ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《辺境者の歌》 四章 二十二節
『笑う声に石を投げられても、旗は風の名を失わない。』
翌朝、掲示板の前には人が多かった。
雨が上がったせいか、依頼票の貼り替えも多い。
討伐。護衛。荷運び。
保守。巡回。修繕。
紙が並ぶと、世界が急に分かったような顔をする。
でも、紙の奥には道があり、雨があり、人がいる。
それを忘れないように、僕は端から読んでいた。
「おい、あれだろ」
後ろで声がした。
「王城上がりが雑用クラン作るって話」
雑用クラン。
その言葉は、軽く刺さった。
振り返ると、見覚えの薄い冒険者が三人いた。
革鎧の男。細い槍を持った女。大きな背嚢を背負った若い男。
頭の上に数字が見える。13。19。
7。数字は安定している。少なくとも、今は。
「雑用専門なら、うちの靴も磨いてくれよ」
革鎧の男が笑った。周りの何人かも、少し笑う。強い悪意ではない。
からかい。軽口。現場の朝によくある、雑な声。
でも、そういう声は残る。僕は何か言おうとして、やめた。
言い返す言葉が、すぐには見つからなかった。
見つかったとして、たぶんあまり役に立たない。
「靴磨きは受けるな」
横からラドさんの声がした。
「単価が安い」
そっちですか。
思わずそう言いそうになった。
ラドさんは革鎧の男を見た。
「お前の靴は、磨くより捨てた方が早い」
「ひでえな」
「事実だ」
周りの笑いが少し変わった。僕に向いていたものが、横へ流れる。助けられた。
たぶん。でも、それだけで終わるのは嫌だった。
その時、荷置き場の方で木箱が倒れる音がした。
乾いた音。
続いて、誰かの短い舌打ち。
受付職員が顔を上げる。
「北巡回の荷札、誰か見て」
声が飛んだ。僕は反射で足を向けた。雑用組。
頭の中で、その言葉がもう一度鳴る。だったら、まず雑用をする。笑われたことは、あとで考えればいい。
✶
荷置き場では、木箱が三つ倒れていた。中身は布袋。乾いた豆。
替えの釘。小型魔導灯の油瓶。
油瓶が無事だと分かると、誰かが止めていた息を吐いた。
「荷札が混ざった」
受付職員が言った。
「北巡回、東補修、南の馬車便。三つ」
僕は箱の側面を見た。札は濡れていない。ただ、紐がほどけて床に落ちている。
頭の端で、数字がちらついた。3。箱の数。
荷札の数。行き先の数。今度は驚かない。
驚かないはずなのに、今日はいつもと少し違った。3の隣に、細い文字が並んで浮く。重、量、差。
読めそうで読めない。三つとも薄く、瞬きの間に位置がずれる。まるで書きかけの札を三枚重ねて見せられているみたいだ。
一枚だけなら読める。三枚同時は、まだ無理だ。目の奥が軽く痛んで、数字の並びが崩れた。
残ったのは3だけだった。都合よく便利にはならない。それでも、今までは滲んで消えるだけだった位置に、一瞬だけ「重」の字らしきものが立っていた気がする。
まず、目で数える。箱が三つ。荷札が三枚。
行き先が三つ。合っている。次に中身を見る。
乾いた豆は北巡回。釘は東補修。油瓶は南の馬車便。
そう決めかけて、止まった。北巡回にも釘はいる。東補修にも豆はいるかもしれない。
油瓶は、どこでも使う。中身だけでは決められない。箱の底を見る。
泥のつき方が違った。一つは赤土。
一つは黒い泥。一つは乾いた砂。
北巡回の荷は、昨日の雨で黒い泥がつくはずだ。
東補修は赤土の地区。
南の馬車便は屋根付きの倉庫から出るから、砂が多い。
たぶん。
たぶんでは足りない。
「積み出し記録はありますか」
受付職員が紙束を渡してくれた。記録と照らす。箱の底。
中身。札。北巡回、黒い泥。
東補修、赤土。南馬車、乾いた砂。
「これで合うと思います」
僕は札を戻した。
「思います?」
受付職員が聞く。
「記録と底の泥と中身が合っています。油瓶の数だけ、南馬車便で再確認してください」
「分かった」
職員は油瓶を数えた。
「六本。記録通り」
その瞬間、肩が少し下がった。
合っていた。
でも、合っていたからといって、数字が答えをくれたわけではない。
最初に3が見えた気がした。そのあと、手で数えた。泥を見た。
記録を見た。人に数えてもらった。そこまでして、ようやく札が戻る。
「雑用クラン、もう営業開始か」
さっきの革鎧の男が言った。
また笑いが起きかけた。
でも、受付職員が先に口を開いた。
「助かった。これ、間違えると北巡回が油瓶抱えて豆なしで出るところだった」
笑いが少し小さくなった。
革鎧の男は肩をすくめる。
「そりゃ大変だ」
「大変です」
声は普通に出た。
「豆なしで雨の巡回に出るのは、たぶん靴が汚いより困ります」
一瞬、静かになった。
それからラドさんが吹き出した。
「言うじゃねえか、雑用」
革鎧の男も、少し遅れて笑った。
「分かったよ。靴は自分で磨く」
「その方が安いです」
また笑いが起きた。今度の笑いは、少し違った。全部が好意になったわけではない。
軽く見られていることも変わらない。でも、荷札は戻った。
北巡回は、豆を持って出られる。それで今は十分だった。
✶
報告机へ戻ると、申請書の余白に書いた「道しるべ」がまだ残っていた。
その横に、受付職員が小さな紙を置いた。荷札確認補助。
未登録。協力者、羽黒承。
「記録に残しておく」
「今のもですか」
「今のも」
紙に残る。旧木炭道ほど大きくはない。止血瓶ほど急ぎでもない。
でも、豆の行き先が戻った。僕は申請書の構成員欄を見た。まだ空白だ。
お前を止めるやつ。荷札を一緒に数えるやつ。
僕が見えた数字を、もう一度手で数えてくれるやつ。
必要なものが、少しずつ見えてくる。
クランを作るというのは、看板を出すことだと思っていた。
でも、たぶんそれだけではない。
自分の見間違いを、誰かの手で止められる形にすること。
そのための名簿なのかもしれない。
申請書は、昨日より少し狭く見えた。