ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《辺境者の歌》 三章 十一節
『仮の札にも真の足跡は残り、紙は門より長く覚える。』
それから三日ほど、西詰所へ通う朝が続いた。
毎日なにか大きな依頼があるわけじゃない。
むしろ逆で、ほとんどは荷の積み替え、街道脇の確認、雨で湿った倉庫の整理みたいな、話にしづらい仕事ばかりだった。
けれど、そういう仕事の方が多いのだと、ようやく身体が覚えてきた。
派手な一回より、止まらない十回。
ここでは、派手に剣を抜くより、朝に置いた箱が夕方も同じ形で残っている方が顔を覚えられるらしい。
……本当に地味だ。
でも、地味なものほど崩れると困る。
✶
四月十三日の朝、西詰所の前にはまた新しい顔が並んでいた。
革の胸当てがまだ硬そうな若者。
武器だけは立派な男。
それから、不安を隠そうとして余計に肩へ力を入れている女。
少し前まで、僕もあの列にいた。
帳場へ進む足の重さも、名前を出す時の喉の乾きも、まだ覚えている。
けれど今日は、列の横を通って中へ入る。
止められなかった。
というより、止める必要がない顔で見られた。
「羽黒、来たならこっち」
受付の女職員が、こちらを見もせずに紙片を差し出す。
名前を書くより先に、今日の仕事が出てきた。
北回り街道の荷受け補助。帰り荷の樽数確認。昼前に一度、西詰所へ戻って記録。
短い。地味だ。
でも、空いているならどうかではなく、来たならこれを回す、という扱いになっている。
それはたぶん、かなり大きな違いだった。
✶
午前の荷受けは、戦闘よりよほど静かで、たぶん同じくらい気を遣った。
樽の栓が緩んでいないか。濡れた木箱の底が抜けかけていないか。
帰り荷の数が依頼票と合っているか。一つずつなら簡単だ。
でも人が喋り、馬が動き、別の荷車が脇を通る中でやると、見落としてしまうみたいだ。
今日は帰りの樽が一つ、積み込みの途中で傾きかけた。
御者は手綱を離せず、荷受けの男は別の箱に手を取られている。
僕は近くにあった短い当て木を差し込み、樽がこれ以上滑らない角度だけ先に作った。
それから縄を引き直し、木枠へ掛け直す。
「助かった」
御者が言う。
大したことではない。
でも、大したことじゃないことで荷は落ちるし、人は怪我をする。
西詰所へ戻って報告を出すと、受付の女職員は依頼票の数字だけ確かめて、すぐに次の紙を寄越した。
「午後、倉庫裏。貸し出し品の整備補助」
「休憩は」
「食べながら歩けば間に合う」
雑だったが、無理な指示ではなかった。
僕ももう、そういう返し方の意味が分かる。
✶
倉庫裏では、貸し出し盾の革紐を替え、濡れた外套を干し、返却された槍の泥を落とした。
戦いが終わった後の道具は、だいたい持ち主の疲れ方をそのまま残している。
拭き残し。
雑な結び。
乾ききらない血。
そういうものを一つずつ落としていくのは、妙に落ち着いた。
リゼルが棚の向こうから言う。
「返ってくる道具が雑な日は、だいたい現場も雑だ」
「じゃあ、ここで分かるんですね」
「分かる。分かるから、次にどこへ誰を回すかも少し変わる」
彼はそこで、濡れた丸盾を二枚見比べた。
「お前の返すもんは、前よりましになった」
「汚れがですか」
「それもだが、崩し方が減った」
言われた意味を、少し考える。傷が減ったわけじゃない。でも、壊れ方が雑じゃない。
必要なところだけ使って、戻している。リゼルはそれ以上何も言わなかった。
ただ、僕が拭いた盾を貸し出し棚の手前ではなく、すぐ取れる位置へ戻した。
それだけで、さっきの言葉の意味はだいたい分かった気がした。
✶
その日の帰り、外縁区の雑貨屋へ寄った。
店番は、背の低い老婆だった。
机の上へ並んでいるのは高価な武具じゃない。
糸、針、安い油、布切れ、替え紐、小さな蝋塊。
今の僕に必要なのは、そのくらいだった。
「油布の切れ端と、丈夫な紐。それから縫い針を一本」
銅貨を置く。
金額はたいしたことがない。
でも、こういう買い物をする時、自分の手で稼いだ銅貨の意味が少し変わってきた気がした。
前は寝床と飯に変えるための金だった。
今は、それに加えて、明日困らないための金でもある。
宿へ戻ってから、僕は外套のほつれを縫い、荷袋の口紐を替え、油布を小さく切って内ポケットへ押し込んだ。
誰かに褒められるような準備じゃない。
でも、持っていない時に限って必要になるものばかりだ。
共同部屋の隅でそれをやっていると、女将が通りがかりに鼻を鳴らした。
「前より旅人みたいな顔になってきたね」
「冒険者です」
「同じようなもんさ。戻ってくる場所があるうちはね」
その言い方は妙に残った。
✶
翌朝も、その次の朝も、西詰所へ行った。
ある日は荷馬車の数が足りず、押し手に回った。
ある日は朝だけ見張りに出て、昼には帳場で報告を書いた。
また別の日には、貸し出しの片手剣の刃こぼれを見つけて、出る前に別の一本へ替えた。
どれも一つでは小さい。
だが、続くと流れになる。
受付の女職員は、僕が来るたび仮登録札を小さな灯りへかざした。
刻印の上を淡い光が滑り、そのたび札の奥で何かが少しずつ積み上がる感触がする。
階級が上がるわけじゃない。
見た目も変わらない。
それでも、何も変わっていないわけではなかった。
ある朝、僕が帳場へ着くと、リゼルはもう依頼票を一枚こちらへ寄せていた。
その横で、ラドが別の紙を受け取っていた。
僕の方を見て、口の端だけを上げる。
「先に紙が出るようになったか」
「たまたまだと思います」
「たまたまは三日続くと、帳場の癖になる」
言い方は相変わらず軽い。
でも、笑い方は最初に見た時より少し違っていた。
「明日も日の出前、空けとけ」
あまりに自然な言い方で、一瞬返事が遅れた。
「……分かりました」
「返事より先に来い。来たら回す」
他に足せるものはなかった。でも、その一言で十分だった。
大きな評価を受けたわけじゃない。名を覚えられたと胸を張るほどでもない。
ただ、西詰所の明日の流れの中に、僕がいる前提の小さな空きが作られている。
たぶん、こういうことなのだ。
誰かが拍手するような一回じゃない。
来るかどうか分からない人間には渡されない紙が、先に一枚置かれていること。
戻ってくる足音が、もう二度目でも三度目でも不思議じゃなくなること。
名声よりずっと小さい。
でも、生活を支えるにはたぶんそのくらいでいい。
僕は仮登録札を指で撫で、荷袋の中の油布と替え紐の感触を確かめた。
荷袋の底で、替え紐が一本だけ絡んでいる。明日の朝までに、ほどいておく必要があった。