ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~   作:ハルキーノ

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三章十二話 誘いと距離

《辺境者の歌》 三章 十二節

『誘いを退けた距離は、選んだ道の幅である。』

 

 西詰所の戸を押す手つきが、少し迷わなくなっていた。

 

 前は、中へ入るたびに、自分がここへいていいのかを一度考えていた。

 

 今はそこまでじゃない。

 

 考える前に足が中へ入って、そのあとで、今日はどこへ回されるだろうと思う。

 

 それだけの違いだった。

 

 朝の詰所はいつも通り、木と油と紙の匂いが混ざっていた。

 

 濡れた外套は今日は少ない。

 

 代わりに、壁際の掲示板の前に人が固まっている。

 

 僕はいつものように帳場へ向かったが、リゼルは依頼票ではなく、指二本で奥を示した。

 

「羽黒。今日は先にそっちだ」

 

「外じゃないんですか」

 

「外へ出す前に、札の方を片づける」

 

 札。

 

 言われて、ようやく今日がその日なのだと分かった。

 

 受付で作ってもらった仮登録札は、もう十日以上、荷袋の内ポケットへ入れたり出したりしていた。

 

 角は少し擦れ、薄い刻印の縁には細かな傷が増えている。

 

「忘れてた顔してんな」

 

「……少し」

 

「忘れて来るやつよりましだ。行け」

 

✶

 

 帳場の奥は、表の騒がしさが少し遠くなる。

 

 仕切りの向こうには細い長机が二つ。

 

 ひとつでは雑務係らしい少年が帳面を綴じていて、もうひとつには受付の女性職員が座っていた。

 

 最初の日に僕の名前を書いた人だ。

 

「羽黒承さん。仮登録札を」

 

 言われて札を渡す。

 

 女職員は小さな魔術灯を寄せ、金属板の表面に淡い光を流した。

 

 刻印の溝が、呼吸するみたいにぼんやり光る。

 

 その灯りを見るたび、この札はただの名札じゃなくて、僕がどこへ行って戻ったかを薄く抱えているのだと思う。

 

「無断離脱なし。帰還遅れなし。報告遅延なし」

 

 淡々と読み上げられる。

 

「貸与品の損耗はあり。ただし現場報告と一致。補給申請も妥当。切り上げ判断一件、査定済み」

 

 紙をめくる音がした。

 

 たぶん、そこに書かれているのは、僕が派手にやったことじゃない。

 

 濡れた外套を乾かしたことでも、荷の紐を先に見たことでも、泥の中で引く方を選んだことでもない。

 

 でも、そういうものの積み重ねが、こういう短い文に変わって残る。

 

「討伐記録は多くないですね」

 

 女職員はそう言ってから、別に責める調子ではなく続けた。

 

「ですが、問題も少ないです」

 

 その言い方は、褒め言葉としてはだいぶ地味だった。

 

 けれど、ここではたぶん、そういう評価の方が長く使われる。

 

 リゼルが遅れて入ってきて、机の端へ腰を預けた。

 

「こいつは前へ出しても、無駄に追わねぇ」

 

 それだけ言う。

 

「引く時も声を置いてく。荷を見ろと言や荷を見て、人を見ろと言や人を見てる。派手さはねぇが、止まりにくい」

 

 僕は少し居心地が悪くなった。

 

 目の前で品物の説明をされているみたいだったからだ。

 

 女職員は気にした様子もなく、札から灯りを外した。

 

「正式タグへ切り替えます」

 

 一瞬、聞き返しそうになった。

 

 仕切りの外で、誰かが小さく息を呑む音がした。

 

 布の隙間から見えたのは、ラドの横顔だった。

 

 彼は何か言いかけて、けれど口を閉じる。

 

 その間の方が、最初に笑われた時より少し重かった。

 

「……もうですか」

 

「早すぎると思いますか」

 

「いえ。ただ、そういうものは、もっと大きな依頼を何本かやってからだと思ってました」

 

「大きいかどうかは基準の一つですが、それだけではありません」

 

 彼女は引き出しを開け、薄い布に包まれたものを出した。

 

 中から現れたのは、仮登録札よりひと回り小さく、少し厚みのある金属のタグだった。

 

 鈍い銀色。

 

 表には協会印と僕の名、裏には識別のためらしい細い刻線。

 

 飾り気はない。

 

 けれど、手に載せる前から、仮札より重いと分かった。

 

「正式登録。ただし制限付きです」

 

 淡々と条件が並ぶ。

 

「単独長距離護衛は不可。対人紛争依頼は不可。協会指定の危険区域も不可。王都外縁の一つ外までは、同行条件つきで可」

 

 そこで初めて、胸の奥が少し動いた。王都外縁の一つ外。言葉にすれば、それだけだ。

 

 けれど、ここ数日の仕事で知った。外は距離だけじゃない。

 

 戻る手順と、引く手順を、自分で持っていないといけない場所だ。

 

 リゼルが鼻を鳴らした。

 

「勘違いすんなよ。強いって話じゃねぇ」

 

「分かってます」

 

「だろうな。強いやつは壊し方が雑でも一度は通る。お前はそっちじゃねぇ」

 

 少し間を置く。

 

「戻し方がましだ。だから上げる」

 

 その言い方の方が、妙に納得できた。

 

 ラドが仕切りの外で、短く笑った。

 

「戻し方、ね」

 

 嫌味に聞こえなくもない。

 

 でも、リゼルは怒らなかった。

 

「文句があるなら、お前も貸与品をもう少しましに返せ」

 

「耳が痛ぇ」

 

 そのやり取りで、ようやく胸の変な固さが少し抜けた。

 

 僕は仮登録札を見下ろした。

 

 擦れた角。

 

 細い傷。

 

 この十日ほど、内ポケットの中で、汗や雨や埃と一緒に動いてきた札だ。

 

「古い方は回収です」

 

 女職員に促され、仮札を返す。

 

 手のひらから離れた瞬間、少し軽くなった。

 

 同時に、布の上へ置かれた新しいタグを受け取る。

 

 冷たい。

 

 でも、ただ冷たいだけじゃない。

 

 薄くても、金属の重さがはっきりあった。

 

「落とさないでください。再発行は面倒です」

 

「はい」

 

「なくすと面倒なのは、札そのものより記録の照合です」

 

「気をつけます」

 

「そうしてください。あなたの記録は、まだ厚くありません」

 

 それも事実だった。

 

 厚くない。

 

 けれど、ゼロでもない。

 

✶

 

 手続きが終わると、リゼルはそのまま僕を表へ連れ戻した。

 

 帳場の横を通る時、雑務係の少年がちらりとこちらを見て、それから僕の手元のタグを見た。

 

 何も言わなかったが、前より少し扱いが変わるのが分かる目だった。

 

 掲示板の前で、リゼルは壁の右端を指で叩いた。

 

 今まで僕が見ていたのは左側だった。半日圏、外縁沿い、日帰り、雑務混じり。見慣れた紙が並んでいる。

 

 右側は違った。日をまたぐもの。見張り圏の外へ出るもの。

 

 途中の荷継ぎ小屋や水車番小屋の名が書かれた紙。

 

 必要人数の欄に、単独不可、同行必須、帰還報告厳守の文字。

 

「今日すぐ出せるって話じゃねぇ」

 

 男が言う。

 

「だが、今の札なら候補には入る。声がかかることもある」

 

 紙の一枚に、北側の荷継ぎ小屋までの補給同行とあった。

 

 二泊三日。王都外縁の見張り線をひとつ越える。

 

 文字を追っただけで、喉の奥が少し乾いた。怖くないわけじゃない。

 

 むしろ、前より何が怖いかが分かるようになってきた分、嫌な想像はしやすい。

 

 水と火、引く順番、荷の重さ、暗くなった道。

 

 戻る時に減っていてはいけないものばかりが先に浮かぶ。

 

 でも、前と違うのは、それで足が止まるだけではないことだった。

 

「行くかどうかは、まだ決めなくていい」

 

 リゼルが言う。

 

「札が変わった日に、急に遠くまで歩けるようになるわけじゃねぇからな」

 

「はい」

 

「ただ、見える紙は増える」

 

 それだけ言って、彼は別の呼び出しへ向かった。

 

 僕はしばらく掲示板の前に立っていた。

 

 手の中のタグはまだ冷たい。

 

 指先で縁をなぞると、小さな刻線が確かに触れた。

 

 札が変わっても、腹は減る。

 

 宿代も要る。

 

 朝が来たら、ちゃんと起きて、靴紐を結んで、必要なものを見て回るしかない。

 

 たぶん、明日から急に別人になるわけじゃない。

 

 それでも、見える範囲が少し先へ伸びたのは確かだった。

 

 今までは戻るために外へ出ていた。今日からは、もう少し先まで出ることも考える。それだけの違いだった。

 

 それは大きな決意というほど立派なものじゃない。

 

 ただ、次の紙を見た時に、目を逸らさないで済むくらいの変化だった。

 

 僕は新しいタグを内ポケットへ入れた。

 

 仮登録札が入っていた場所に、同じ向きで収まる。

 

 違うのは重さだけだ。

 

 でも、その少しの重さなら、たぶん持って歩ける。

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