ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~   作:ハルキーノ

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四章十三話 報告書の外側

《辺境者の歌》 四章 十三節

『報告書の外側には、文字にならぬ沈黙が封蝋を待つ。』

 

 西詰所の床は乾いていた。保守小屋で靴裏へ染みた泥が、ここでは白く乾いて剥がれた。

 

 保守小屋では、床も、壁も、空気も、どこか湿っていた。

 

 靴底の泥を落として中へ入ると、乾いた板の音がやけにはっきり響く。

 

 戻ってきた。

 

 そう思うより先に、荷袋の紐を確認した。

 

 地図、依頼票、水位のメモ、破損薬瓶の数、旧木炭道の崩落位置。

 

 ニコの怪我と借りた食料まで指で追う。

 

 全部ある。

 

 ニコは受付で別の職員に引き渡された。

 

 膝の傷を見せる時、少し嫌そうな顔をしたが、逃げはしなかった。

 

「怒られる?」

 

 小声で聞いてきた。

 

「たぶん、少し」

 

「またそれ」

 

「でも、道のことを言えば、次は止められる」

 

 ニコは不満そうに口を曲げた。

 

「じゃあ、少しでいい」

 

 そう言って、職員の方へ歩いていった。

 

 その背中を見送っていると、後ろから声がした。

 

「戻ったな」

 

 ラドさんだった。

 

 壁際に寄りかかり、片手に古い革手袋を持っている。

 

「戻りました」

 

「顔が濡れた紙みたいだぞ」

 

「雨でした」

 

 ラドさんは椅子を引かず、立ったまま僕の顔を見ていた。

 

「雨だけじゃそうはならん」

 

 言い返せなかった。

 

 ラドさんは少し笑い、顎で報告机を示した。

 

「先に書け。疲れたやつは、だいたい大事なところから忘れる」

 

「はい」

 

 相手は笑わず、僕が頷くまで待った。

 

 でも、優しい言葉でもない。

 

 現場で何度も誰かを見送って、戻ってきた顔を見た人の言い方だった。

 

 僕は報告机へ向かった。

 

 

 報告書には、依頼番号、出発時刻、帰着時刻、同行者、作業内容、消耗品、破損、怪我、異常、追加報告の欄がある。

 

 欄があると、少し安心する。どこに何を書けばいいか分かるからだ。でも、書き始めるとすぐに困った。

 

 書く前に、何を確かめたいかを先に決めた。数、位置、状態。この三つがそろえば、書ける気がした。

 

 前は、見えたものをただ並べるだけだった。今は、先に知りたい形を決めてから、記憶の中の数字を探しにいく。

 

 旧木炭道の崩落。これは異常。水位杭、一本と少し水没。

 

 これも異常。薬瓶二本破損。破損。

 

 ニコの膝。怪我。

 

 食料不足の恐れ。追加報告。

 

 では、荷台の陰に見えた3や、瓶の2、枝の2、足跡の5はどうなる。

 

 これはどこに書けばいい。僕は筆を止めた。書かなくてもいい。

 

 そう思えば、すぐに終わる。能力の見え方が揺れた。

 

 人以外の数を拾ったように見えた。見間違いかもしれない。

 

 そんなことを書けば、報告としては曖昧すぎる。

 

 書かなければ、次に同じ陰を見ても比較できない。

 

「止まったな」

 

 リゼルが机の向こうに立っていた。

 

「はい」

 

「書けないことか」

 

「書き方が分からないことです」

 

 彼は紙を見た。

 

 僕は迷った末、別紙を一枚取った。

 

「能力の視認について、未確定の記録があります」

 

「未確定」

 

「はい。人以外の数を、数字の形で見た可能性があります。ただ、見間違いか、目で数えたものを数字として認識しただけか、まだ分かりません」

 

 リゼルは黙っていた。笑わない。怒らない。

 

 リゼルが急かさなかったので、僕は別紙に短く書いた。

 

 荷馬車の陰には3のような視認があったが、実体は確認できていない。

 

 薬瓶の2、枝の2、旧道足跡の5については、それぞれ実数と一致した。

 

 ただし雨、木陰、疲労あり。現時点では断定不可。要経過観察。

 

 書き終えると、指先が少し痛かった。

 

 リゼルは紙を受け取り、目を通した。

 

「便利な能力だと扱われたいか」

 

 突然聞かれた。

 

「……分かりません」

 

「なら、今のまま書け。便利だと書きたいやつは、失敗を書かない」

 

 彼は別紙を報告書に挟んだ。

 

「これは残す」

 

「いいんですか」

 

「消す理由がない。断定していない。現場条件もある。次に同じ報告があれば比べられる」

 

 比べられる。その言葉で、胸の奥が少し軽くなった。答えではない。

 

 でも、次に渡せる形にはなる。報告書は、現場の全部を乗せられない。それでも、乗せようとした跡は残せる。

 

 

 返却棚に、貸与品を戻した。片手剣。小型魔導灯。

 

 予備の縄。縄には、泥がついていた。洗っても薄く色が残っている。

 

 剣は抜かなかった。魔導灯は、夜道を照らすだけだった。縄は、ニコを引き上げる時に泥を吸った。

 

 それでも三つとも、今日の仕事の中にあった。

 

 使用目的の欄へ、帰路確保と書いた。戦闘補助の文字は消さず、その下へ足した。

 

 受付職員がそれを見て、何も言わずに別の棚へ置いた。

 

 修繕確認の棚だ。

 

「汚損扱いになりますか」

 

「使用痕」

 

 職員は短く言った。

 

「助けるのに使ったなら、汚損じゃない。切れていないなら戻せる」

 

「はい」

 

 使用痕。いい言葉だった。汚した、ではない。

 

 使った。縄も、たぶん少し報われる。縄が報われるとは何だ。

 

 疲れている。ラドさんが横から覗き込んだ。

 

「縄を泥にして帰る新人は悪くない」

 

「そうなんですか」

 

「縄をきれいなまま持ち帰って、仲間を泥に沈めるやつよりましだ」

 

 相変わらず言い方が悪い。

 

 でも、意味は分かった。

 

 リゼルが奥から出てきて、報告書の控えを一枚机に置いた。

 

「旧木炭道は、明朝までに通行止め札を出す。保守組へ食料追加。荷運びの子の経路は見直し」

 

「止血瓶は」

 

 思わず聞いた。

 

 リゼルは、別の紙をめくった。

 

「巡回経由で上流へ回した。受領印はまだだが、夕方の便に乗っている」

 

「そうですか」

 

 短く返したつもりだった。

 

 でも、肩の奥から力が抜けたのが自分でも分かった。

 

 ラドさんが横で鼻を鳴らした。

 

「瓶四本でその顔なら、初めての討伐報酬を見たら倒れるぞ」

 

「たぶん、瓶の方が気になります」

 

「冒険者向いてねえな」

 

 机の端に置かれた空瓶が、灯りを細く返した。

 

「よく言われます」

 

 ラドさんは一瞬だけ黙り、それから笑った。

 

「なら、向いてないまま戻ってこい」

 

「ありがとうございます」

 

「礼じゃない。報告があったから動く」

 

 彼はそこで一度言葉を切った。

 

「次も、書けないと思ったことから書け」

 

「はい」

 

 僕は報告書の控えを受け取った。紙は薄くて軽い。持っていても音一つ立てない。

 

 沢の水より静かだ。でも、その紙で道に札が立つ。食料が追加される。

 

 ニコが次に旧道へ入る前に、誰かが止めるかもしれない。

 

 紙に乗らないものは多い。

 

 雨の冷たさ、板の硬さ、ニコの「痛くない」。

 

 女が貸してくれた干し芋や、老人の半分という言い方、数字が見え方を変えた時の気持ち悪さ。

 

 それでも、何も乗らないわけじゃない。

 

 机の向こうで、受付職員が別の紙をリゼルへ渡した。

 

「北支部から回覧です。第七廃棄鉱山地帯の遺物仮保管で盗難未遂。転移者班が関与、詳細は後報」

 

 遺物。転移者班。その二つの言葉だけが、妙に耳に残った。

 

 リゼルは紙を受け取り、眉を少し動かした。

 

「後でいい。今は旧木炭道を先に回せ」

 

「はい」

 

 紙はすぐ別の束の下へ入った。ほんの短い報告だった。でも、胸の奥に小さな引っかかりが残る。

 

 転移者班。誰のことだろう。聞きかけて、やめた。

 

 今の僕の報告書には、旧木炭道と止血瓶と、未確定の数字がある。

 

 それを先に終わらせなければならない。

 

 僕は控えを折り、荷袋の内側へ入れた。

 

 外へ出ると、夕方の光が西詰所の屋根に当たっていた。

 

 戻って、報告して、次の棚へ渡した。受付職員は控えへ時刻を足し、瓶の欄に受領印を押した。

 

 朝の僕なら、その印を三回くらい確認したと思う。今も二回見た。あまり変わっていない。

 

 ラドさんが扉の横で、古い手袋をはめ直していた。

 

「次は?」

 

「まだ決めていません」

 

「なら飯を食って寝ろ。決めるのはその後だ」

 

「はい」

 

 素直に返事が出た。腹が減っている。

 

 肩が重い。靴の中がまだ少し湿っている。

 

 それら全部を持ったまま、僕は食堂の方へ歩いた。

 

 誰も拍手しなかった。報告書の端に、瓶四本到着と追記が残った。

 

 でも、明日の道が一つ塞がれ、別の荷が一つ増える。

 

 僕は追記の乾きを待ってから、控えを閉じた。

 

 詰所の入口に、仮書きの板が立っている。

 

 名前はまだ正式じゃない。次に戻る時には、それを確認するのが当たり前になっていた。

 

 

 夜明け前の空は、まだ黒かった。

 

 ただ、完全な黒ではない。

 

 東の端だけ、薄い灰色が混じっている。

 

 保守小屋の屋根から落ちる雫の音が、一定の間隔で聞こえた。

 

 中では、保守組のイラが眠っている。ラドさんは少し離れた木の陰にいるはずだ。はず、だ。

 

 僕の位置からは見えない。手元には短い銃。

 

 支給品ではなく、詰所から借りた護身用の古いもの。小型魔導灯も、見張り用にもう一つ借りていた。

 

 弾は二発。二発。多いのか少ないのか、まだよく分からない。

 

 ただ、撃てば音が出る。音が出れば、眠っている人が起きる。近くにいるものも寄るかもしれない。

 

 銃は、強い。強いから、使うと場面が変わる。そんなことを考えていると、茂みが揺れた。

 

 人数を知りたい。まずそれを決めた。

 

 次に、殺意の有無。最後に、退路があるかどうか。

 

 三つ決めてから、意識を茂みへ向けた。決めてから見ると、前よりも数字が近くに感じる。近いだけで、出るとは限らない。

 

 数字は出ない。見えない。遠いのか。

 

 対象ではないのか。僕が見落としているのか。銃を上げる。

 

 肩に当てる。指は引き金にかけない。茂みの奥で、低い影が動いた。

 

 一つ。いや、分からない。僕は小型魔導灯を地面へ置いた。

 

 光を強くしすぎない。足元の石と、木の根だけが白く浮く程度。影が止まる。

 

 こっちを見ている。たぶん。僕は銃口を少し下げた。

 

 影の胴ではなく、手前の石。撃つなら、跳ねる音を作る。当てるつもりで撃たない。

 

 そう決めると、少し呼吸が戻った。影が一歩出た。獣か。

 

 魔物か。人か。まだ分からない。

 

「止まってください」

 

 声は低くした。返事はない。影がもう一歩。

 

 僕は魔導灯を足で少し押した。光が地面を滑り、影の足元へ伸びる。そこに、靴が見えた。

 

 人だ。銃口を上げそうになって、止めた。

 

 靴の形を見ただけで銃口を下げた自分に、判断が甘いのか、それとも数字が出ないことをようやく信じられたのか、どちらとも言い切れないまま、指だけは引き金からまだ離していなかった。

 

 人でも危険はある。でも、撃つ相手ではないかもしれない。

 

「止まってください。詰所の見張りです」

 

 少し嘘だ。正式な見張りではない。

 

 でも、今はそう言った方が通る。影が止まった。

 

「……道を間違えた」

 

 男の声だった。声がかすれている。酔っているのか、疲れているのか。

 

 僕は銃を下げない。でも、狙いもつけない。

 

「この先は保守小屋です。街道は戻って左です」

 

「水場は」

 

「ここにはありません」

 

 男は舌打ちした。その音で、茂みのさらに奥が少し揺れた。一人ではない。

 

 舌の裏に、渋い味が残った。でも、撃たない。

 

「人数を教えてください」

 

「二人だ」

 

 数字は出ない。

 

 でも、茂みの揺れは二つではない気がした。

 

「三人目も出してください」

 

 沈黙。長くはなかった。でも、指先には長かった。

 

 茂みの奥から、小柄な影が出た。荷袋を抱えている。

 

「迷っただけだ」

 

 男が言う。

 

「はい」

 

 僕は頷いた。

 

「なので、戻ってください」

 

「案内しろ」

 

「できません」

 

 僕は銃帯を押さえたまま、扉の方を見なかった。

 

「銃を持ってるだろ」

 

「だから、ここを離れられません」

 

 うまく言えたかは分からない。でも、男は黙った。

 

 後ろで枝が鳴る。ラドの声がした。

 

「その先は詰所の管理線だ。戻れ」

 

 男たちの空気が変わった。ラドさんの声は、僕の声よりずっと通る。影が下がる。

 

 一人。二人。三人。

 

 最後の一人が消えるまで、僕は銃を下げなかった。

 

 完全に見えなくなってから、肩の力が抜けた。

 

 弾は二発のまま。撃たなかった。撃てなかったのか、撃たなかったのか。

 

 たぶん、両方だ。ラドさんが横に来た。

 

「撃つと思った」

 

「僕も少し思いました」

 

「撃たなかったな」

 

「はい」

 

「理由」

 

 また理由だ。

 

 僕は魔導灯を拾った。

 

 地面に置いたせいで、金具に土がついている。

 

「撃つと、戻る道が増えなかったので」

 

 ラドさんは少し黙った。

 

「変な理由だ」

 

「すみません」

 

「悪くはない」

 

 それだけ言って、ラドさんは保守小屋の方へ戻った。

 

 東の空が、少し明るくなっている。僕は銃の弾を確認し、魔導灯の土を拭いた。撃たなかったことも、手帳に書く。

 

 夜明け前。不審者三。当初申告二。

 

 銃、構えのみ。魔導灯、足元照射。管理線を告げ、退去。

 

 発砲なし。その文字は、紙の上では軽く見えた。でも、指先にはまだ銃の重さが残っている。

 

 三ヶ月前なら、ただ怖くて数字を待っていた。

 

 今は、先に知りたいことを決めてから、数字を探しに行く。

 

 それでも、今日は外れた。人数も、殺意も、はっきりとは分からなかった。道具として使えている実感と、まだ外れる悔しさは、たぶん両方本当だ。

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