ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《辺境者の歌》 三章 十七節
『茶葉を焚かぬ部屋で、顔だけが香の代わりに残る。』
2374- 第一王城応接室 第二婦人視点
茶葉を焚かない部屋は寒かった。
第二婦人は、窓のない小さな応接室で、指先だけを膝の上に重ねていた。壁の石材は古く、湿気を含んでいる。香を焚かなければ、王城という建物はこんなにも土に近い匂いがするのだと、久しぶりに思い出した。
ここでは、茶を焚かない。
茶葉の香りは心を落ち着かせる。記憶の尖りを丸くし、眠れない夜を眠れる夜に変える。ほんの少し使うだけなら、医師も神官も何も言わない。
ほんの少しで済まない夜もある。
「ご報告を」
壁際に控えていた男が、封書を一つ差し出した。封蝋は割られていない。割られていないように見えるだけで、中の文面はすでに写し取られている。
「第二王城側の諜報魔法は、例の転移者たちの出現以降、通りが悪くなっています。森田ロハンの防諜が強化された可能性があります」
「森田は、昔から嫌なところに手が届く女です」
第二婦人は、封書を受け取らなかった。
「それで、ヘルドランテは」
「転移者の保護を口実に、第二王城の統制を固めています。表向きは客人扱い。実態は、軍事資産の囲い込みです」
「あの子に、そんな器用なことができるかしら」
男は答えなかった。
答えないことが、時に一番正直な返答になる。
ヘルドランテは、弱い子ではない。けれど、王には向かない。優しさと理屈を同じ皿に載せて、どちらも落とさず運べると思っている。そんな人間に王冠を渡せば、王冠の方が先に割れる。
ランドマールは違う。
あの子は、王冠が何かを知らない。
知らないから、汚れない。
「ランドマール殿下は、今朝も書庫に」
「本を読ませておきなさい。難しすぎる本は下げて。古い英雄譚でいいわ」
「会議資料は」
「見る必要はありません。必要な言葉は、こちらで用意します」
第二婦人は、そこで初めて封書へ目を向けた。
中に書かれているのは、おそらく数字だ。
兵数、糧秣、爵位、通行許可、賛同者、保留者、裏切る可能性のある者。
臨時都市貴族議会の票読みも入っているだろう。
誰が第二王子を嫌い、誰が第三王子を軽んじ、誰が国務代行法の延長に口をつぐむか。
人を動かすには、数字がいる。
だが、ランドマールに数字を見せてはいけない。
あの子は、数字を見ると考えてしまう。考え始めると、記憶の奥に置いてきたものへ手を伸ばす。
タリスハルリ。
その名を胸の内で呼んだだけで、第二婦人は少し息を止めた。
十日。
あの子は十日、何も食べなかった。泣くことも、怒ることもせず、ただ寝台の上で目を開けていた。声をかけると頷く。水を近づけると口を開ける。けれど、飲み込まない。
人は悲しみで死ぬ。その事実を、第二婦人はあの日に知った。
だから、茶葉を使った。六年分を消した。
兄と走った庭。兄に叱られた夜。兄が熱を出した日に、ランドマールが椅子の上で眠ってしまったこと。些細なものほど、消す時に抵抗した。
あの子はそれで生きた。
ならば、間違いではない。
「エルトラル侯爵は」
第二婦人が聞くと、男は別の紙を開いた。
「王家への忠誠を口にしています。ただし、第二王子派にも第三王子派にも距離を取っています」
「賢いふりをしたいだけです」
「接触を続けますか」
「ええ。ランドマールに会わせなさい。あの子は、人の警戒心を下げる」
それは才能ではない。
傷だ。
幼く見える者を、人は侮る。侮った相手の前では、余計な本音をこぼす。ランドマールが席にいるだけで、会議室の刃は少し鈍る。
第二婦人は、それを利用している。
自覚はある。
自覚があるからといって、やめる理由にはならない。
「転移者たちは」
誰も急いで続けなかった。
「今のところ、第二王子側の戦力として数えられています。ただ、扱いを誤れば反発もあり得ます」
「反発させればいいのです」
男が、少し顔を上げた。
第二婦人は、声を荒げなかった。
「異邦人が第二王子のもとに四十名。噂だけで十分です。第三王子暗殺のために集められた。第二王城は異界の兵で王都を脅かす。そう聞けば、古い貴族は勝手に震えます」
「都市側は」
「もっと簡単です。迷宮租税と都市税が止まる、と言えばいい」
「事実とは限りません」
「事実は遅いのです」
第二婦人は、ようやく封書を受け取った。
紙は薄い。
けれど、手の中で妙に重かった。
「先に動くのは、いつも噂です」
その時、廊下の向こうから足音が聞こえた。
軽い足音。
急いでいるのに、急いでいるつもりのない足音。
「ランドマール様が」
「通しなさい」
第二婦人は、封書を袖の内側へ滑り込ませた。
部屋には茶葉の匂いがない。
だからランドマールは、入ってすぐに少し首を傾げるだろう。
あの子は、匂いの違いにだけは敏い。扉が開く前に、第二婦人は笑みを作った。
母の顔。王族の顔。
どちらが先だったかは、もう自分でもよく分からなかった。
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