ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《辺境者の歌》 三章 十節
『信用は壺の水に似て、一滴で満ち、一滴でこぼれる。』
半日の外から二日。
その間にも、西詰所には何度か顔を出した。
荷を運び、濡れた棚を拭き、貸し出し品の汚れを落とし、短い見回りに一度ついた。
どれも話にするほど大きなことじゃない。
でも、その「大きくないこと」が続くと、詰所へ入った時に向けられる目が少し変わる。
誰なのだろう、ではなく。
今日はどこへ回すのか、という目になる。
それだけで、足の置き方まで少し変わる気がした。
✶
四月十日の朝、西詰所の中はいつもより慌ただしかった。
雨は止み、空も高い。
そのせいか、外へ出る荷の数が朝から多い。
帳場の前には二台分の依頼票が重なり、壁際では御者らしい男が紐の結び目を確かめている。
乾ききった藁の匂いと、木箱の樹脂の匂いが混じっていた。
「羽黒」
リゼルに呼ばれ、机の前へ立つ。
「今日は北の染色場まで二台。顔料の補充と、向こうで空いた樽の回収だ」
染色場。最初の輸送補助で行った先だ。
あの時は一台だった。今日は二台。
「護衛は僕を入れて三人ですか」
「四だ」
彼は顎で後ろを示す。
そこには見覚えのない若い男が、肩から縄束を下げて立っていた。
どう見ても戦士というより、荷運びか雑役の類だ。
そのさらに後ろに、ラドもいた。
今日は依頼に入っているわけではないらしい。
壁際で腕を組み、こちらの配置を聞いている。
「荷持ち兼押し手だ。戦えないわけじゃねぇが、前へ出すな」
それから机の上へ、いつもの三つが置かれる。
旧式ライフル。
片手剣。
使い捨て結界の魔法具。
「道は細い」
リゼルが地図へ指を置く。
「低地道に入ると、前と後ろが見えにくくなる。二台あると、片方が遅れた時点で食われる」
「どこを見ればいいですか」
「全部だ」
そう言ってから、彼は少し言い方を変えた。
「……いや、違うな。遅れる場所を見ろ」
その一言は、ずいぶん頭に入りやすかった。
速いところじゃない。
崩れるのは、いつも遅れたところからだ。
「お前は真ん中につけ。前を追いすぎるな。後ろが切れかけたら埋めろ」
「はい」
「戦うなとは言わん。だが撃ち勝つ前に、列を切るな」
今日の仕事は、そこにあった。
「真ん中か」
ラドがぼそりと言った。
「新人にいきなり真ん中を任せるな」
「だから置く」
リゼルは即答した。
ラドは少し黙って、それから僕を見る。
「前に出たくなっても出るなよ。後ろが離れてから気づくやつは、だいたい先頭でいい顔してる」
嫌味の形をしているけれど、これはたぶん忠告だ。
最近、少し分かってきた。
✶
外へ出ると、槍使いと弓手はもう二台の荷馬車の間に立っていた。
一台目には顔料の原料箱と布巻きの包み。
二台目には空樽を積む余地を残した木枠が組まれている。
御者は二人とも年嵩で、手綱の扱いに無駄がない。
逆に荷持ちの若者は、まだ僕と同じで「置かれた場所にいる」感じが強かった。
「今日はお前が中か」
槍使いが言う。
「真ん中、埋め役」
「悪くない」
弓手は二台の間隔を見ながら、短く補足した。
「前を助けに走らない。後ろに釘付けにもならない。どっちにも届く位置にいて」
言われなくても分かる、と言えるほど上手くはない。
だから僕は素直に頷いた。
「分かりました」
「分かってなくても、今日はそう動いて」
厳しい言い方だったが、たぶん信用していないわけじゃない。
任せ方の問題だ。隊列は簡単だった。
一台目の前寄りに槍使い。二台目の後ろ寄りに弓手。
僕はその中間で、二台の距離を見ながら歩く。
荷持ちの若者は必要に応じて前後の車輪や荷を押さえる。
単純な並びのはずなのに、動き始めるとすぐ分かる。
人の列は、置けば揃うものじゃない。
揃い続けるように、ずっと見ていなければならない。
✶
王都外縁を離れて低地道へ入ると、道の質が一気に変わった。
両側に葦が伸び、水を含んだ土は見た目より深い。
轍は乾いた上だけ白く、踏めばその下から黒い泥が返ってくる。
二台目の車輪が、ほんの少し重い。最初は気のせいかと流しかけた。だが、二度、三度と同じ場所で間が伸びる。
御者の癖ではない。積み方でもない。右後輪に泥が噛んでいる。
「少し詰まってます」
僕が言うと、後ろの御者が舌打ち混じりに頷いた。
「朝の土が残ってやがる」
「次の乾いたところで一回落とします」
返事を待たず、荷持ちの若者へ目を向ける。
「次、止めずに寄せて。棒借りる」
言ってから、自分で少し驚いた。
前に確認してからではなく、口が先に動いていた。
でも間違ってはいなかったらしい。
若者は素直に棒を渡し、乾いた石混じりの場所に来たところで、僕は車輪の泥だけを手早く落とした。
列は止まらない。
歩幅が戻る。
「そういうのは助かる」
後ろの御者がぼそりと言った。
たったそれだけのことなのに、二台の間の空気が少し軽くなる。
✶
中ほどまで来た頃、道幅がさらに狭くなった。
左は浅い水路。右は少し高い土手と低木。二台が真っ直ぐ並べば通れる。
でも横へ逃げる余地がない。嫌な形だった。
前方の槍使いも同じことを考えたらしい。振り返らずに言う。
「弓、後ろを広く見ろ」
「見てる」
「羽黒」
「はい」
「今は前じゃなく、間だけ見ろ」
僕は頷き、視線を二台の間に絞った。
前を追うのは簡単だ。
敵が見えれば、なおさらそっちへ気を取られる。
でも今日崩れるとしたら、たぶんここだ。一本道の真ん中。前が少し速くて、後ろが少し遅い場所。
その直後、一台目の馬が耳を跳ね上げた。右の低木。同時に、後ろの水路でも小さく水が弾ける。
「来る」
自分で言うより先に、身体が一歩右へ寄っていた。
低木から飛び出したのは、小柄な魔物の影が二つ。
後ろの水路からも、もう二つ。
正面から潰す気はない。
前と後ろを少しずつ引っかいて、どちらかを遅らせるつもりだ。
最初に飛んだのは石だった。
狙いは人より荷馬車。
木枠か馬の鼻先に当てて、一瞬でも止めたいのだと、見ていて分かった。
考えるより先に結界棒を握る。
魔力を流し、一台目と二台目の間、少し前寄りへ膜を立てた。
石が弾かれ、乾いた音が鳴る。
結界はその一撃で白く曇ったが、十分だった。
「前、詰めすぎるな! 後ろ、止めるな!」
声が勝手に出る。
誰かの真似みたいな命令だった。
でも、その場ではそれで足りた。
前の御者が手綱を引きすぎず保ち、後ろの御者も慌てて止めない。
その短い間で、列はまだ切れない。僕はライフルを肩へ上げた。狙うのは一番近い敵じゃない。
後ろへ回り込もうとしている一体。そいつが通れば、二台目の脇が空く。引き金を引く。
銃声が葦原に散る。着弾は深くない。だが足が止まる。
すぐに装填へ入ろうとして、右側の視界が跳ねた。
低木の陰からもう一体。
今度は一台目の馬の口輪へ手を伸ばしている。
もうライフルの間じゃない。
銃を胸元へ引き、剣を抜く。
刃を振るというより、相手の腕と馬の顔の間へ差し込む。
ぶつかる。ずれる。
それでいい。馬が横へ怯え切る前に、腕だけを外す。
殺すためではなく、ただ引き剥がすためだけに剣を使っていて、それがどれだけ器用な動きに見えても、次の瞬間には同じ剣で誰かを本当に殺す判断をしなければならないかもしれないという事実からは、目を逸らせなかった。
影は歯を剥いたが、そこへ槍使いの横薙ぎが入った。
まともに当たったわけではない。
けれど、道の外へ押し出すには十分だった。
「後ろ!」
弓手の声。
振り返ると、二台目の車輪へ別の影が低くしがみついていた。
止めるためではない。
木枠の横に結んだ縄を引き抜こうとしている。
僕は踏み返し、二台の間を斜めに戻った。
頭の中で「見る、止める」と並べる余裕はなかった。
ただ、そこが切れると分かった。
剣の切っ先ではなく、鍔元に近い重いところで相手の手首を叩く。
離れる。
すぐに荷持ちの若者へ叫ぶ。
「縄、持ち替えて! 枠じゃなく柱!」
「え、あ、はい!」
若者の手がもつれかける。
そこへ弓手の矢が一本、車輪に張り付いた影の肩を抜いた。
影が泥へ落ちる。列は、まだ動いていた。
前は止まらない。後ろも止まらない。
その間にいる僕だけが、右へ左へ短く切り返す。
格好いい動きではない。
でも、切れてはいなかった。
✶
細道を抜け、少し開けた土の広い場所へ出たところで、敵は追うのをやめた。
弓手が最後に一本だけ牽制を返し、槍使いが完全に道の外を確認する。
そこでようやく、二台とも止まった。誰も落ちていない。馬も生きている。
荷も崩れていない。でも全員、息だけは少し荒かった。
「……今の、前に出るんじゃなくて間を埋めてたのか」
荷持ちの若者が半分呆けた声で言う。
自分では、そんな立派なことをした感じはしない。
ただ、空きそうな場所へ走っただけだ。
槍使いは馬の首を一度撫で、それから僕を見る。
「お前、今日は前しか見てなかったら終わってたぞ」
「はい」
「でも見てたのは、ちゃんと列だった」
弓手も二台の間隔を見直しながら、淡々と続ける。
「段取りがいい、って言い方だと少し足りないかもね」
「足りない?」
「場の遅れを拾ってた」
大げさな褒め言葉より、よほど現場に根があった。
僕は少し、背筋が伸びた気がした。
僕はようやく剣を鞘へ戻し、胸元へ引いたライフルを持ち直す。
結界棒はもう白くひび割れ、使い切っていた。
ライフル。剣。
魔法具。少し前まで、それぞれ別の道具だった。
使うたびに頭の中で順番を組み直し、どれを出すか考えていた。
でも今は、切れそうな場所へ身体が先に向いた結果として、そのどれかが手にあった。
まだ遅い。
まだ迷う。
けれど、前よりは一つの流れに近い。
それはたぶん、勝てるようになったという話じゃない。
崩れにくくなってきた、という程度の変化だ。
でも今の僕には、その程度がちょうどよかった。
✶
染色場へ着くと、原料を受け取った職人たちは荷の無事を見てすぐに顔を緩めた。
代わりに空樽を積み込む間、僕たちは水を飲み、馬の口元を拭き、紐の張りをもう一度見直す。
戦闘の直後でも、結局やることはそういうことだ。
帰り道、細道は迂回した。
遠回りになる。
でも二台を通すなら、その方が安い。
詰所へ戻った頃には、日差しはまだ高かった。
報告を受けたリゼルは、いつものように短く記録を書きつける。
「低地道で小規模接敵。隊列保持。荷傷みなし」
その一行は、胸に残った。
討伐数じゃない。
武功でもない。
でも、今日の仕事を言うならたぶんそれで足りている。
リゼルはペン先を置き、僕を見た。
「どうだった」
問い方は雑だった。
けれど、答えを試すようでもあった。
「前に出るより、切れそうなところを見る方が難しいです」
「そうだな」
「でも、切れる前なら、まだ間に合う気がしました」
リゼルは少し口の端を動かす。
「それが分かるなら、次も使える」
その一言で十分だった。
崩れない隊列なんて、たぶん最初から綺麗にあるものじゃない。
誰かが少し遅れ、誰かが焦り、荷が揺れ、道が悪くなる。
そのたびに、切れる前の場所を拾って、短く埋める。
戦いも、荷運びも、見張りも、たぶん同じだ。
自分が前へ出るだけなら、見えるものは前だけでいい。
でも、真ん中にいるなら違う。
前が速すぎる時に声を出す。
後ろが止まりそうな時に一歩戻る。
それでも間に合わなければ、銃でも剣でも結界でも、手にあるものでわずかな間だけ作る。
指揮なんて言葉は、まだ大きすぎる。
でも、列の中で声を出すことなら、少しできた。
世界はたぶん、強い誰かが一人で前へ進めるから回るんじゃない。
崩れかけた列を、どこかで誰かが繋ぎ続けるから、どうにか前へ進む。
そして今の僕は、ようやくその中へ少し手を入れられるようになってきた。