ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《辺境者の歌》 四章 五節
『戻る道を選ぶ者は、門の鍵を懐にしまう。』
朝、沢の音は少し細くなっていた。
雨は止んでいる。
小屋の屋根から、昨日の水がまだ一滴ずつ落ちていた。
地面は柔らかい。
けれど空は昨日より明るい。
僕は荷袋を閉じる前に、食料の残りを数えた。
自分の携帯食は、一つ。借りた干し芋は、もうない。水袋は半分より少し多い。
薬瓶の破損は二本。釘は予定より三本多く使った。屋根の補修箇所は四つ。
数字を紙に書く。今のところ、紙に書いた数字は動かない。少なくとも、目の前で勝手に揺れない。
試しに、もう一度荷袋を見た。今度は待たずに、狙って見た。
破損二。釘超過三。補修四箇所。数字は同じ場所に、同じ数で浮いた。
勝手に見えていた頃とは、少し違う。見ようとして、見えている。
老人が小屋の入口で煙草のようなものをくわえていた。
火はついていない。
「帰る気か」
「杭を見てからです」
そう答えると、老人は少し口の端を動かした。
「半分以上だな」
昨日までなら、何が半分なのか気になったと思う。
今日は、答えを先に決めないところまではできた。残りはまだ分からない。
沢へ降りる。二本目の杭は、水面から少し出ていた。まだ濡れた跡が上の方に残っている。
「一本と少し」
「動ける。ただし沢沿いはまだ駄目」
イラが頷く。
「二股から右、王都側へ戻ります。旧木炭道には入りません。ニコは?」
ニコは膝を押さえながら、少し不満そうな顔をした。
「俺も帰る」
「歩ける?」
「歩ける」
即答。昨日の「痛くない」と同じ速さだった。僕はしゃがみ、膝の布を見た。
血は止まっている。でも腫れが少しある。
「早く歩くのは無理だと思う」
「歩けるって」
「歩けるのと、戻れるのは違う」
言ってから、自分の言葉に少し驚いた。
城にいた頃なら言えなかった。歩けるなら大丈夫だと、僕も一緒に頷いていたと思う。いや、早く戻りたくて、その言葉に乗っていたかもしれない。
今も別に、立派な判断をしているわけではない。
ただ、足を見てしまった。
見たものを、見なかったことにする方が難しかった。
ニコも黙った。
イラがこちらを見た。
「言うようになった」
「借り物です」
「返せるならいい」
老人が小屋の奥から短い杖を一本持ってきた。
ニコへ放る。
「持て。遅く歩け」
「遅く?」
「速く歩いて止まるやつより、遅く歩いて着くやつの方がましだ」
ニコは不満そうだったが、杖を受け取った。
イラが布包みをニコに渡す。
割れずに残った薬瓶四本は、別の布で巻かれていた。
「上流の伐木小屋には、巡回兵に渡す。自分で行かない」
「でも、俺の荷だし」
「荷を届けるのと、自分を落とすのは違う」
ニコは口を尖らせた。
僕は少し迷ってから言った。
「僕が報告に書きます。急ぎの止血瓶、四本。上流へ引き継ぎ必要」
「書いたら届くの?」
「書かないよりは届きます」
ニコは気に入らない顔をした。でも、布包みを胸に抱え直した。僕は地図に、帰路の印をもう一度つけた。
旧木炭道、通行不可。二股、右。荷馬車跡、外へぶれ。
沢、一本と少し。ニコ同行、速度落とす。書くことが増えている。
そのぶん、歩き出すまでが遅くなる。でも、歩き出してから迷うよりはいい。
たぶん。たぶん、がまだ多い。
それでも、昨日よりは紙の上に置けるものが増えた。
書くことが増えるほど、なぜか荷袋まで重く感じた。中身は紙が数枚増えただけなのに。
✶
帰り道は、来た時より長かった。ニコの歩幅に合わせると、自然と遅くなる。
遅い。正直に言えば、かなり遅い。
頭の中のどこかで、早く帰って報告して、温かいものを飲みたいと思っている自分もいた。そういう自分がいることに気づくと、余計に足元を見るしかなくなる。
そのぶん、足元を見る時間が増えた。昨日見落としかけた石。水が流れた跡。
枝の折れ方。荷馬車の車輪跡。
同じ道なのに、来る時とは違うものが見える。
いや、違うものが見えているのではない。同じものを、別の用事で見ている。行きは、たどり着くために見た。
帰りは、戻すために見ている。ニコが何度か足を止めた。そのたびに、僕も止まった。
急がない。急がせない。自分に言い聞かせる。
二股に着くと、旧木炭道の入口は昨日よりさらに崩れていた。
土の端が新しく落ち、草の根がむき出しになっている。
そこに、数字が見えた。5。一瞬だけ。
今度は驚きすぎないように、息を止めた。人はいない。魔物も見えない。
崩れた土の端に、足跡が五つ残っていた。昨日のニコのもの。入って、迷って、戻った跡。
五つ。数える。
一つ、二つ、三つ、四つ、五つ。合っている。
狙って見て、狙った通りの数が出た。
嬉しいような、ちょっと怖いような感じがした。
合っているからといって、能力が足跡を数えたとは限らない。
僕の目が、先に足跡を見ていたのかもしれない。
どちらでもいい。今は、ここが危ないと分かればいい。僕は地図に書き足した。
旧道、崩れ進行。足跡五。ニコが横から覗いた。
「それも書くの」
「報告する」
「俺が怒られる?」
ニコの肩が、担いだ荷の下でほんの少し沈んだ。
「たぶん、少し」
ニコの顔が曇る。
「でも、道が落ちたことを黙っていたら、次に誰かが落ちる」
ニコは杖の先で地面をつついた。
「……少しならいい」
「少しで済むように書く」
そんなことができるかは分からない。
でも、書かないよりはいい。
✶
見張り線の石柱が見えた時、肩の力が少し抜けた。
でも、完全には抜けなかった。
石柱のこちら側に戻れば安全。
そんな単純なものではないと、もう分かっている。
石柱は、ただの線だ。
人が決めた、ここから先は巡回が厚いという目印。
それでも、その線に救われることはある。
巡回兵が一人、石柱のそばに立っていた。
西詰所の腕章をつけている。
「西から戻りか」
「はい。保守小屋からです。荷運びの子を連れています」
巡回兵はニコの膝を見た。
「怪我か」
「旧木炭道入口で転倒。道が崩れています。通行不可にした方がいいです」
「報告書に書け」
「書きます」
僕はニコの布包みを示した。
「それと、上流の伐木小屋へ止血瓶四本。急ぎです。沢沿いはまだ危ないので、巡回経由で回せますか」
巡回兵の顔が少し変わった。
「伐木小屋か。昨日、手を裂いたやつがいると聞いてる」
「はい」
「預かる」
ニコが布包みを渡す時、指が少し離れにくそうだった。
「ちゃんと届く?」
巡回兵は布包みを肩の鞄へ入れた。
「俺が落ちなければな」
「落ちないでよ」
「努力する」
ニコは初めて、少し笑った。言いながら、肩の力が少し抜けた。報告書に書く。
それは、見たものを次の誰かへ渡す形だ。完璧ではない。
でも、ただ自分の中に抱えているよりは、外へ置ける。
ニコは石柱を越える時、小さく息を吐いた。
「戻った」
その声に、僕も頷いた。
戻った。
でも、戻る道は、出る前には決まっていなかった。
杭を見て、足跡を見て、膝を見て、崩れた土を見て、遅く歩いて。
その結果として、ここに戻った。
それを忘れない方がいい。
忘れない方がいいことが、一日でずいぶん増えた。
頭の中だけでは置き場が足りない。やっぱり紙がいる。西詰所の屋根が遠くに見える。
来た時より低く見えるのは、こちらが近づいたからだ。屋根そのものは変わっていない。
でも、その屋根へ戻る足は、昨日の朝より少し重かった。
重いのに、嫌ではなかった。
夕方の道は、朝より細く見えた。
同じ道のはずだ。
でも、影が伸びると、歩ける幅が少しずつ削られていく。
ニコの歩幅が落ちていた。本人は同じ速さのつもりで、腕だけを大きく振っている。
荷袋を抱え直す回数が増えている。右足を置く時だけ、少し間が空く。
「ニコ、荷袋を左へ寄せてください」
「え?」
「右足が遅いです」
ニコは自分の足を見た。
「遅い?」
後ろで、息を飲む気配があった。
「たぶん」
「たぶんで言うの?」
道の先で、草の倒れ方だけがこちらを向いていた。
「今は、たぶんでも言います」
保守組のイラが、ニコの荷袋を半分持った。
その時、後ろで枝が折れた。
同行冒険者の男が振り返る。
「さっきの奴らか」
「分かりません」
分からない。でも、暗くなる。足が遅い。
荷が重い。戻る道は一本。条件は、もう十分だった。
「引き返します。並びを変えます」
口に出すと、声が小さくなった。誰も動かない。
喉の奥が一度詰まる。もう一回。
「ニコは真ん中へ。保守組さんは左をお願いします。荷は僕が半分持ちます。冒険者さんは後ろへ。僕は前と真ん中を見ます」
今度は動いた。
ニコが真ん中へ来る。
保守組のイラが左につく。
冒険者の男は少し不満そうだったが、後ろへ回った。
「お前が前じゃないのか」
「前だけ見ると、ニコの足が見えません」
「じゃあ真ん中か」
ラドさんは歩幅を変えずに、ちらりと隊列の後ろを見た。
「真ん中より少し前です」
「細けえ」
吐き捨てるような声でも、歩く位置は少し直された。
「すみません」
「謝るとこじゃねえよ」
前にも聞いた気がする言葉だった。僕は荷を受け取り、肩にかけた。重い。
重いけれど、持てる。数字が浮く。4。
人数。僕を含めて四人。それなら、今度は合っている。
確かめるために、もう一度数えた。四のまま、動かない。
見て、合わせて、決める。その順番が、少しずつ体に馴染んできた気がした。
「合図を決めます」
「止まる時は、杖を二回でお願いします。下がる時は一回。走らないでください」
「走らないの?」
ニコが聞いた。
「走ると、足が遅い人から崩れます」
ニコの杖を握る手に力が入った。
もう少しやわらかく言えたらよかったのに、口の中に残った言葉は乾いていた。足元の石は、こちらの言い直しを待ってくれない。
「私?」
「今は、はい」
ニコは少しむっとした。でも、何も言わなかった。歩く。
杖を一回。下がる。枝の音が近づく。
でも、姿は見えない。杖を二回。
止まる。冒険者の男が後ろで剣を抜いた。
「来るぞ」
声は低い。僕は前を見た。後ろは見ない。
見たい。でも、見ない。
前が崩れたら、戻れない。ニコの肩が少し上がっている。
「息」
「え?」
「吸って、吐いて」
ニコが言われた通りにした。後ろで金属音が一度。
低い唸り。冒険者の男の舌打ち。
「一体だけだ。追い払った」
「追わないでください」
「分かってるよ」
分かっている声ではなかった。でも、足音は戻ってきた。杖を一回。
下がる。誰も走らない。誰も列を崩さない。
保守小屋の屋根が見えた時、ニコが小さく言った。
「さっきの、合図、分かりやすかった」
「そうですか」
「うん。ちょっとむかついたけど」
ニコは口を尖らせたまま、足元の石を避けた。
「すみません」
「だから、謝るところじゃないって」
今度はニコが言った。僕は返事をしようとして、やめた。代わりに手帳を開く。
撤退列。中央、負傷疑い。後方、護衛。
合図、杖一回後退、二回停止。走らない。書いている途中で、少し指が止まる。
命令ではない。次に同じ道を通るための手順だ。
でも、その手順で人が動いた。それは、手の中にしばらく残った。