ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《辺境者の歌》 四章 六節
『夜の荷は肩から名へ移り、朝まで降りない。』
2374- 北二番水場付近 ベイル視点
荷車は、夜に重くなる。昼と同じ荷を載せている。車輪も同じ。
馬も同じ。それでも、夜になると重くなる。
搬送班のベイルの中では、そういうものになっていた。
「右ですか」
若い兵が聞いた。
「右だ」
ベイルは答えた。答えてから、標識を見る。赤い矢印。
雨で濡れた板。水たまりに映る、もう一本の赤い線。右。
たぶん右。前線予備倉へ薬包箱二つと保存食袋一つ。明朝までに届けばいい、と言われている。
届けばいい。言う方は簡単だ。勇者様方が東側で成果を上げた。
魔物群を押し返した。敵の哨戒を砕いた。前へ出られる。
前へ出られるということは、荷も前へ出るということだ。
誰かが手を叩く声は、ここまで届かない。
届くのは、遅れた時の怒鳴り声だけだ。
「先輩、こっち、轍が薄いです」
目の動きだけで、話の先が少し変わった。
「戻るか」
「でも、こっちの方が近いって」
若い兵の声は揺れていた。ベイルも、近いと聞いていた。昼に通った者がいる。
水場を抜ければ早い。古い荷車道は使える。全部、聞いた話だ。
自分の目では、暗い道しか見えない。荷車の車輪が、水たまりに入った。
沈む。嫌な音がした。
「押せ」
二人で押す。動かない。馬が鼻を鳴らす。
遠くで、何かが鳴いた。若い兵が顔を上げる。
「先輩」
「静かにしろ」
ベイルは腰の短銃を抜いた。短銃は心強い。心強いが、撃てば終わりだ。
音が出る。馬が暴れる。
もっと悪いものが来る。荷車の後ろで、草が揺れた。
「荷を捨てる」
ベイルは言った。
「え」
「薬包箱は置く。保存食だけ持つ」
「怒られます」
荷車の板が、外された箱の分だけ軽く軋んだ。
「死ぬよりは怒られる方がいい」
言ってから、少し笑いそうになった。
笑える話ではない。
でも、そうでも言わないと手が動かなかった。
薬包箱を下ろす。一つ。
二つ。保存食袋を若い兵に背負わせる。
「戻るぞ」
「道は」
ベイルは標識を見た。
赤い矢印が、水の中で二本に見える。
どちらが戻る道なのか、一瞬分からなくなった。
その一瞬で、草むらがまた揺れた。
「こっちだ」
ベイルは来た道へ足を向けた。たぶん、来た道。荷車を置いていく。
薬包箱も置いていく。若い兵の息が荒い。後ろは見ない。
見たら、戻りたくなる。戻ったら、たぶん戻れない。
荷を捨てると決めた自分と、それを誰かに正しいと言ってほしい自分と、明日どうせ怒られるなら今は正しさなんてどうでもいいと思いたい自分が、頭の中でばらばらに喋っていて、どれが本当の判断だったのか、歩きながらもまだ分からなかった。
荷車を置いてきたのに、その重さがまだ背中に残っている気がした。
西詰所の灯りが見えた時、若い兵は膝をついた。
ベイルは報告した。荷、放棄。薬包箱二。
保存食袋一、回収。馬、離脱。
道標、誤認可能性。記録係は顔をしかめた。
「誤認可能性、ですか」
「はい」
「断定ではなく」
「夜だと、矢印が二本に見えました」
記録係はペンを止めた。
「北二番水場でも、似た報告が上がっています」
「なら、直してください」
ベイルの声は少し荒くなった。記録係は答えなかった。代わりに、別の紙を出す。
相談票。正式依頼ではない。でも、誰かが見に行かなければならない紙。
ベイルは椅子に座った。足が震えていた。荷車は戻らない。
それでも、人だけは戻った。そのことを、誰がどう書くのか。ベイルには分からなかった。