ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《辺境者の歌》 四章 九節
『地図にない道は、歩かれてから初めて責任者を探す。』
2374- 第二王城地図室 記録官視点
地図にない道は、道ではない。
少なくとも、記録上はそうなる。
記録官は、黒い紐の端を指で押さえず、重しで留めた。手で押さえると、動かしているのが自分だと分かりすぎる。
濡れた道標。戻らない荷車。
相談票。三枚の紙が、同じ机の上に並んでいた。
「これを通行路として扱うのですか」
若い文官が聞いた。
「扱わない」
記録官は答えた。
「扱わないが、使われた道として記す」
「違いは」
「通行路なら整備責任が発生する。使われた道なら、まず調査責任だけで済む」
若い文官は、分かったような顔をした。
分かっていない顔でもあった。
そのくらいでいい。
最初から分かりすぎる者は、たいてい印章を急ぐ。
✶
黒い紐は、地図上で細かった。
細いから軽く見える。
実際には、そこを通った者がいる。
荷車が沈み、人が戻り、誰かが相談票を書いた。
地図にはまだ線がない。だが、相談票の泥汚れは同じ方向から来ていた。
記録官は、通行許可欄の横に「議会照会前」と書いた。
この一語で、誰かが怒る。
この一語がないと、別の誰かが責任を押しつけられる。
どちらにしても怒られるなら、後で読み返せる形にしておくしかない。
「羽黒承の関与は」
別の文官が聞いた。
「まだない」
「補給線に関わる可能性は」
「高い」
「では」
「名前を先に置くな」
記録官の声が、卓の上で強く返った。
若い文官が背筋を伸ばす。
記録官は、少し息を吐いた。
「名前を置けば、そこへ責任が寄る。責任が寄れば、次から全部その名前で処理される」
羽黒承。
使いやすい名前になりかけている。
使いやすい名前ほど、壊れるのも早い。
✶
地図室の窓は閉じていた。
雨は上がっているのに、紙は少し湿っている。
古い王城の壁が水を吸うせいだ。
記録官は、黒い紐の横に白い細紐を一本置いた。
調査未了。通行非推奨。
補給判断保留。短い言葉を三つ書く。
それだけで、地図にない道は、完全な空白ではなくなった。
道になったわけではない。
まだ、誰の道でもない。
それでも次に誰かがそこへ入る時、少なくとも何も知らずに踏むことはない。
記録官は、重しを一つ追加した。
黒い紐が、少し沈んだ。
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《辺境者の歌》 四章 十節
『立たぬ椅子にも出口の匂いは届き、座す者を裁く。』
2374- 第一王城会議室 ランドマール視点
ランドマール第三王子は、会議の途中で席を立たない。
それは美徳として語られていた。
集中力がある。
王族としての忍耐を知っている。
幼い顔立ちに似合わず、会議の空気を乱さない。
褒め言葉は、廊下を歩くたびに少しずつ形を変える。ランドマールはそれを聞くたびに、そうなんだ、と思う。
自分は会議の途中で席を立たないらしい。
立ちたい時がないわけではない。
窓の外で鳥が鳴いた時とか、机の下で靴紐がほどけているのに気づいた時とか、誰かが難しい言葉を三つ続けて言った時とか。
でも、母上が言っていた。
王族は、席にいることにも意味があるのよ。
だから、いる。
今日の会議室には、茶葉の匂いがしなかった。
代わりに、革と紙と、少し汗の匂いがする。年上の貴族たちは、きちんと服を整えているのに、長く話していると匂いが出る。ランドマールはそこで少し首を傾げた。
王の部屋というより、母上の言うところの「議会の部屋」に近い。
みんな王家の話をしているのに、机の上にあるのは許可証と回付印と写しばかりだった。
「西回廊の通行許可については、第三王子殿下の御裁可を仰ぎたく」
文官がそう言って、紙を差し出した。
ランドマールは受け取らない。
受け取らなくていい、と母上に言われている。
紙は誰かが読んでくれる。
自分は、必要な時に、必要なことだけ言えばいい。
「読んで」
隣にいた侍従が、小さく頭を下げた。
「第二王子派の使節団が、西回廊を通過する可能性あり。帝国商隊を名乗る一団も同時期に通行願を提出。軍務地図室は、道標の不備と荷車沈降の危険を理由に、一時的な通行制限を提案」
「通さないの?」
ランドマールが聞くと、部屋の何人かが微妙な顔をした。
簡単な質問のはずなのに、簡単な質問ほど、大人は困った顔をする。
「通さない、というより、順番をつける必要がございます」
軍務士官が答えた。
「順番」
「はい。軍用、民用、商隊、使節。それぞれの荷に優先順位がございます」
「先に通した荷の費用は、誰の印章で払うの?」
部屋の空気が、少し変わった。
順番だけなら食卓と同じだ。でも、荷車は皿ではない。動かした分だけ、どこかの台帳が減る。
「軍務費か、都市貴族議会の臨時枠か、そこも含めて御裁可を」
ランドマールは頷いた。
順番なら分かる。
食卓にも順番がある。薬湯にも順番がある。母上に会う時も、侍女が名前を呼ぶ順番がある。
「じゃあ、迷わない順にしたらいいんじゃないかな」
返事が遅れた分だけ、部屋の奥の筆記音が目立った。
ランドマールは、少し不安になった。
変なことを言ったのだろうか。
「迷わない順、とは」
エルトラル侯爵が聞いた。
この人は、いつも目が冷たい。けれど、話を聞く時だけ、少し本当に聞いている顔になる。
「だって、道で迷ったら遅れるでしょ。遅れたら、次の人も止まる。だったら、よく知ってる人から通した方がいいんじゃないかな」
会議室の空気が動いた。
軍務士官が、地図の黒い紐へ視線を落とす。
「西詰所側の案内記録を優先する、という解釈も可能です」
「王城の道ではなく、現地の道を知る者を先に置くわけですか」
文官が口元を歪めた。
「王城が道を知らないと言いたいのですかな」
ランドマールは首を傾げた。
「知らない道は、知らないんじゃないの?」
今度は、誰かが咳払いをした。
笑いかけたのを誤魔化したのかもしれない。
ランドマールはそれで少し肩を落とした。怒られてはいないらしい。
「第三王子殿下の御意見は、現地記録を通行順位の参考にする、ということでよろしいでしょうか」
侍従が静かに確認した。
ランドマールは頷いた。
「うん。迷うと危ないから」
危ない。
その言葉を口にした瞬間、なぜか胸の奥が小さく痛んだ。
誰かが迷った。誰かが帰ってこなかった。そんな気がした。
顔は浮かばない。声も浮かばない。
ただ、寒い廊下と、閉じた扉と、食べ物の匂いが嫌だった夜だけが、少し喉の奥に戻ってくる。
「殿下」
侍従がそっと声をかけた。
ランドマールは、目を瞬かせた。
「うん。続けて」
会議は進む。第二王子派。帝国商隊。
西回廊。通行許可。
臨時都市貴族議会。どの言葉も、ランドマールには少し大きい。
けれど、大きい言葉が部屋の中でぶつかるたび、誰かが自分の顔を見る。自分が頷くと、紙に線が引かれる。自分が首を傾げると、誰かの発言が止まる。
それは少し怖い。
でも、母上は言っていた。
あなたがそこにいるだけで、乱暴な人たちは少し静かになるの。
静かになるなら、いいことのはずだった。
ランドマールは席を立たない。
その足元で、ほどけた靴紐が、椅子の脚に少し絡んでいた。