いの声が走る。今度は迷いがなかった。弓手が斜面へ一矢返す。
草の向こうで短く何かが鳴いた。僕は片手剣を抜き、荷車の脇へつく。
斬るためというより、近づかれた時に手を出させないための構えだ。
灌木の隙間から、小柄な人型の影が二つ、三つ覗いた。
昨日の水路脇より数が多い。正面から来る気はない。こっちが崩れるのを待っている。
しかも、ただ待っているわけではなかった。左の影が石を拾う。右の影は、草の間へ低く沈む。
真ん中の一体だけが、わざと頭を出したままこちらを見る。
囮。
そう思った瞬間、荷車の後ろで細い縄が揺れた。
草に隠してあった蔓を引いて、車輪へ絡めるつもりだ。
「急がなくていい、止まるな!」
槍使いが前を見たまま言う。
それが一番難しかった。走れば荷車が跳ね、道具が落ちる。拾おうと足を止めれば、そこで終わる。
だから速くではなく、崩さずに下がる。
一本の影が横から低く飛び込み、荷車の後ろへ手を掛けかけた。
僕は踏み出し、剣の腹でその腕を叩いた。切れはしない。
でも外れればいい。影が泥へ転がる。
そこへ槍使いの石突きが伸び、距離を作った。
弓手の矢が、蔓を引いていた方の足元へ刺さる。
当てる矢ではない。
足を止める矢だ。
影が一瞬だけ動きを乱し、荷車の車輪が蔓を踏まずに抜けた。
「車輪、左!」
僕が言うより早く、年上の保守の男が荷車を少し右へ寄せる。
若い方は工具箱を抱えたまま、顔を真っ赤にして押していた。
誰も英雄みたいには動いていない。
でも、ひとつずつ噛み合っていた。
「橋!」
白い地肌の斜面を横目に、折れた柳を越え、浅い石橋が見える。
橋は狭い。
荷車が一本通れば、横から寄りにくくなる。
そこまで来てようやく、僕はライフルを持ち直した。
振り返り、斜面の縁へ銃口を向ける。
距離は、五十歩より少し遠い。
風は左から来ているが、この距離なら気にしなくていい。
問題は、手だった。
旧式ライフルの銃床を肩へ当てると、木と油の匂いが雨の中でも分かる。訓練で触ったものより古く、金具の角が手袋越しに硬い。
弾は一発。
次を撃つには、排莢して装填し直さなければならない。
つまり、外せば追い払う音だけが残る。
草の奥で、もう一度だけ影が揺れた。
狙い切る前に撃つのは嫌だった。
でも、今は当てることより、出鼻を止める方が先だ。
引き金を引く。
銃声が、開けた空気へ真っ直ぐ走った。
肩が遅れて押される。
銃口が少し跳ね、濡れた葉の間から土が一筋だけ噴いた。
影が下がる。追っては来ない。ただ、別の影が橋の下へ回ろうとした。
浅い水の音。水面が二度、変に割れる。
「下!」
僕が叫ぶと、槍使いが橋の欄干越しに石突きを突き下ろした。
水の中で何かが暴れ、濁った飛沫が上がる。
弓手は矢をつがえたまま、あえて射たない。
矢を残している。
射るより、射てるまま橋の上に立つ方が強い時がある。
僕はすぐに遊底を引いた。
熱を持った薬莢が指の近くを跳ね、橋の石へ当たって転がる。
もう一発、入れる。
撃つためではない。
撃てると見せるためだ。
橋を渡り切る頃には、斜面の向こうはただの草むらみたいな顔へ戻っていた。
✶
そこで初めて、誰も喋らなくなった。
荷車は無事で、水も残っている。道具も落としていない。
でも路標は直せなかった。
若い保守の男が、荒い息のまま吐き捨てる。
「結局、何も出来てねぇ」
「出来てる」
弓手がすぐに返した。
「持って帰る方を間違えなかった」
年上の保守の男は橋の向こうを見たまま、低く頷く。
「あのまま打ち込み続けてたら、荷も人も置いて来る羽目だったな」
その言葉で、胸の奥の強張りが少しほどけた。
戦って勝つだけが正解じゃない。
それは頭では知っていた。
でも、荷を残さず、人を欠かさず、仕事を途中で切り上げて戻ることにも、ちゃんと技術がいるらしい。
✶
西詰所へ戻って報告すると、リゼルは路標未修復の一言で眉を動かし、それから地図の橋の位置へ印を付けた。
「接敵は」
「小柄な魔物。複数。数は読めませんでした」
「追撃は」
「橋で切れました」
「結界一本、発砲一、荷車と工具は持ち帰り」
そこまで聞くと、彼は紙へ短く書きつける。
「保守班の再編成。人員増。明日以降だな」
若い保守の男が、まだ不満そうに口を開いた。
「でも、結局路標は」
「立て直す」
リゼルは遮る。
「次は四人で行く。先に周囲を払ってからだ」
それから僕の方を見た。
「外ってのは、遠い場所のことじゃねぇ」
昨日聞いたのと似ているのに、少し違う声だった。
「戻り道を、自分で確保しなきゃならん場所のことだ」
その定義は、驚くほど腑に落ちた。
王都から半日。
歩けば戻れる距離だ。
それでも向こうでは、鐘も壁も、誰かの判断も前提に出来なかった。
水をどれだけ持つか、どこで休むか、どの目印まで戻れば持ち直せるか。
何を捨てて、何を持って帰るか。
その全部を、自分の側へ持って行かないといけない。
たった半日の外だった。
でも、その半日は地図の距離よりずっと遠かった。