ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《辺境者の歌》 四章 十四節
『冷めた茶の面には、昨日の匂いが沈み、小さな神託となる。』
朝の協会支部は、落ち着いているように見えた。
桐谷幸は、食堂の長椅子に座り、冷めかけた茶の表面を見ていた。
昨日の迷宮の匂いが、まだ服の奥に残っている気がする。
錆。土。
油。閉じ込められた空気。
どれだけ手を洗っても、指先のどこかに残っている。
「桐谷、食べないのか」
三郷が向かいから聞いた。
「食べる」
そう答えて、硬いパンを小さく千切る。口に入れる。味はした。
でも、うまく飲み込めない。昨日、彼女たちは遺物を回収した。緊急救助信号装置 No.12。
そこに残っていた文字。忘れないでください。桐谷は、紙に写した名前の断片を思い出す。
煤けた壁。刻まれた日付。途中で途切れた文字。
全部を覚えることはできない。でも、忘れていいとも思えなかった。食堂の扉が開いた。
協会記録員のミラが立っていた。顔色が悪い。
「遺物が、消えました」
その一言で、食堂の音が止まった。
エリカが立ち上がる。
「保管庫から?」
「はい。封印前の仮保管棚から。鍵も記録も、正しい手順で開けられています」
登録された手順。
その言葉が、桐谷の耳に嫌な形で残った。
間違ったことが、登録された手順で起きる。
それは、昨日の迷宮より怖いかもしれなかった。
✶
追跡は、早かった。
エリカが保管庫の床についた泥を見つけ、山崎が外へ続く足跡を拾った。
佐々木は監視記録の抜けを確認し、三郷は協会職員の動線を聞き取った。
桐谷は、盗んだ相手の顔を見ていない。
それでも、射線の残り方や窓の位置を見て、逃げた相手が銃を使う人間だと分かった。
分かってしまうことがある。役に立つと思っていた。でも、分かるほど、嫌な想像も増える。
昼前、彼らは廃鉱山街跡へ入った。かつて鉱夫たちが暮らしていた町。
今は窓の割れた建物と、傾いた看板だけが残っている。
風が吹くと、どこかで金属片が鳴った。
「昨日の迷宮より、こっちの方が嫌だな」
山崎が小さく言った。
「人が住んでた跡だから?」
桐谷が聞く。
「たぶん」
山崎は銃を握り直した。
古い酒場の前に、黒いコートの男が立っていた。
顔の下半分を布で覆っている。片手に、布で包まれた金属箱。
遺物。桐谷の喉が締まった。
「返してもらう」
エリカが言った。
男は笑わなかった。
「返す? 誰に」
「協会に」
「協会は、あれを誰から預かった」
答える前に、男の喉が一度だけ動いた。
男は布を少し開いた。
錆びた金属箱の端が見える。
「俺の父は、第七鉱区で死んだ。母は、その後に死んだ。協会は五十年経って、父の最後の言葉に値段をつけた」
三郷が息を吸った。
「でも、遺物を放置したら迷宮が不安定になる」
「そうだろうな」
男は頷いた。
「俺も、それを調べた。だから壊す気はない。売る気もない」
「なら、どうするつもりですか」
桐谷の声が出た。
自分でも驚くくらい、細い声だった。
男は桐谷を見た。
「名前を返す」
「名前?」
「箱に残った言葉を、協会の棚じゃなく、鉱山街の慰霊碑に置く。封印が必要なら、そこでやれ。金庫の奥で番号にするな」
間違っている。たぶん。手順としては間違っている。
盗んだ。逃げた。銃を持っている。
でも、男の言葉の全部を間違いだとは言えなかった。
桐谷は昨日写した文字を思い出した。忘れないでください。
忘れないために保管する。忘れないために名前を返す。
どちらを選べば、あの文字を粗末にしないで済むのか。
分からない。
分からないまま、男が銃を抜いた。
「下がって」
桐谷は反射で言った。
次の瞬間、銃声が鳴った。
桐谷の弾は、男の銃を弾いた。
山崎の弾が足元を割り、三郷の氷が男の退路を塞ぐ。
佐々木が踏み込み、男の腕を押さえた。速かった。訓練通りより、ずっと速い。
男は地面に膝をついた。遺物は、エリカが受け止めた。
勝った。でも、誰も声を上げなかった。
男は押さえつけられたまま、錆びた箱を見ていた。
「父さん」
そう呟いた。
その声が、桐谷の耳に残った。
✶
夕方、遺物は協会支部へ戻された。
ただし、前と同じ棚には戻らなかった。
ミラが記録を作り直し、エリカが支部長と長く話した。
慰霊碑への複製銘板。遺族会への通知。封印場所の公開範囲。
難しい言葉がいくつも出た。桐谷には、全部は分からない。
でも、昨日とは何かが少し変わったのだと思った。
三郷は黙っていた。
佐々木も、名鑑を読んでいた時のような顔をしている。
山崎は銃の手入れをしていたが、いつもより手が遅かった。
「私たち、正しかったのかな」
桐谷が言うと、三郷が顔を上げた。
「盗ませるわけにはいかなかった」
「うん」
「撃たせるわけにもいかなかった」
「うん」
「でも、それで全部終わりじゃないんだろ」
三郷は膝の上の記録紙へ目を落とした。
昨日、桐谷と一緒に写した名前の断片。
「これ、清書しよう。読めるところだけでも」
桐谷は頷いた。正しさは、たぶん一枚では足りない。報告書。
封印記録。遺族への通知。慰霊碑の銘板。
それから、桐谷たちが震える字で写した、誰かの名前。
全部がそろっても、まだ足りないかもしれない。
でも、一枚もなければ、もっと足りない。
桐谷はペンを取った。
指先が少し震えている。
昨日の迷宮で見た文字を、思い出せるだけ書く。
間違えないように。
消してしまわないように。
英雄扱いされることは、前より少し怖くなっていた。
けれど、その怖さがあるなら、まだましなのかもしれない。
桐谷は紙に最初の名前を書いた。
その文字は、小さかった。