ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~   作:ハルキーノ

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四章九話 地図にない道/四章十話 立たない椅子

《辺境者の歌》 四章 九節

『地図にない道は、歩かれてから初めて責任者を探す。』

 

2374- 第二王城地図室 記録官視点

 

 地図にない道は、道ではない。

 

 少なくとも、記録上はそうなる。

 

 記録官は、黒い紐の端を指で押さえず、重しで留めた。手で押さえると、動かしているのが自分だと分かりすぎる。

 

 濡れた道標。戻らない荷車。

 

 相談票。三枚の紙が、同じ机の上に並んでいた。

 

「これを通行路として扱うのですか」

 

 若い文官が聞いた。

 

「扱わない」

 

 記録官は答えた。

 

「扱わないが、使われた道として記す」

 

「違いは」

 

「通行路なら整備責任が発生する。使われた道なら、まず調査責任だけで済む」

 

 若い文官は、分かったような顔をした。

 

 分かっていない顔でもあった。

 

 そのくらいでいい。

 

 最初から分かりすぎる者は、たいてい印章を急ぐ。

 

 

 黒い紐は、地図上で細かった。

 

 細いから軽く見える。

 

 実際には、そこを通った者がいる。

 

 荷車が沈み、人が戻り、誰かが相談票を書いた。

 

 地図にはまだ線がない。だが、相談票の泥汚れは同じ方向から来ていた。

 

 記録官は、通行許可欄の横に「議会照会前」と書いた。

 

 この一語で、誰かが怒る。

 

 この一語がないと、別の誰かが責任を押しつけられる。

 

 どちらにしても怒られるなら、後で読み返せる形にしておくしかない。

 

「羽黒承の関与は」

 

 別の文官が聞いた。

 

「まだない」

 

「補給線に関わる可能性は」

 

「高い」

 

「では」

 

「名前を先に置くな」

 

 記録官の声が、卓の上で強く返った。

 

 若い文官が背筋を伸ばす。

 

 記録官は、少し息を吐いた。

 

「名前を置けば、そこへ責任が寄る。責任が寄れば、次から全部その名前で処理される」

 

 羽黒承。

 

 使いやすい名前になりかけている。

 

 使いやすい名前ほど、壊れるのも早い。

 

 

 地図室の窓は閉じていた。

 

 雨は上がっているのに、紙は少し湿っている。

 

 古い王城の壁が水を吸うせいだ。

 

 記録官は、黒い紐の横に白い細紐を一本置いた。

 

 調査未了。通行非推奨。

 

 補給判断保留。短い言葉を三つ書く。

 

 それだけで、地図にない道は、完全な空白ではなくなった。

 

 道になったわけではない。

 

 まだ、誰の道でもない。

 

 それでも次に誰かがそこへ入る時、少なくとも何も知らずに踏むことはない。

 

 記録官は、重しを一つ追加した。

 

 黒い紐が、少し沈んだ。

 

――――――――

 

《辺境者の歌》 四章 十節

『立たぬ椅子にも出口の匂いは届き、座す者を裁く。』

 

2374- 第一王城会議室 ランドマール視点

 

 ランドマール第三王子は、会議の途中で席を立たない。

 

 それは美徳として語られていた。

 

 集中力がある。

 

 王族としての忍耐を知っている。

 

 幼い顔立ちに似合わず、会議の空気を乱さない。

 

 褒め言葉は、廊下を歩くたびに少しずつ形を変える。ランドマールはそれを聞くたびに、そうなんだ、と思う。

 

 自分は会議の途中で席を立たないらしい。

 

 立ちたい時がないわけではない。

 

 窓の外で鳥が鳴いた時とか、机の下で靴紐がほどけているのに気づいた時とか、誰かが難しい言葉を三つ続けて言った時とか。

 

 でも、母上が言っていた。

 

 王族は、席にいることにも意味があるのよ。

 

 だから、いる。

 

 今日の会議室には、茶葉の匂いがしなかった。

 

 代わりに、革と紙と、少し汗の匂いがする。年上の貴族たちは、きちんと服を整えているのに、長く話していると匂いが出る。ランドマールはそこで少し首を傾げた。

 

 王の部屋というより、母上の言うところの「議会の部屋」に近い。

 

 みんな王家の話をしているのに、机の上にあるのは許可証と回付印と写しばかりだった。

 

「西回廊の通行許可については、第三王子殿下の御裁可を仰ぎたく」

 

 文官がそう言って、紙を差し出した。

 

 ランドマールは受け取らない。

 

 受け取らなくていい、と母上に言われている。

 

 紙は誰かが読んでくれる。

 

 自分は、必要な時に、必要なことだけ言えばいい。

 

「読んで」

 

 隣にいた侍従が、小さく頭を下げた。

 

「第二王子派の使節団が、西回廊を通過する可能性あり。帝国商隊を名乗る一団も同時期に通行願を提出。軍務地図室は、道標の不備と荷車沈降の危険を理由に、一時的な通行制限を提案」

 

「通さないの?」

 

 ランドマールが聞くと、部屋の何人かが微妙な顔をした。

 

 簡単な質問のはずなのに、簡単な質問ほど、大人は困った顔をする。

 

「通さない、というより、順番をつける必要がございます」

 

 軍務士官が答えた。

 

「順番」

 

「はい。軍用、民用、商隊、使節。それぞれの荷に優先順位がございます」

 

「先に通した荷の費用は、誰の印章で払うの?」

 

 部屋の空気が、少し変わった。

 

 順番だけなら食卓と同じだ。でも、荷車は皿ではない。動かした分だけ、どこかの台帳が減る。

 

「軍務費か、都市貴族議会の臨時枠か、そこも含めて御裁可を」

 

 ランドマールは頷いた。

 

 順番なら分かる。

 

 食卓にも順番がある。薬湯にも順番がある。母上に会う時も、侍女が名前を呼ぶ順番がある。

 

「じゃあ、迷わない順にしたらいいんじゃないかな」

 

 返事が遅れた分だけ、部屋の奥の筆記音が目立った。

 

 ランドマールは、少し不安になった。

 

 変なことを言ったのだろうか。

 

「迷わない順、とは」

 

 エルトラル侯爵が聞いた。

 

 この人は、いつも目が冷たい。けれど、話を聞く時だけ、少し本当に聞いている顔になる。

 

「だって、道で迷ったら遅れるでしょ。遅れたら、次の人も止まる。だったら、よく知ってる人から通した方がいいんじゃないかな」

 

 会議室の空気が動いた。

 

 軍務士官が、地図の黒い紐へ視線を落とす。

 

「西詰所側の案内記録を優先する、という解釈も可能です」

 

「王城の道ではなく、現地の道を知る者を先に置くわけですか」

 

 文官が口元を歪めた。

 

「王城が道を知らないと言いたいのですかな」

 

 ランドマールは首を傾げた。

 

「知らない道は、知らないんじゃないの?」

 

 今度は、誰かが咳払いをした。

 

 笑いかけたのを誤魔化したのかもしれない。

 

 ランドマールはそれで少し肩を落とした。怒られてはいないらしい。

 

「第三王子殿下の御意見は、現地記録を通行順位の参考にする、ということでよろしいでしょうか」

 

 侍従が静かに確認した。

 

 ランドマールは頷いた。

 

「うん。迷うと危ないから」

 

 危ない。

 

 その言葉を口にした瞬間、なぜか胸の奥が小さく痛んだ。

 

 誰かが迷った。誰かが帰ってこなかった。そんな気がした。

 

 顔は浮かばない。声も浮かばない。

 

 ただ、寒い廊下と、閉じた扉と、食べ物の匂いが嫌だった夜だけが、少し喉の奥に戻ってくる。

 

「殿下」

 

 侍従がそっと声をかけた。

 

 ランドマールは、目を瞬かせた。

 

「うん。続けて」

 

 会議は進む。第二王子派。帝国商隊。

 

 西回廊。通行許可。

 

 臨時都市貴族議会。どの言葉も、ランドマールには少し大きい。

 

 けれど、大きい言葉が部屋の中でぶつかるたび、誰かが自分の顔を見る。自分が頷くと、紙に線が引かれる。自分が首を傾げると、誰かの発言が止まる。

 

 それは少し怖い。

 

 でも、母上は言っていた。

 

 あなたがそこにいるだけで、乱暴な人たちは少し静かになるの。

 

 静かになるなら、いいことのはずだった。

 

 ランドマールは席を立たない。

 

 その足元で、ほどけた靴紐が、椅子の脚に少し絡んでいた。

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