ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《辺境者の歌》 三章 十四節
『自らの足で出る者は、呼ばれぬ沈黙を杖として持つ。』
まだ空が夜の色を残しているうちに目が覚めた。
共同部屋の中は暗く、寝返りの音と、誰かの浅い寝息だけがしている。
窓の隙間から入る風は冷たかったが、二度寝する気にはならなかった。
昨日のうちにまとめておいた荷を、もう一度だけ確かめる。
水袋、黒パン、干し肉、油布、替え紐、針、結界具を入れる布袋。
指で触れていくと、布の冷たさだけがやけにはっきり残った。
確認する順番が、少しずつ決まってきている。
何かを忘れないためでもあるし、手順を繰り返すことで、まだ形にならない不安を押さえつけるためでもあった。
内ポケットの中には正式タグがある。
触れると、薄い金属の冷たさがすぐ分かった。
昨日と同じ重さ。
でも、今日はそれを持って行く先が違う。
✶
西詰所に着いた時、空はようやく群青から灰色へ変わり始めていた。
戸口の前にはもう槍使いと弓手がいて、壁際には木箱が二つ積まれていた。
どちらも金具で補強された補給箱らしく、角に擦れた跡が多い。
槍使いは僕の顔を見るなり、短く言った。
「遅れてないな」
「はい」
「ならいい」
それで挨拶は終わった。
弓手は箱の紐を引き直しながら、こちらをちらりと見る。
「眠れてはいる顔だ」
「少しは」
「足りてりゃ十分だ」
そこへリゼルが、帳場の奥からいつもの三つを持ってきた。
旧式ライフル。
片手剣。
使い捨て結界の魔法具。
「帰還報告は明後日の日暮れまでだ」
机の上へ並べながら、彼が言う。
「荷継ぎ小屋で一泊。向こうの帳簿を受け取って戻る。道が荒れてりゃもう一泊延びる。延びるなら小屋から発信石を使え」
「はい」
「お前は前半、中。後半、後ろだ」
「分かりました」
「見失うな。追いすぎるな。切るなら荷より先に退路だ」
短い言葉ばかりだった。
でも、その短さの中に、外へ出す相手への最低限の信頼があるのが分かった。
彼はそこで少し僕を見た。
「正式タグを貰ったからって、急に広く歩けるわけじゃねぇ」
「はい」
「だが、昨日よりは先に出られる」
それだけ言って、補給票へ印を押す。
乾いた音が、朝の帳場に小さく響いた。
その音に重なるように、外から別の声が聞こえた。
「第二王城の連中、また北へ回されたらしい」
「人数、前より少なくなかったか」
「知らねぇよ。転移者様の話は上で止まる」
誰の声かは分からない。
でも、言葉だけは耳に残った。
人数が少ない。
それが本当なのか、ただの見間違いなのかも分からない。
確かめに行く場所は、今の僕の足元にはない。
僕は補給箱の紐を握り直した。
今持っているものを落としたら、たぶん何も確かめられない。
✶
出発した頃には、東の空だけが薄く明るくなっていた。
槍使いが前。
木箱の片方を僕が背負い、もう片方を弓手が持つ。
道が広いところでは二人で運び、狭いところでは片方ずつ持ち替える。
最初のうちは、まだ王都外縁の気配が背中にあった。
遠くの鐘。朝の煙。
石畳の残り方。人の手が届く範囲の朝だ。
それでも北へ向かって歩くうちに、通りは土の色を増し、轍は深くなり、道端の草は何度も踏まれた形から少しずつ外れていった。
見張り台がひとつ見える。
その先に、低い柵と石柱があった。
前に半日だけ外へ出た時、リゼルは「橋まで戻れ」と言った。
あの時は、戻る線がまだ近くにあった。
今日は違う。
あの石柱より向こうへ行くのが、今日の仕事だった。
「止まるな」
槍使いが言う。
「番兵の確認だけで済む」
見張り線の番兵は眠たげな目でこちらを見たあと、補給票とタグを順に確かめた。
僕の正式タグの刻線へ視線が一瞬だけ止まる。
「西詰所の補給同行か」
「そうだ」
「戻りは二日後の予定」
弓手がそう答えると、番兵は柵の脇を顎で示した。
「道は昨日の風で少し荒れてる。斜面側は踏むな」
「帳簿を受け取ったら、その印を消すな。戻りの照合が詰まる」
注意はそこで終わった。
城門を出た時ほどの重さはない。
けれど、石柱の横を通り過ぎた瞬間、腹の底で何かがひとつ沈んだ。
守られた内側から、戻れる前提の外へ出る。
たったそれだけの差なのに、足の裏へ伝わる感触まで少し違って思えた。
✶
見張り線の外は、急に荒野になるわけではなかった。
道は続いている。
轍もある。
前に誰かが通った痕も、荷を落として欠けた木片も残っている。
ただ、王都の都合で整えられた気配が薄い。
道が少し崩れていても、そのままになっている。
風除けの柵が傾いていても、直されるのは後回しだ。
小さな異常が小さなまま積み重なっていて、それが内側との違いになっていた。
「右」
槍使いの声で足を止める。
前方の斜面の縁が少し崩れ、表土が乾いた音を立てて落ちていた。
弓手が荷を下ろす。
「昨日の風だな」
「箱、回せます」
言うと、槍使いはすぐ頷いた。
「やれ」
僕と弓手で木箱の向きを変え、崩れた側を避けて運び直す。
槍使いは前へ出て足場を確かめ、踏んでいい場所だけを短く指示した。
「そこ」
「次、石の脇」
「今」
それだけで足りた。
箱の重さは腕に残る。
汗も出る。
けれど、誰かが全部決めてくれるわけではない場所で、自分の判断がちゃんと役に立っている感覚はあった。
弓手が箱を下ろしたあと、小さく言う。
「悪くない」
褒め言葉としては短すぎる。
でも、今はそのくらいで十分だった。
✶
日が上がりきる前に、一度だけ長い振り返りをした。
後ろにあるはずの王都外縁は、低い起伏と朝靄の向こうへ半分沈んでいた。
屋根はもう見えない。
鐘の音も届かない。
あるのは、踏んできた道だけだ。
その道も、少し先で曲がり、土のうねりに紛れて見えなくなる。
「どうした」
槍使いが前を見たまま訊いた。
「いえ」
少し遅れてから、続ける。
「思ったより、見えなくなるのが早いなと」
弓手が後ろを一度だけ見て、すぐ戻した。
「近い帰り道ほど、地面の向こうへ消えるのは早い」
その言い方は、変に慰める感じがなかった。事実として言っているだけだ。
僕はもう一度だけ後ろを見る。城を出た日のことを思い出した。
あの日は、外へ出されたという感覚の方が強かった。
今は違う。
まだ一人ではない。
まだ戻る前提の仕事だ。
それでも、自分でこの道の先へ足を置いているという感覚があった。
戻れるまま、先へ行く。その違いは小さい。けれど、足裏には残った。
「休止まであと少しだ」
槍使いが言う。
「そこで水を回す。飯は立ったままでも食えるようにしとけ」
「はい」
返事をして、前を見る。道はまだ続いていた。
荷継ぎ小屋は見えない。見えないままでも、もう歩ける気がした。
王都外縁の端は、気づけば後ろに回っている。
石柱を越えた時から、ここはもう単なる帰り道ではなくなっていた。
僕は箱の重みを背に受け直し、荒れた外道を力強く踏みしめた。