ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《辺境者の歌》 三章 十五節
『薄い名鑑は人を軽くせず、記されぬ重さを余白へ移す。』
荷継ぎ小屋へ着いた時には、日がだいぶ傾いていた。
小屋といっても、四方を板壁で囲っただけの粗末な建物だった。
片流れの屋根。
低い物見台。
外へ積まれた空箱と、乾ききらない薪束。
中から出てきた管理人は、補給票と箱の封を順に見て、受け取りの印を帳簿へつけた。
その印が、見張り線の番兵が言っていた「戻りの照合」に繋がるのだと、そこでようやく実感する。
荷を渡し、回収する帳簿と空箱を受け取る。
作業は短い。
でも、短いからこそ手順を飛ばす余地がない。
槍使いは火の位置を見て、弓手は壁の隙間風を確かめ、僕は水袋と荷の結び直しを見た。
夜は長くなかった。見張りの交代。固いパン。
少しぬるい湯。外の風の音。
火のそばに座っていても、誰かが急に昔話を始めることはない。
こっちが何かを話さないといけない空気もない。
その短さなら、受け取れた。
僕は壁にもたれて、火の向こうの二人を見ていた。
槍使いは槍を膝に置いたまま目を閉じ、眠っているのか起きているのか分からない。
弓手は弦の具合を見終わると、それ以上は喋らず、灯りの届かない方へ視線を置いた。
近すぎない。
でも、背中を預けるのに足りないわけでもない。
今の僕には、その距離がちょうどよかった。
✶
帰り道は、行きより少し早かった。
同じ道でも、一度通ったあとは足の置き方が変わる。
崩れた斜面の位置も、風除けの柵の傾きも、朝より先に目へ入る。
道の途中で、弓手が箱の紐へ手をかけるより早く、僕は緩みかけていた結び目に気づいた。
「止めてください」
言うと、槍使いがすぐ振り返る。
「どうした」
「左の結び目、少し遊んでます」
箱を下ろして見れば、たしかに紐が半分ほどずれていた。
歩き続けていれば、次の揺れで木枠に当たっていたと思う。
弓手が一度だけ僕を見て、それから紐を引き直す。
「見えてきたな」
言い方は軽い。
けれど、その一言がやけに残った。
見えるものが増えたのは、数字だけじゃないのかもしれなかった。
✶
西詰所へ戻った頃には、空はもう赤みを失いかけていた。
帳場の灯りがつき始めている。
湿った木の匂い。
誰かの報告の声。
出る時には背中にあった場所が、今は正面に戻っていた。
受付職員が帳簿と補給票の印を照らし合わせる。
荷継ぎ小屋の受領印。
見張り線の通過記録。
戻りの時刻。
乾いた確認がいくつか続いて、それで終わる。
「問題ありません」
その一言で、肩紐の食い込みが少し遅れて戻ってきた。
リゼルは、受け取った帳簿をぱらりとめくり、すぐ閉じた。
「予定通りだな」
「はい」
「何か欠けたか」
「箱の紐が一度緩みました。締め直して、そのまま戻りました」
リゼルの指が帳簿の背を軽く叩いた。箱の紐の話だけ、音が一つ増える。
「他は」
「ありません」
彼は短く鼻を鳴らした。
「なら十分だ」
それで報告は終わりだった。
槍使いはそこで荷を下ろし、肩を回した。
「これで拾った借りはなしだ」
「はい」
僕もそう返す。
弓手が横で笑う。
「次は勝手に寄りかかるなよ」
「そのつもりです」
「ならいい」
別れの言葉としてはあまりに薄い。
けれど、その薄さがむしろ自然だった。
感謝はある。
でも、それで何かが変わったふりをしなくていい。
僕は二人に頭を下げた。
向こうは軽く手を上げただけだった。
それで足りた。
帳場の奥で、ラドが返却棚に片手剣を戻していた。
こちらを見ると、ほんの少し顎を上げる。
「戻ったな」
言葉が一度途切れた。
「戻りました」
「なら、次は戻る前提で出ろ」
最初に笑われた時より、ずいぶん短い。
でも、今はその短さの方が分かりやすかった。
✶
翌朝、僕は呼ばれる前に西詰所の掲示板の前へ立っていた。
まだ人は多くない。朝の灯りも弱い。でも、紙はもう貼り替わっている。
半日圏。日帰り。
外縁沿い。見張り線ひとつ外。
今までは、回される紙を見ることが多かった。
今日は違う。自分で見る。自分で選ぶ。
右端の列に、短い依頼票が一枚あった。北の見張り線外、小屋詰め補助。二日。
現地保守組と合流。単独長距離護衛ではない。危険区域でもない。
正式タグ条件内。派手ではない。
でも、今の僕が持って行ける範囲の外だった。
「それにするのか」
後ろから声がして振り向く。
リゼルだった。
「はい」
「理由は」
試されているというより、確認だった。
「昨日通った線の先だからです」
自分でも驚くくらい、言葉はすぐ出た。
「戻り方は少し分かりました。その先で、今度は何を見るべきか確かめたいです」
リゼルは少し黙った。
「……もう十分だろう」
その一言が何を指しているのか、すぐには分からなかった。
名乗ることか。待つことか。
呼ばれる側でいることか。彼は依頼票を外し、机の上へ置いた。
「その紙なら通す」
「ありがとうございます」
「礼はいらん」
彼はいつも通りの顔で続ける。
「出るなら、戻る算段だけは先に決めろ」
「戻る方を先に、ですね」
「迷ったら切れ。切れないなら出るな」
「そこは、忘れないようにします」
「……行け」
命令なのか許可なのか、よく分からない短い言葉だった。
でも、今はそれでよかった。
✶
荷は重くない。必要なものだけを背負う。ライフルの重さ。
片手剣の重さ。水袋の重さ。
正式タグの薄い重さ。王都外縁区の北寄りの街道へ出る。
朝の風が、建物の間ではなく、開いた方から吹いてくる。
見張り線の石柱は、もう前に見えていた。今日の依頼票は、その外から始まっている。
誰かに追い出されたわけじゃない。誰かに連れて行かれるわけでもない。
昨日までに札へ刻まれた短い記録と、荷袋の中の替え紐と、足が覚えた戻り道。
それを持って、自分で次の場所へ向かう。
振り返れば、西詰所の屋根はまだ見えた。
戻る場所はある。
だからこそ、その外へ自分で出る時、足が少し重かった。
でも今日は、そこへ戻るためだけに歩き始めるわけじゃない。
前にある道は、まだ誰のものでもないように見えた。
少なくとも、今の一歩は、僕が選んだ。土を踏む。
荷が揺れる。朝の外気が肺へ入る。
石柱の脇を抜ける時、腹の底で小さく何かが鳴った。
それだけのことが、前より少し確かだった。
僕は立ち止まらず、そのまま王都外縁の先へ歩き出した。
見張り線の外側に、一晩使える小屋がある。
もう場所は知っている。次はそこから始められる。