ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~   作:ハルキーノ

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三章十九話 見張り線の外

《辺境者の歌》 三章 十九節

『見張り線の外へ出る時、線を引いた手もまた試される。』

 

 石柱の向こう側は、思っていたほど違わなかった。

 

 土の色も同じだ。

 

 空の高さも同じ。

 

 道端に生えた背の低い草も、王都外縁の内側で見たものと大きく変わらない。

 

 それなのに、足を一歩進めた瞬間、背中のあたりが少し冷えた。

 

 見張り線。

 

 石柱には、そう刻まれていた。

 

 文字の下には、王都外縁警備隊の印と、協会の小さな刻印が並んでいる。

 

 ここまでは巡回が厚い。

 

 ここから先は、巡回が薄い。

 

 説明としてはそれだけだ。

 

 けれど、最近はその「それだけ」がひどく重くなっていた。

 

 王城内での王位継承を巡る対立、いわゆる『内戦』の足音が、こんな外縁にまで響き始めていたからだ。

 

 検問は以前の倍の時間がかかり、兵士たちの目は魔物よりも「同族」を警戒しているように鋭かった。

 

 ここを越えれば、もう王都の法も、騎士たちの庇護も届かない。

 

 誰の味方か、それだけで剣が抜かれる世界が始まっている。

 

 でも、その「それだけ」が足首に引っかかる。

 

 後ろを見れば、西詰所の屋根はもう小さかった。

 

 前を見れば、道は緩く北へ曲がっている。

 

 僕は荷袋の紐を一度だけ引いた。

 

 替え紐、水袋、携帯食、乾いた布、火打ち具、小型の魔導灯、依頼票の写し、協会タグ。

 

 全部ある。

 

 ある、と確認してから、それでももう一度触りたくなる。

 

 それを我慢して、歩いた。

 

 戻る前提で出ろ。

 

 ラドの言葉が、短い釘みたいに頭の中に残っている。

 

 戻る。

 

 そのために、まず出る。

 

 たぶん順番はそれで合っている。

 

 

 道は、王都の中よりずっと正直だった。

 

 踏まれている場所は硬い。

 

 水が流れた場所は少し削れている。

 

 荷車がよく通る場所には、車輪の跡が二本残っている。

 

 ただ、その正直さは親切とは違う。

 

 看板は少ない。

 

 道標は古い。

 

 分かれ道には、どちらが新しい道で、どちらが古く使われなくなった道なのか、ぱっと見ただけでは分からない場所がある。

 

 西詰所でもらった簡単な地図を開く。

 

 北の見張り線外で小屋詰め補助。現地保守組と合流。石柱から北へ半刻、古い二股で右、割れた道標を越え、沢沿いの小屋。

 

 書いてあることは少ない。

 

 でも、紙の上では分かる。

 

 問題は、紙の上の「古い二股」が目の前でどれなのかだ。

 

 しばらく歩くと、道の先に荷馬車が見えた。

 

 馬車といっても、王都で見るものほど立派ではない。

 

 車輪は片方だけ新しく、荷台には麻袋が斜めに積まれている。

 

 御者台の男は、帽子を深く被り、片手で手綱を持っていた。

 

 頭の上に、数字が見えた。

 

 17。

 

 ただ、その横で、荷台の陰にもう一つ細い数字が見えた気がした。

 

 3。

 

 いや、違う。

 

 見直すと、そこには袋の口を縛った紐が垂れているだけだった。

 

 数字はない。僕は足を止めた。疲れているわけじゃない。

 

 朝も食べた。水も飲んだ。でも、今のは何だった。

 

「兄ちゃん、道の真ん中に立つな」

 

 御者が言った。

 

「すみません」

 

 慌てて脇へ寄る。

 

 荷馬車が近づくと、麻袋の匂いがした。

 

 穀物か、乾いた豆か。

 

 荷台の端には古い布がかけてあり、その下に何か硬いものが入っている。

 

 数字は、御者の上にだけ見えた。

 

 17。

 

 さっきの3はもうない。

 

「西詰所からか」

 

 御者が僕のタグを見て言った。

 

「はい。保守小屋まで」

 

「なら、この先の二股は右だ。左は昔の木炭道で、今は沢に落ちてる」

 

「ありがとうございます」

 

「礼より、道を覚えとけ。帰りに間違えるやつの方が多い」

 

 荷馬車は、それだけ言って王都の方へ進んでいった。

 

 車輪の跡が、僕の横を通り過ぎる。新しい跡と、古い跡。そのうち一本は、少し外へぶれていた。

 

 僕は地図に小さく印をつけた。帰りに間違えるやつの方が多い。たぶん、覚えておいた方がいい。

 

 それから、さっきの数字のことも。人の上に見える数字。それ以外の場所で揺れたように見えた数字。

 

 見えたのか。見間違えたのか。どちらにしても、今は答えを出せない。

 

 答えを出せないものを、答えみたいに扱わない。

 

 そう決めて、僕は歩き出した。

 

 歩きながら、地図の端を指で押さえる。

 

 さっき聞いた道のことを、もう一つ書き足したくなった。

 

 左は落ちている。帰りは間違えやすい。荷馬車の御者は、帽子を深く被っている。

 

 最後の一つはいらない。いらないはずなのに、書きたくなる。

 

 知らない道で、知らない人から聞いたことを、自分の紙に置ける。

 

 地図を畳み直すと、さっきより歩幅が戻った。

 

 軽くなった分、靴音が大きくなった気がして、すぐに歩幅を戻した。

 

 

 二股は、御者の言った通りだった。

 

 右の道は細いが、まだ踏まれている。

 

 左の道は、入口だけを見ると広い。

 

 けれど少し先で草が深くなり、車輪の跡が消えていた。

 

 知らなければ、左へ行ったかもしれない。

 

 僕は右へ進む前に、左の道の入口を少し見た。

 

 草の奥で、地面が斜めに落ちている。水音がかすかに聞こえた。沢に落ちてる。

 

 たぶん、あれのことだ。地図にもう一つ印をつける。左、旧木炭道、落ち。

 

 文字にすると、少し安心する。安心しすぎないように、地図を畳んだ。

 

 道はそこから少し狭くなった。両側に低い木が増え、枝が肩に触れる。

 

 王都の建物が見えなくなると、音も変わった。

 

 車輪の音がない。遠くの人声がない。市場の鐘も、訓練場の号令も聞こえない。

 

 代わりに、葉擦れと、自分の靴音がある。自分の靴音は大きい。

 

 一人で歩いていると、自分が出している音の量が分かる。

 

 荷袋の金具。水袋の揺れ。布の擦れる音。

 

 ライフルの革紐が肩で鳴る音。全部、僕の音だ。急に、それが恥ずかしくなった。

 

 誰も聞いていないのに、聞かれている気がする。

 

 足を少しゆっくりにする。靴底の置き方を変える。枝に触れないよう、肩を引く。

 

 革紐を押さえると、自分の音は減った。その代わり、足は遅くなる。静かにすることと、早く進むこと。

 

 どちらを選ぶか。今は急ぐ依頼ではない。だから静かに進む。

 

 そう決めると、少し肩の力が抜けた。

 

 自分で決めたことは、怖い。

 

 でも、決めていない怖さよりは、形がある。

 

 

 沢の音が近づいた頃、小屋が見えた。

 

 木組みの小屋だった。

 

 屋根は片側が少し沈み、壁板の何枚かは色が違う。

 

 新しく張り替えた跡だ。小屋の横には、背の低い物見台がある。そのさらに向こうに、沢へ降りる細い道。

 

 人影は二つ。老人が一人。

 

 若い女が一人。胸のタグに、イラと刻んであった。

 

 頭上の数字が、木の影でちらついた。老人が9。イラが21。

 

 いや、女の数字は一瞬だけ12にも見えた。葉の影が揺れたせいかもしれない。僕は瞬きをした。

 

 21。今はそう見える。

 

「西から来た補助か」

 

 老人が声を上げた。

 

 腰は少し曲がっているが、声は太く、沢の音に負けなかった。

 

 手には短い鉈を持っている。

 

「はい。西詰所から来ました。羽黒承です」

 

 タグを見せる。

 

 老人は近づき、タグと依頼票を順番に見た。

 

 イラは少し離れたまま、こちらの荷袋と靴を見ている。

 

「一人か」

 

「はい」

 

「帰り道は見たか」

 

 最初の確認がそれだった。

 

「二股の左が旧木炭道で、沢に落ちています。右を来ました。帰りも右、王都側から見れば左へ戻ります」

 

 老人は少し眉を上げた。

 

「誰に聞いた」

 

「荷馬車の御者に。それと、自分でも入口を確認しました」

 

「なら半分は使える」

 

 褒められたのか、まだ半分なのか。

 

 たぶん後者だ。

 

「残り半分は?」

 

 僕が聞くと、老人は小屋の屋根を顎で示した。

 

「雨が来る前に、あれを押さえる。夜に沢が増えたら、物見台の下の杭を見る。杭が二本隠れたら、朝まで動くな」

 

 イラが、そこで初めて口を開いた。

 

「あと、飯は自分の分を先に数えて。人の分を気にして、自分の分を減らす人がいるから」

 

 一瞬、何かを見透かされた気がした。

 

「……分かりました」

 

「分かってなさそう」

 

 女は淡々と言った。

 

 悪意はない。

 

 たぶん、ただの確認だ。

 

 僕は荷袋を下ろし、携帯食の包みを取り出した。

 

 一つ、二つ、三つ。

 

 二日分と予備。

 

「これが自分の分です」

 

 女はそれを見て、少し頷いた。

 

「ならいい」

 

 老人が鉈の背で小屋の壁を叩いた。

 

「名前はあとでいい。手を貸せ」

 

「はい」

 

 僕は荷袋を小屋の内側に置き、屋根へ回るための梯子を見た。

 

 ここが、今日の現場。王都外縁の外。見張り線の先。

 

 地図の上では短い依頼票一枚だった場所。小屋は少し傾いている。沢の音は近い。

 

 数字は、木漏れ日の中で一度だけ揺れた。でも、今やることは決まっている。

 

 屋根を押さえ、杭を見て、自分の飯を数える。帰り道は忘れない。

 

 派手なことは何もない。

 

 それでも、背中に残っていた石柱の冷たさが、少し別の形に変わった。

 

 怖い、だけではない。

 

 たぶん。

 

 僕の書いた印で、帰り道を少し間違えにくくできるかもしれない。

 

 そう考えた瞬間、胸のあたりが妙に上へ浮いた。

 

 すぐに、梯子の濡れた段が目に入る。浮いている場合ではない。僕は梯子に手をかける。

 

 木は湿っていて、指に冷たかった。ここから先は、誰かが決めた訓練ではない。でも、誰かが暮らす場所だった。

 

 そのことを間違えないように、僕は一段目へ足をかけた。

 

杭が二本隠れる前に

 

『杭が隠れる前に打て、雨は待つ者を選ばぬ』

 

 屋根の上は、地面より少し寒かった。

 

 高さはたいしたことがない。

 

 物見台より低いし、城壁の上に比べれば子供の台みたいなものだ。

 

 それでも、湿った木板に膝をつくと、足の裏が少し頼りなくなる。

 

「そこ、押さえろ」

 

 下から老人の声が飛ぶ。

 

「はい」

 

 僕は浮き上がった板の端を両手で押さえた。

 

 板は水を吸って重い。

 

 釘の頭は半分錆び、指で触るとざらついた。

 

 イラが梯子を上がってきて、腰の袋から短い釘と金具を出した。

 

「指、置かないで」

 

「はい」

 

「置く人、だいたい置くから」

 

 淡々と言われる。

 

 僕は慌てて指をずらした。

 

 金槌が板を叩く音が、雨前の空気に乾いて響いた。

 

 まだ雨は降っていない。

 

 ただ、遠くの空が灰色に沈んでいる。

 

 湿った風が沢の方から上がってきて、服の袖を冷やした。

 

「雨、来ますか」

 

「来る」

 

 女は釘を打ちながら答えた。

 

「どれくらいですか」

 

「それは来てから見る」

 

 答えになっているようで、なっていない。

 

 でも、女はもう次の釘を指で押さえていた。

 

 女は空を指差したまま、答えをこちらへ返さなかった。

 

 西詰所の依頼票には、小屋詰め補助としか書かれていなかった。

 

 屋根を押さえること。沢を見ること。

 

 水位杭を数えること。紙にすれば、三つの作業だ。

 

 でも実際には、風の匂い、板の湿り方、老人が空を見る間の長さ、女が釘を一本余計に出す手つき。

 

 そういうものが混ざっている。

 

 僕はそれを、まだほとんど読めていない。

 

 読めていないのに、手だけは動かさなければならない。

 

 そう気づくと、指が少し鈍くなった。

 

 

 昼過ぎ、雨が降り始めた。

 

 最初は細い線だった。

 

 小屋の屋根を叩く音も、まだ軽い。

 

 けれど沢の音だけは、早くも少し太くなっていた。

 

 老人は小屋の中で、古い木箱に腰を下ろした。

 

 イラは棚の上の布を取り、入口の隙間に詰めている。

 

「杭、見に行くぞ」

 

 老人が言った。

 

「今ですか」

 

「今だからだ」

 

 外へ出ると、雨が頬に当たった。

 

 冷たい。

 

 強くはないのに、服の表面へすぐ染み込んでくる。

 

 沢へ降りる細い道は、朝より滑りやすくなっていた。

 

 僕は足元を見ながら進む。

 

 老人は遅い。

 

 けれど、迷いがない。

 

 イラは後ろから、僕の足の置き方を見ていた。

 

「そこ、苔」

 

「見えてませんでした」

 

「右の石」

 

 僕は言われた方へ顔を向け、泥のついた石をやっと見つけた。

 

「右ですね」

 

 言われた通りに置く。

 

 置いてから、自分で見ていなかったことに気づく。

 

 沢の脇には、黒く濡れた木杭が三本立っていた。

 

 一本目の下半分は、もう水に隠れている。

 

 二本目は、まだ出ている。

 

 三本目は、少し上流側。

 

「今は一本半」

 

 老人が言った。

 

「二本隠れたら、朝まで動くな」

 

「依頼票にもありました」

 

「紙に書いてあるから守るんじゃない。足を持っていかれるから守る」

 

 沢の水は速かった。

 

 浅そうに見える場所でも、白い泡が石に当たって跳ねている。

 

 もし足を滑らせたら。その先を想像して、喉が詰まった。木の影の向こうで、何かが動いた気がした。

 

 数字が、ちらつく。4。

 

 いや、雨粒が目の前を落ちただけかもしれない。

 

 僕は瞬きをした。何もいない。葉。

 

 枝。濡れた石。数字はない。

 

「何見てる」

 

 老人が聞いた。

 

「……見間違いです」

 

 地図のまだ埋まっていない場所を、相手は見ていた。

「なら、そう覚えろ」

 

「え?」

 

「見間違えたことを忘れるな。忘れたやつは、次に見えた時も同じ顔をする」

 

 老人は杭から目を離さずに言った。僕は雨で濡れたまつ毛を指で拭った。見えたもの。

 

 見えなかったもの。見間違えたもの。

 

 たぶん、全部を分けて覚えなければならない。

 

 数字が見えることは、答えが出ることではない。

 

 それを、雨が少しずつ教えてくる。

 

 

 夕方、雨は本降りになった。小屋の中は狭い。

 

 入口近くには濡れた外套を掛ける縄。奥には寝床が二つ。

 

 僕の分は、板の上に敷いた薄い布だけだった。

 

 十分だと口に出す前に、背中を下ろすと板の硬さがすぐ骨に当たった。

 

「飯」

 

 イラが言った。僕は荷袋から携帯食を出した。一つ。

 

 二つ。三つ。昼に一つ食べたから、残りは二つ。

 

 明日の朝と昼。予備は、もう予備ではない。

 

「少ない」

 

 女が言った。

 

「二日分と予備です」

 

「雨で戻れなかったら?」

 

 言葉に詰まる。杭が二本隠れたら、朝まで動くな。朝になっても水が引かなかったら。

 

 さらに半日。あるいは一日。計算が、そこで止まった。

 

 女は自分の袋から硬い干し芋のようなものを一つ出し、僕の前に置いた。

 

「貸し」

 

「いえ、でも」

 

「返せる場所に戻るつもりなら借りて」

 

 返せる場所。

 

 その言い方で、断る言葉が消えた。

 

「ありがとうございます」

 

「礼より数えて」

 

 僕は残りの食料を並べ直した。自分の分と借りた分、明日の朝と昼、それから戻れなかった場合。

 

 最後の言葉を書こうとして、指先に少し力が入った。

 

 紙に書く。

 

 老人が横目で見て、少し鼻を鳴らした。

 

「書くやつは嫌いじゃない」

 

「書かないと忘れます」

 

「忘れると知ってるなら半分使える」

 

 また半分だった。でも、昼より少し悪くない半分に聞こえた。

 

 夜が来る。雨の音が屋根を叩き続け、沢の音は昼より太くなった。

 

 僕は寝床に横になり、荷袋を枕の横へ置いた。

 

 タグが胸元で小さく当たる。王城の寝台ではない。西詰所の仮眠台でもない。

 

 沢沿いの小屋の板の上。戻る場所はある。

 

 けれど今夜、僕の体が置かれているのはここだ。

 

 雨音の中で、杭が一本ずつ水に隠れていくところを想像する。

 

 怖い。

 

 でも、怖いと思っている自分がまだ起きている。

 

 それだけは、少しましだった。

 

 僕は目を閉じた。

 

 眠る前に、明日の食料の数をもう一度だけ頭の中で数えた。

 

 

 翌朝、雨は小降りになっていた。

 

 物見台の陰から、上流の小屋に住むという少年が一人、様子を見に来ていた。

 

「杭、見に来た。手伝う」

 

 それだけ言って、少年はもう沢の縁にしゃがみ込んでいる。

 

「ニコ」

 

 イラが短く名前だけを教えてくれた。

 

 沢の水は冷たかった。

 

 手を入れたわけではない。

 

 近くに立っているだけで、足首のあたりに冷えた空気がまとわりつく。

 

 ニコは沢の向こうの杭を見ていた。

 

 保守組のイラは、濡れた縄を結び直している。

 

「この縄、替えた方がいいですね」

 

「そうですね」

 

 僕は頷き、手帳に書いた。沢沿い。固定縄、濡れ。

 

 結び目ゆるみ。交換要。書き終わる前に、数字が浮いた。

 

 1。杭の数ではない。縄の数でもない。

 

 ニコでもない。僕は顔を上げた。

 

 沢の対岸、倒れた木の陰。黒いものが、少し動いた。

 

 その瞬間、目に入るものが急に細かくなった。

 

 不自然に揺れる枝。濡れた石の傾斜。沢の水面に残る、まだ崩れていない光。

 

「ニコ、右後方15度。木の杭まで後退。イラさんはその場で待機。指示があるまで動かないで」

 

 声は、喉の奥で低くなった。

 

 教導長に何度もやらされた、石と紐と鏡片の訓練を思い出す。敵を見るな。敵が通る線を見ろ。あの時は、ずいぶん面倒な工作だと思っていた。

 

 黒いものが跳ねた。

 

 重さはない。けれど、濡れた石を蹴る速度は速かった。

 

 「最短距離を意識しろ。剣を振るうな、最短で『置く』んだ」

 

 僕は腰の短剣を抜いた。

 

 左手の小型魔導灯を水面へ向ける。魔物の顔ではなく、着地点の手前へ光を置く。

 

 白い帯が沢の水面で跳ね、魔物の目の下を横切った。前脚があると思った場所には空気しかなく、黒い体が空中で傾く。着地は二メートル後ろへずれた。

 

 ここだ。

 

 立て直そうと伸びた前脚の付け根へ、短剣を置く。突きに行くのではなく、落ちてくる硬い皮と皮の隙間へ刃を合わせた。

 

 高い音と一緒に火花が散り、手首へ嫌な振動が返る。刃は通らなかったが、支えを失った魔物は肩から地面へ落ちた。

 

 黒い体は一度転がり、逃げるように沢の向こうへ走り去った。

 

 追撃はしない。こちらが立っている場所を、これ以上さらしたくなかった。

 

「ニコ、後ろ。完全に下がったのを確認」

 

「う、うん。承くん……?」

 

 ニコが不思議そうな顔をして僕を見ていた。

 

 無理もない。

 

 さっきまでの僕とは、動きの「規律」が違っていたはずだ。

 

「下がります。僕が最後。イラさん、杭を収めて。今日は作業を中止します。二人以上での再調査を申請してください」

 

 対岸の数字が消えるまで、僕は短剣を鞘へ半分だけ戻した姿勢で待った。

 

「いなくなった」

 

 ニコの声が沢音を越えた。イラが杭から手を離し、僕の肩もようやく下がる。追い返した。今だけは、それでいい。

 

 消えた後、刃を最後まで収める。金属音が一つ、沢の音に混ざった。

 

――――――――

 

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