ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《辺境者の歌》 四章 二節
『数字の影を見る者は、影を落とす神の背を探し始める。』
旧木炭道沿いの小屋で、少年の膝を洗うと、水がすぐ茶色になった。入口の向こうでは、増水した沢が木立の間を流れている。
血より泥の方が多い。
それでも、傷口に水が触れるたびに少年は肩を震わせた。
「痛い?」
「痛くない」
即答だった。痛い時ほど、返事は早い。
イラは何も言わず、布を差し出した。僕はそれを受け取り、傷の周りを押さえる。
「ニコ、荷は何を持ってきた」
「釘と、薬瓶と、乾いた豆。あと、紙」
「紙?」
ニコは濡れた布包みを開いた。
中から、小さな油紙に包まれた封筒が出てくる。
端は湿っていたが、中までは濡れていない。
イラがそれを受け取って、中を確認した。
「西からの水位報告」
「西?」
「上流の別小屋。昨日の夜から水が早いって」
老人が封筒を受け取り、目を細めた。
「遅い」
短い一言だった。
誰が悪い、とは言わない。
それでも、紙がここに着く頃には、沢はもう太くなっている。
僕は小屋の外へ目を向けた。
雨は少し弱まっている。
けれど、沢の音は弱くなっていない。
「戻れますか」
ニコが聞いた。
その声は、さっき痛くないと言った時より小さかった。
老人はすぐには答えない。
イラも答えない。
返事が遅れて、ニコの顔から血の気が少し引いた。
僕は言いかけて、やめた。大丈夫。たぶん戻れる。
少し待てば。どれも、言えそうだった。でも、言った瞬間に嘘になる気がした。今やることは、ニコを戻す道と、水位報告を次へ渡す方法を見つけることだった。
「杭を見てから」
老人が言った。
答えは、そこにあった。
✶
沢の水は、二本目の杭の上まで来ていた。二本。
隠れた。老人はそれを見て、すぐに踵を返した。
「今日は動かん」
「でも、雨は弱くなってます」
ニコが言った。
「沢は弱くなってない」
イラが返す。ニコは口を閉じた。僕も、閉じた。
目の前では、雨の線が細くなっている。空も、さっきより明るい。歩けそうに見える。
でも、水は増えている。地面は緩んでいる。旧道は崩れている。
見える明るさと、足元の危なさが合っていない。
そのずれの中を、一歩ずつ確かめながら歩く。
小屋へ戻る途中、木の間に数字が見えた。2。細く、すぐ消えた。
人影はない。魔物の気配もない。
ただ、二股の方から落ちてきた枝が二本、道を横切っていた。
僕は足を止めた。
「どうした」
老人が聞く。
「枝が二本、落ちています」
靴音が先に動き、返事があとから続いた。
「見れば分かる」
「さっき、数字に見えました」
言ってから、少し後悔した。変なことを言っている自覚はある。
老人は僕を見た。イラも、ニコも見る。
「数字?」
ニコが聞いた。
「僕には、人の頭の上に数字が見えることがあります」
そこまで言って、言葉を選ぶ。
「でも、今日は人以外のものにも見えた気がします。荷の瓶とか、枝とか。能力なのか、見間違いなのか分かりません」
雨の音が間を埋めた。
老人は怒らなかった。
笑いもしなかった。
「なら、数えろ」
「え?」
「見えたなら、手で数えろ。合えば覚えろ。合わなければ、それも覚えろ」
イラが枝を見た。
「二本」
ニコが自分の荷を見た。
「薬瓶、残り四本。割れたの二本」
僕は地図の端に書いた。
枝、二。
瓶、二を見た気がした。実数、残四、破損二。
人影なし。
文字にすると、少し馬鹿みたいだった。
ただ、馬鹿みたいなことを残さないと、次に同じものを見た時、僕はまた立ち止まるだけになる。
馬鹿みたいな紙が一枚増えた。
そう書くと本当に馬鹿みたいなので、もちろん書かない。
ただ、紙が増えたこと自体は少し助かった。
次に同じ変なものを見た時、僕は「初めてです」とは言わなくて済む。
試しに、もう一度瓶を見てみる。今度は降ってくるのを待たず、見ようとして見た。
残り四。破損二。さっきと同じ数字が、同じ位置に出た。
勝手に見えるのと、見に行くのは、たぶん違う。
違う気がする。まだ、気がする程度だけど。
最初に能力を見た時の僕なら、ここで少し浮かれていたかもしれない。数字が増えた。見えるものが広がった。異世界らしい進化だ、と。
けれど、膝に布を巻いたニコがすぐ横にいると、その言い方は使えなかった。見えるものが増えたなら、間違える場所も増える。
「それ、便利なの?」
ニコが聞いた。
「分からない」
僕は正直に答えた。
「便利な時もあります。でも、今は邪魔かもしれません」
「邪魔なら見なければいいのに」
「それができたら、たぶん楽です」
ニコは少し考えたあと、膝の布を押さえた。
「俺も、近い道が見えたから行った」
そう言った。
旧木炭道のことだ。
「見えたから、行けると思った」
その言葉が、胸の中で妙に重く残った。
「瓶、間に合うかな」
ニコがぽつりと言った。
「上流の小屋?」
「うん。母ちゃんが、遅れるなって言ってた。俺が近道しなきゃ、たぶんもう着いてた」
ニコの声は小さかった。
膝の痛みより、そちらの方が痛そうだった。
「今は沢が二本です」
「動いたら、瓶ごと流されるかもしれない」
「でも」
「朝、一本に戻ったら、僕も一緒に運びます」
言ってから、勝手に約束していいのか少し迷った。
でも、イラは止めなかった。老人も何も言わなかった。ニコは唇を噛んで、頷いた。
見えたから、行けると決めた。僕も同じだ。数字が見えた。
だから足を出していい。そう思いたくなる。
でも、見えたものは、見えたものにすぎない。
道があるように見えても、途中で落ちていることがある。
✶
午後は、小屋の中で荷を数え直した。釘。布。
薬瓶。乾いた豆。水。
携帯食。薪。
老人は、僕の書いた紙を見て何も言わなかった。
イラは、足りないものだけを短く言った。
「薪、夜までは足りる。朝までは薄い」
「水は沢から取れるが、濁りが強い」
「薬瓶は割れた分を報告」
僕は一つずつ書く。書いている間、外の沢はずっと鳴っていた。雨は止んだ。
空も少し明るい。でも、老人は動かないと言った。女も、動こうとはしない。
ニコは何度か外を見たが、何も言わなかった。
僕は、杭を思い出す。二本隠れた。だから朝まで動かない。
単純だ。単純だから、迷った時に使える。数字も、いつかそうなればいい。
そう言い切れたら楽だ。でも今は違う。今の数字は、杭ではない。
雨粒にも見える。枝にも見える。
瓶の縁を、目が勝手に拾っただけにも見える。
だから、書く。数える。足元を見る。
僕は下の余白に、もう一つだけ書いた。見えたものを、すぐ信じない。その文字は、少し震えていた。
でも、読めた。読めるなら、次に使える。そう書いたあと、少し気分が上向いた。
字が震えているのに上向くのはどうなのか。自分でも少し変だと思う。でも、読めた。
数字は、二だった。木立の奥。荷車道の脇。
折れた枝の向こう。そこに、二つ。たぶん、小型の魔物だ。
見えた数字は、いつもより少し薄い。雨上がりの空気のせいかもしれない。
木の影が重なっているせいかもしれない。どちらにしても、二。
「二体ですか」
保守組のイラが聞いた。
「たぶん」
「今日は、その言葉を外せません」
鼻を鳴らす声に、聞き覚えがあった。西詰所で何度か顔を合わせている冒険者、ラドさんだ。
「見えるんだろ。なら二でいいじゃねえか」
そう言われると、そうなのかもしれない。見えている。二。
でも、足元の泥に、跡が三つあった。一つ目は、はっきりしている。二つ目は、少し浅い。
三つ目は、途切れている。ただの古い跡かもしれない。別の獣かもしれない。
僕の見間違いかもしれない。でも、風が一度だけ止まった。木立の右側。
数字が出ていない場所。そこだけ、葉が揺れなかった。
「右も見ます。少し待ってください」
「右?」
冒険者の男が顔をしかめる。
「左に二って言ったろ」
「はい」
「じゃあ左だ」
「左に二です。ただ、右がゼロとは言い切れません」
言ってから、舌に嫌な味が残った。でも、今はそれで止まってほしかった。男の足が止まる。
保守組のイラも、荷袋を抱え直した。僕は小石を拾い、右の茂みに投げた。小石は葉に当たり、乾いた音を立てた。
何も出ない。やっぱり見間違いかもしれない。
次の瞬間、茂みの奥で低い唸りが返った。冒険者の男が、息を飲む。
聞き間違いであってほしいと思う気持ちと、聞こえた音の低さから逆算した大きさを頭のどこかで測り続けている気持ちが、同時に僕の中で動いていて、どちらも本当だった。
「いたのか」
「分かりません。います」
「どっちだ」
魔導灯の明かりが、木立の影だけを大きくした。
「分からないけど、います」
おかしい。でも、それ以外に言い方がない。左の二体が動いた。
右の茂みも揺れる。三。
今度は数字も三になった。遅い。
遅い、というより、僕が見る場所を間違えていたのかもしれない。
「下がってください。荷車の後ろへ」
「戦うんじゃ」
「三方向は無理です。荷車の後ろへお願いします」
冒険者の男が舌打ちする。
でも、下がった。
助かった。
僕は荷車の横に立ち、短剣ではなく木槌を持った。
荷車に積んであった杭打ち用のものだ。剣より短い。ただ、ここではこっちの方がいい。
左から一体が出る。犬のような体に、長い耳。木槌を荷車の側板に打ちつけた。
乾いた音が、木立に響く。魔物の足が止まる。右の茂みも揺れた。
音。視線。荷車。
全部を一度に見ようとすると、頭が遅れる。だから、数える。左、二。
右、一。味方、三。荷車、一。
戻る道、一。それが消えたら、負けだ。
数字は、今日はばらけなかった。左の二も、右の一も、消えずに浮いたままだった。
前は、一つ見れば次が消えた。今日は、消えない。狙って並べているのか、慣れてきただけなのか分からない。
分からないけど、消えないなら数えられる。
「荷車を押さないでください。壁にします」
保守組のイラが頷く。冒険者の男も、剣を抜いた。右の一体が飛び出した。
右の一体は、剣を持った男へ顔を向けている。僕はその横から魔導灯を照らした。濡れた目に白い光が入り、飛び出した一体の顔がこちらへ向く。
倒せない。でも、光を追えば牙は男から外れる。外れた。横から男の剣が首の下へ入り、一体が荷車の前へ転がる。
左の二体は、荷車の横で止まった。木槌をもう一度鳴らす。今度は逃げた。
追わない。僕は足を動かさなかった。
冒険者の男が一歩出ようとして、こちらを見る。
「追わねえのか」
「戻る道が一つなので」
「理由になってんのか、それ」
僕の返事は、林の奥で少し遅れて返った。
「たぶん」
たぶん、では弱い。
弱いけれど、今の僕にはそれしか出せない。格好よく言い切るより、荷車の後ろに三人残っている方がまだましだ。
男は何か言いかけて、やめた。
保守組のイラが小さく息を吐く。
「二じゃ、なかったですね」
「最初は二でした」
「最初は」
「はい」
僕は手帳を開く。数字、初期二。痕跡三。
右茂み、反応遅れ。音で牽制可。荷車は壁になる。
追跡不可。書いてから、少し手が止まった。
見えた数字は、嘘ではなかった。でも、足りなかった。
嘘をつかないことと、全部を教えてくれることは違う。
たぶん、そこを間違えると危ない。
✶
その夜、手帳を見返した。左二、右一、味方三、荷車一、戻る道一。
全部、消えずに並んでいた数字だった。
前はどれか一つ見るだけで精一杯だった。今日は、狙った分だけ留まった気がする。
留まるからといって、正しいとは限らない。それでも、道具として少しは使える手触りが増えた。